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第55話 見よ、民の姿を――施療所への道

江戸城・御用部屋。


朝の用事を終えた老中たちが、吉宗の呼び出しに応じて再び顔を揃えていた。

本日は、先の話し合いで決まりかけた「施療所」の件について、現場の視察を行う手はずである――

……と、誰もがそう思っていた。


「本日は、まず一箇所……皆に見てもらいたい場所がある」


そう告げた吉宗は、老中たちを率いて南町奉行所へと向かった。



奉行所の奥、土間に面した一角。

畳も敷かれておらず、粗末な机と筆記用具だけが並ぶ取り調べの場。


若い男が縄を打たれたまま、正座していた。

服は薄汚れ、顔には幾日も洗っていない痕が残っている。

それでも瞳だけはどこか必死で、どこか痛ましい。


「――おっかぁが、病で……」


震える声が奉行所の板壁に反響する。


「咳が止まらなくなって、飯も食えねぇ。なのに薬屋じゃ高ぇ金がいるって言われて……」


役人が筆を走らせる音が、静かに響く。


「だからって、盗みに入ったのか」


取り調べの同心が問いかけると、男はうつむいたまま、かすかにうなずいた。


「わかってます……いけねぇことだってのは。でも、でもよ……他に手がなかったんだ」


吉宗と老中たちは、障子越しの帳の奥からその様子を見守っていた。

横にいた忠相が、声を潜めて言う。


「盗んだのは米と、薬一包……」


「薬か」と阿部正武がわずかに眉をひそめた。


「取り押さえたとき、懐に薬の包みがございました。高熱で伏せていた母親のため、とのことにございます」


忠相が吉宗に向かって、小さくうなずいた。


「家を訪ねた際には、母親は意識もうろうで……診立てによれば、衰弱がひどく、薬も間に合わぬやもしれませぬ」


水野忠之が唇を結んだまま、目を伏せる。


「……貧しき者の、苦しき現実か」


水野忠之が腕を組み、苦々しい顔をする。 

部屋には、重く、やるせない空気が流れていた。




奉行所をあとにし、吉宗一行は遠回りをして、静かに吉原の外れへと足を向けた。


「本日はもう一箇所、皆に見てもらいたい場所がある」


傘を深く被った吉宗が小さく言うと、水野忠之がわずかに眉をひそめた。


「上様……まさか、遊郭に?」


「ただの見物ではない」


その先に待っていたのは、一軒の引手茶屋。

岡っ引きが小声で事情を説明した。


「この娘にございます。母親が胸を病んでおり、薬代のために――父親の手で吉原に売られました。まだ十四。昨年まで町の紙屋で働いておりました」


部屋の奥。

小柄な娘が、膝を抱えたまま小さく座っている。


顔を上げた娘の目は、赤く腫れていた。

声は震えながらも、静かに響く。


「……あたしは、売られたくなんて、なかった。けど、おっかぁが……おっかぁが死ぬのだけは、いやだった」


誰も、言葉を発せられなかった。


やがて吉宗がぽつりと漏らした。


「……これもまた、貧しさが生んだ苦しみ。薬ひとつ買えぬがゆえに、娘が未来を奪われる」


阿部正武が黙って目を閉じ、ただ一歩後ろに下がった。



小川笙船が案内するまま、一行は施療所の奥へと進んだ。

粗末な戸板に横たわる患者たちの寝息と、薬草の匂いが静かに満ちている。


笙船は立ち止まり、老中たちに向き直った。


「……ここにたどり着ける者は、まだ幸せでございます。足を運べるだけの余力や財がある者、あるいは身内に支えられている者。そうでない者たちは、先ほどご覧いただいたような――あるいは、もっと過酷な状況にございます」


老中たちの視線が、自然と床に伏す患者たちへ向けられる。


「そして、またーー中には、長患いの薬代がかさみ、支払いに困った末に娘を売った親もおります。私どもではなるべく、高価な薬は使わぬよう工夫しておりますが……病によっては、そうも参りませぬ」


水野忠之が、思わず小さく息を吐いた。


「……ここまでとは、思わなかった」


吉宗は静かに言葉を継いだ。


「わしが言いたかったのは、まさにこのことだ。病に倒れた者を、金の有無で分けてはならぬ。たとえひとつの小さな施療所であろうと、命を救えるなら――」


老中・阿部正武が、静かに頭を下げた。


「……上様のお気持ちと、ご覚悟。ようよう伝わりました。まずは城へ戻り、今後の段取りを話し合いましょう」


水野忠之も頷く。


「まずは一歩。それが、やがて大きな礎となりましょう」


こうして、吉宗の信念に動かされた老中たちは、施療所設立という大きな一歩に向けて、ついに歩を進めることとなった。

今回もお読みいただきありがとうございました。


施療所の設立に向けて、少しずつ動き始めた吉宗たち。

目安箱の一通の訴えから始まったこの動きが、ようやく老中たちの心にも届きつつあります。


とはいえ、まだまだ課題は山積み。

このあとも、制度の設計や予算の捻出、人員の確保など、乗り越えるべき壁はたくさんあります。


それでも、「見て、知って、動く」吉宗の姿を描けたらと思っております。


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