第60話 米の行方、民の声──見えぬ火種
江戸の春。
穏やかな陽気のなか、城下の高札場には人だかりができていた。
「なんだなんだ……また新しいお触れか?」
「米の売買に関わる法じゃとよ」
ざわめく町人たちのあいだから、古びた札を読み上げる声が響く。
――今後、農民による米の売却は、所定の役所の許可を得て行うこと。
――問屋による仕入れも、幕府及び大名家の需要を優先し、それ以外の取引は届け出制とする。
――違反者には所定の罰が科されるものとする。
「……こりゃあ、大事になってきたな」
「豊作続きで米の値がだぶついとったが、とうとう幕府が動いたか」
読み終えた声に、ため息まじりの声が重なる。
「上様の思し召しと聞いたぞ。米の値を立て直すためらしいが……」
風に揺れる高札の紙。
その向こうには、静かに始まった新たな改革の気配が、町の空に広がっていた。
*
高札が掲げられたその日の夕刻、江戸・日本橋の一角にある米問屋の店先では、数人の男たちが集まっていた。
「ついに、出たな……流通規制のお触れが」
帳場の奥で帳面を繰っていた番頭が、小さくうなずく。
「ええ、噂には聞いておりましたが、まさか“農民からの買い入れには許可が要る”とは。幕府も本腰を入れましたね」
「まぁ、我らにとっては悪い話ではないさ。値崩れが止まれば、むしろ歓迎すべきことだ。とはいえ……」
と、別の若い手代が苦々しい顔をする。
「これから農民は、大変になるでしょうね」
「それも仕方あるまい。年貢を納めてなお余剰を売って儲けようというのが、そもそも無理な話だったのさ」
男たちは、納屋に積まれた米俵を見やりながら、複雑な面持ちでため息をついた。
「ったく、今さら何を言い出すかと思えば……」
「でもよ、本気で取り締まるってんなら、問屋の連中にも手が回るんじゃねぇのか?」
「どうせ今回も、“建前”ってやつだろ。昔っからお上は口ばっかだ。高札出しゃ、仕事した気になりやがる」
「そうそう、問屋だって“知らぬ存ぜぬ”で買ってくれるさ。こっちだって、ただで働いてるわけじゃねぇ」
「ま、様子見ってとこだな。流れに乗りゃ、何とかなるさ」
ざわ、と風が吹き抜け、稲穂の先が揺れる。
男たちは鍬を担ぎ直し、それぞれの家路へと散っていった。
──だが、彼らはまだ知らなかった。
その“建前”が、今回は“本気”であるということを。
*
「南町奉行、大岡忠相越前守である!」
店の戸が勢いよく開かれ、威厳ある声が響いた。
同時に数人の同心たちが中に雪崩れ込む。
「これより、幕府の御触れに基づき、米の不正入手の有無について取り調べを行う。帳簿を出せ」
「ひ、ひへぇっ……!」
問屋の番頭が慌てて帳面を差し出す。
同心たちは手際よく目を通し、出納帳や仕入れ帳を次々とめくっていく。
「ふむ……これは?」
一人の同心が、妙な記載に気づき声を上げた。
「……これは妙だな。雑費の項目に、月を追うごとに不自然に大きな出金がある」
別の同心が頷く。
「しかも、この出金と仕入帳の内容が合わぬ。米の仕入れ量に対して、売上が妙に多い……」
「つまり、帳簿にない米が売られている、ということだな」
忠相が鋭く言い放つと、場が静まり返った。
「この差額……どこから仕入れたのだ?」
番頭が冷や汗を垂らし、しどろもどろになる。
「そ、それは、その……」
「申せ。農民からの闇米か? 許可なき売買は、幕府の御法度だ」
「い、いや、その……!」
「言い逃れは無用。帳簿の数字が、すでに証拠となっておるわ」
忠相が扇子をたたんで腰に差し、背筋を伸ばして告げる。
「店主を召し捕れ。屋敷も改め、裏付けを取れ」
*
その数日後。
町の外れにある米問屋の前に、手押し車を引いた農民の姿があった。
「すまん、ちょいと余った米があるんでな。いつものように、少しだけでも買ってくれねぇか?」
農民は腰をかがめ、問屋の店先に声をかける。
だが、店の奥から現れた番頭は、どこかこわばった顔で頭を下げた。
「……申し訳ありやせん。今は、勝手な買い入れは一切できねぇ決まりになってまして」
「決まり? なんだい、いつもなら帳面なんざ書かずに、口約束でちゃちゃっと済んでたじゃねぇか」
「それが……この前、奉行所の御役人が来ましてな。帳簿も全部調べられて、今じゃ一文たりとも“裏”はできねぇんですよ。下手すりゃ、店ごと潰されやす」
農民はぎょっと目を見開いた。
「ま、まさか……おまえんとこ、誰かしょっ引かれたのか?」
番頭は小さくうなずいた。
「主人が……その、しばらく戻ってきやせん。だから、今はどこも“御触れどおり”でしか動けねぇ。悪ぃな、ほんとに」
農民は、黙って俵の上に視線を落とした。
「……こちとら、これ売らねぇと次の肥料も買えねぇってのによ。なんでいつもいつも、上の都合ばかりなんだ」
呟きは風にさらわれ、夕暮れの町に消えていった。
俵の中の米は、売れずに残された――。
今回、幕府による米の流通管理制度が実施されました。
米価の下落に歯止めがかかり、幕府の財政もひとまず安定に向かいます。
しかしその裏で、余剰米を売って生計を立てていた農民たちの不満は、徐々に積み重なっていきました。
取り締まりの厳格化は、庶民にとって“暮らしを縛るもの”として受け取られたのです。
けれど、上様・吉宗はまだそれを知りません。
次第に広がっていく不満の声が、やがてどんな影を落とすのか……
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