第62話 定めなき法に、疑念は生まれる
書状に目を通していた吉宗のもとに、久通が小走りにやって来た。
「上様、大岡殿と石河殿が、謁見を願い出ております」
「……町奉行の二人揃って、か」
吉宗は書状を置き、視線を窓の外へと向ける。梅雨入り前の空は、どこか張り詰めたように曇っていた。
*
「「本日は急な謁見、誠に申し訳ございません」」
二人の町奉行は姿勢を正し、深く頭を垂れた。
一呼吸おいて、北町奉行・石河政朝が顔を上げ、静かに口を開いた。
「実は、上様にお願いがあり、参上いたしました」
吉宗は軽く眉を上げた。
「ふたり揃っての願いとなれば、ただ事ではあるまいな。申してみよ」
吉宗が目を細め、真剣な面持ちでふたりを見つめる。
政朝はひとつ深く息を吸い、まっすぐに言葉を紡ぎ出した。
「はっ。上様。近頃、町奉行としての務めを果たす中で、強く思うことがございます」
「……それは、同じ罪に対して、裁く者により刑が異なるという現状にございます」
吉宗の表情がわずかに動く。政朝は言葉を続けた。
「罪科において、百叩きとなる者もいれば、追放や禁固を命じられる者もある。中には説諭のみで済む者すらおり、民のあいだには“不公平”との声も上がっております」
「このままでは、民の間に疑念が生まれ、やがてはお上への信も揺の揺らぎにもつながりましょう。それは、治世において由々しき事態。……私は、法を明文化すべきと考えております」
政朝の言葉に、吉宗はしばし沈黙した。
「……なるほど。“明文化すべき”か」
軽く頷いた後、隣に控える忠相の方へ視線を向ける。
「忠相も、同じ意見か?」
「はい、上様」
忠相は一歩進み出て、静かに答える。
「法を定めることで、状況に応じた柔軟な裁きは難しくなります。しかし、それでも――ある程度の基準を設けておくことは、必要であると考えております」
吉宗は目を伏せ、再び考え込むように顎に手を添えた。部屋の空気が、静かに張り詰めていく。
やがて、
「――わかった」
と低く口を開いた。
「ふたりの申すことも、もっともだ。確かにこのままでは、裁きを受ける側に不信が残る。法が明文化されていなければ、裁く者も、裁かれる者も迷う」
そして顔を上げ、はっきりとした声で告げた。
「後日、南北町奉行に加え、勘定奉行、寺社奉行、老中の松平乗邑を中心に、法の整備についての協議を行わせよう。必要な人材を集め、話し合いの場を設けよ」
政朝と忠相は、深く頭を下げた。
「「ははっ」」
静かに、しかし確かに――
法を整えるという、新たな一歩が踏み出された瞬間だった。
*
謁見を終え、部屋に戻った吉宗は、畳の上にどさりと腰を下ろした。
「……まさか、刑法みたいなものが、いままでなかったなんて……」
信じられないというように天井を見上げる。
「罪と罰の基準が全部奉行の判断? 冗談でしょ……。え、じゃあ同じ泥棒でも、ある人は打たれて、別の人は放免って……。冤罪とかも多かったんじゃないの?」
ぽつりとつぶやくと、ぞわりと背筋に冷たいものが走った。
「いや、怖い怖い怖い……。現代だったら大問題よ!? ニュースでワイドショーが連日取り上げて、ネットは炎上祭りよ!? よく暴動にならなかったわね……って、あったか、一揆……」
両手で顔を覆って、小さくため息をつく。
「なんとかしなきゃ……ほんとに、江戸時代って恐ろしい……」
今回は、町奉行・石河政朝が「同じ罪に対する裁きが人によって異なる」という不公平さに疑問を抱き、大岡忠相とともに上様へ進言するお話でした。
現代の感覚からすると、法が整っていないことに驚くかもしれませんが、当時は裁きの多くが奉行の裁量に任されていた時代。
吉宗もこっそり震え上がっていましたね。
次回は、いよいよ奉行たちが集まり、「法を明文化する」ための話し合いが始まります。
江戸時代版・刑法制定物語、どうぞお楽しみに!
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