第58話 米価の罠――豊作が招く落とし穴
城下から戻った吉宗は、衣を整える暇も惜しんで、すぐさま声をかけた。
「勘定奉行を呼べ。至急じゃ」
その声に、側近たちが慌ただしく動き出す。
やがて勘定奉行が参上すると、吉宗は間髪入れずに問いかけた。
「――こたびの米価の急落、承知しておるか」
勘定奉行は深く頭を下げた。
「はい、上様。すでに昨年の豊作の影響が出ており、米問屋の買い控え、備蓄倉の満杯などが重なり、相場は半値に近い暴落でございます」
勘定奉行の報告に、吉宗は眉をひそめた。
城下の口入れ屋の行列、困窮する侍たちの姿が脳裏に蘇る。
「なぜだ。問屋が買い控えているというならば、流通する米は減るはず――それなら、値は安定するのではないか?」
静かに放たれた問いかけに、勘定奉行は一瞬言葉を選ぶように目を伏せた。
「さように見えますが、実際は逆にございます。
すでに問屋の備蓄倉は満杯、蔵には米があふれており、これ以上の仕入れを避けております。
しかも、昨年の豊作により、農民が年貢とは別に自家米を直接問屋に売り込む例が急増。これが米の流通量をさらに押し上げ、値下げ競争の要因となっております」
奉行は顔を上げ、資料をそっと広げながら言葉を続ける。
「ふむ……それでは幕府から買った米も、売りさばけぬと?」
吉宗は腕を組み、深く考え込む。
「はっ」
奉行は一歩進み、声を少し低めた。
「問屋はこれ以上米価が下がれば利益が出ぬため、幕府からの米の仕入れを渋っております。
しかし、幕府側も長く米を保管すれば傷みが出て、値もつかぬ。
そのため、問屋に少しでも買ってもらおうと価格を下げ――結果として、値崩れが加速しております。まさに、悪循環にございます」
勘定奉行の言葉に、吉宗は顎に手を添え、しばし考え込んだ。
「……米というのは、そんなにすぐに駄目になるものなのか?」
(現代で政府が備蓄米を放出したとき、たしか“古古古古米”まであった気がする。ってことは、四〜五年はいけるんじゃ?)
「はい、乾いた状態で保てば、年を越すことは可能にございます。
しかし、御蔵に積まれた米は湿気や虫、カビの心配がございますゆえ、三年も置けば、炊いても食せぬ代物と化しまする」
(そっかぁ、現代は温度も湿度もきっちり管理された倉庫で保管してたもんね。江戸でそれは……無理か)
静寂が広間を包んだ。
吉宗は小さく息を吐き、床の一点を見つめたまま思案に沈む。
「――これは早急に、何か対策を打たねばならぬな」
その言葉に、勘定奉行は背筋を正し、深々と頭を下げた。
お米が“税”だった当時は、米価の変動が幕府や武士の収入に直結していました。
現代では「米が安いのはありがたい」と感じますが、江戸時代の幕府にとっては大問題だったのですね。
そんな中、吉宗はこの米価下落の悪循環をどう断ち切るのか――。
次回はそのあたりを掘り下げて描いていきたいと思います。
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