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第60話 米の行方、民の声──見えぬ火種

江戸の春。

穏やかな陽気のなか、城下の高札場には人だかりができていた。


「なんだなんだ……また新しいお触れか?」

「米の売買に関わる法じゃとよ」

ざわめく町人たちのあいだから、古びた札を読み上げる声が響く。


――今後、農民による米の売却は、所定の役所の許可を得て行うこと。

――問屋による仕入れも、幕府及び大名家の需要を優先し、それ以外の取引は届け出制とする。

――違反者には所定の罰が科されるものとする。


「……こりゃあ、大事になってきたな」

「豊作続きで米の値がだぶついとったが、とうとう幕府が動いたか」


読み終えた声に、ため息まじりの声が重なる。


「上様の思し召しと聞いたぞ。米の値を立て直すためらしいが……」


風に揺れる高札の紙。

その向こうには、静かに始まった新たな改革の気配が、町の空に広がっていた。



高札が掲げられたその日の夕刻、江戸・日本橋の一角にある米問屋の店先では、数人の男たちが集まっていた。


「ついに、出たな……流通規制のお触れが」


帳場の奥で帳面を繰っていた番頭が、小さくうなずく。


「ええ、噂には聞いておりましたが、まさか“農民からの買い入れには許可が要る”とは。幕府も本腰を入れましたね」


「まぁ、我らにとっては悪い話ではないさ。値崩れが止まれば、むしろ歓迎すべきことだ。とはいえ……」


と、別の若い手代が苦々しい顔をする。


「これから農民は、大変になるでしょうね」


「それも仕方あるまい。年貢を納めてなお余剰を売って儲けようというのが、そもそも無理な話だったのさ」


男たちは、納屋に積まれた米俵を見やりながら、複雑な面持ちでため息をついた。


「ったく、今さら何を言い出すかと思えば……」


「でもよ、本気で取り締まるってんなら、問屋の連中にも手が回るんじゃねぇのか?」


「どうせ今回も、“建前”ってやつだろ。昔っからお上は口ばっかだ。高札出しゃ、仕事した気になりやがる」


「そうそう、問屋だって“知らぬ存ぜぬ”で買ってくれるさ。こっちだって、ただで働いてるわけじゃねぇ」


「ま、様子見ってとこだな。流れに乗りゃ、何とかなるさ」


ざわ、と風が吹き抜け、稲穂の先が揺れる。


男たちは鍬を担ぎ直し、それぞれの家路へと散っていった。


──だが、彼らはまだ知らなかった。


その“建前”が、今回は“本気”であるということを。



「南町奉行、大岡忠相越前守である!」


店の戸が勢いよく開かれ、威厳ある声が響いた。

同時に数人の同心たちが中に雪崩れ込む。


「これより、幕府の御触れに基づき、米の不正入手の有無について取り調べを行う。帳簿を出せ」


「ひ、ひへぇっ……!」


問屋の番頭が慌てて帳面を差し出す。

同心たちは手際よく目を通し、出納帳や仕入れ帳を次々とめくっていく。


「ふむ……これは?」

一人の同心が、妙な記載に気づき声を上げた。


「……これは妙だな。雑費の項目に、月を追うごとに不自然に大きな出金がある」


別の同心が頷く。


「しかも、この出金と仕入帳の内容が合わぬ。米の仕入れ量に対して、売上が妙に多い……」


「つまり、帳簿にない米が売られている、ということだな」


忠相が鋭く言い放つと、場が静まり返った。


「この差額……どこから仕入れたのだ?」


番頭が冷や汗を垂らし、しどろもどろになる。


「そ、それは、その……」


「申せ。農民からの闇米か? 許可なき売買は、幕府の御法度だ」


「い、いや、その……!」


「言い逃れは無用。帳簿の数字が、すでに証拠となっておるわ」


忠相が扇子をたたんで腰に差し、背筋を伸ばして告げる。


「店主を召し捕れ。屋敷も改め、裏付けを取れ」



その数日後。

町の外れにある米問屋の前に、手押し車を引いた農民の姿があった。


「すまん、ちょいと余った米があるんでな。いつものように、少しだけでも買ってくれねぇか?」


農民は腰をかがめ、問屋の店先に声をかける。

だが、店の奥から現れた番頭は、どこかこわばった顔で頭を下げた。


「……申し訳ありやせん。今は、勝手な買い入れは一切できねぇ決まりになってまして」


「決まり? なんだい、いつもなら帳面なんざ書かずに、口約束でちゃちゃっと済んでたじゃねぇか」


「それが……この前、奉行所の御役人が来ましてな。帳簿も全部調べられて、今じゃ一文たりとも“裏”はできねぇんですよ。下手すりゃ、店ごと潰されやす」


農民はぎょっと目を見開いた。


「ま、まさか……おまえんとこ、誰かしょっ引かれたのか?」


番頭は小さくうなずいた。


「主人が……その、しばらく戻ってきやせん。だから、今はどこも“御触れどおり”でしか動けねぇ。悪ぃな、ほんとに」


農民は、黙って俵の上に視線を落とした。


「……こちとら、これ売らねぇと次の肥料も買えねぇってのによ。なんでいつもいつも、上の都合ばかりなんだ」


呟きは風にさらわれ、夕暮れの町に消えていった。

俵の中の米は、売れずに残された――。


今回、幕府による米の流通管理制度が実施されました。

米価の下落に歯止めがかかり、幕府の財政もひとまず安定に向かいます。

しかしその裏で、余剰米を売って生計を立てていた農民たちの不満は、徐々に積み重なっていきました。

取り締まりの厳格化は、庶民にとって“暮らしを縛るもの”として受け取られたのです。


けれど、上様・吉宗はまだそれを知りません。

次第に広がっていく不満の声が、やがてどんな影を落とすのか……


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