第55話 見よ、民の姿を――施療所への道
江戸城・御用部屋。
朝の用事を終えた老中たちが、吉宗の呼び出しに応じて再び顔を揃えていた。
本日は、先の話し合いで決まりかけた「施療所」の件について、現場の視察を行う手はずである――
……と、誰もがそう思っていた。
「本日は、まず一箇所……皆に見てもらいたい場所がある」
そう告げた吉宗は、老中たちを率いて南町奉行所へと向かった。
*
奉行所の奥、土間に面した一角。
畳も敷かれておらず、粗末な机と筆記用具だけが並ぶ取り調べの場。
若い男が縄を打たれたまま、正座していた。
服は薄汚れ、顔には幾日も洗っていない痕が残っている。
それでも瞳だけはどこか必死で、どこか痛ましい。
「――おっかぁが、病で……」
震える声が奉行所の板壁に反響する。
「咳が止まらなくなって、飯も食えねぇ。なのに薬屋じゃ高ぇ金がいるって言われて……」
役人が筆を走らせる音が、静かに響く。
「だからって、盗みに入ったのか」
取り調べの同心が問いかけると、男はうつむいたまま、かすかにうなずいた。
「わかってます……いけねぇことだってのは。でも、でもよ……他に手がなかったんだ」
吉宗と老中たちは、障子越しの帳の奥からその様子を見守っていた。
横にいた忠相が、声を潜めて言う。
「盗んだのは米と、薬一包……」
「薬か」と阿部正武がわずかに眉をひそめた。
「取り押さえたとき、懐に薬の包みがございました。高熱で伏せていた母親のため、とのことにございます」
忠相が吉宗に向かって、小さくうなずいた。
「家を訪ねた際には、母親は意識もうろうで……診立てによれば、衰弱がひどく、薬も間に合わぬやもしれませぬ」
水野忠之が唇を結んだまま、目を伏せる。
「……貧しき者の、苦しき現実か」
水野忠之が腕を組み、苦々しい顔をする。
部屋には、重く、やるせない空気が流れていた。
*
奉行所をあとにし、吉宗一行は遠回りをして、静かに吉原の外れへと足を向けた。
「本日はもう一箇所、皆に見てもらいたい場所がある」
傘を深く被った吉宗が小さく言うと、水野忠之がわずかに眉をひそめた。
「上様……まさか、遊郭に?」
「ただの見物ではない」
その先に待っていたのは、一軒の引手茶屋。
岡っ引きが小声で事情を説明した。
「この娘にございます。母親が胸を病んでおり、薬代のために――父親の手で吉原に売られました。まだ十四。昨年まで町の紙屋で働いておりました」
部屋の奥。
小柄な娘が、膝を抱えたまま小さく座っている。
顔を上げた娘の目は、赤く腫れていた。
声は震えながらも、静かに響く。
「……あたしは、売られたくなんて、なかった。けど、おっかぁが……おっかぁが死ぬのだけは、いやだった」
誰も、言葉を発せられなかった。
やがて吉宗がぽつりと漏らした。
「……これもまた、貧しさが生んだ苦しみ。薬ひとつ買えぬがゆえに、娘が未来を奪われる」
阿部正武が黙って目を閉じ、ただ一歩後ろに下がった。
*
小川笙船が案内するまま、一行は施療所の奥へと進んだ。
粗末な戸板に横たわる患者たちの寝息と、薬草の匂いが静かに満ちている。
笙船は立ち止まり、老中たちに向き直った。
「……ここにたどり着ける者は、まだ幸せでございます。足を運べるだけの余力や財がある者、あるいは身内に支えられている者。そうでない者たちは、先ほどご覧いただいたような――あるいは、もっと過酷な状況にございます」
老中たちの視線が、自然と床に伏す患者たちへ向けられる。
「そして、またーー中には、長患いの薬代がかさみ、支払いに困った末に娘を売った親もおります。私どもではなるべく、高価な薬は使わぬよう工夫しておりますが……病によっては、そうも参りませぬ」
水野忠之が、思わず小さく息を吐いた。
「……ここまでとは、思わなかった」
吉宗は静かに言葉を継いだ。
「わしが言いたかったのは、まさにこのことだ。病に倒れた者を、金の有無で分けてはならぬ。たとえひとつの小さな施療所であろうと、命を救えるなら――」
老中・阿部正武が、静かに頭を下げた。
「……上様のお気持ちと、ご覚悟。ようよう伝わりました。まずは城へ戻り、今後の段取りを話し合いましょう」
水野忠之も頷く。
「まずは一歩。それが、やがて大きな礎となりましょう」
こうして、吉宗の信念に動かされた老中たちは、施療所設立という大きな一歩に向けて、ついに歩を進めることとなった。
今回もお読みいただきありがとうございました。
施療所の設立に向けて、少しずつ動き始めた吉宗たち。
目安箱の一通の訴えから始まったこの動きが、ようやく老中たちの心にも届きつつあります。
とはいえ、まだまだ課題は山積み。
このあとも、制度の設計や予算の捻出、人員の確保など、乗り越えるべき壁はたくさんあります。
それでも、「見て、知って、動く」吉宗の姿を描けたらと思っております。
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