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第54話 道遠く、されど進むべし

江戸城・御用部屋の一隅。

いつもの老中たちの席に加え、この日は、町医者・小川笙船の姿があった。


「忙しいところ、呼び立ててすまぬな」


深々と頭を下げた笙船は、静かに首を振った。


「恐れ多いことでございます、上様。

……しかし、幕府直轄の施療所――それは、私にとっても長年の願いにございます。

そのようなお話であれば、いつ何時でも、喜んで馳せ参じます」


「そう言ってもらえると、助かる。今日、この場に集まってもらったのは、そなたに――現場の声を届けてほしくてのことじゃ」


吉宗の言葉にうなずき、笙船は一礼すると、静かに顔を上げて言葉を紡いだ。


「確かに、我ら町医者も、善意から診察だけならば無償で行うこともあります。

されど――薬となると話は別です。薬は仕入れねばならぬ。高価なものも多く、自前では限りもあります。

我らにも暮らしがございます。すべてを無償とは参りませぬ。


診てやることはできても、薬を渡せねば、治すことは叶いませぬ。

それゆえに、薬代が払えぬばかりに、命を落とす者も……決して少なくはございません。


……それを歯痒く思いながらも、どうすることもできぬ医者は、私だけではないはず。

医に携わる者であれば、誰しも『救いたい』という思いはある。

それでも――この世の理が、それを許さぬのです」


「――だからこそ、私どもにはどうしても超えられぬ壁がございます。

ですが、幕府のお力が加われば話は変わります。薬を備え、診る者を揃え、施療を安定して続ける仕組みが作れる。


幕府管轄の施療所があれば、薬も人手も備わり、貧しき者に等しく施しが行き渡るでしょう。

民は『病に罹れば見捨てられる』という不安から救われ、町に希望が戻るはずです。


……民の命を守る。それは、治める者として、何よりも重きに置くべきことでございましょう」


笙船の言葉が静かに室内に響くと、老中たちは一様に黙し、思案の色を浮かべた。


「……言わんとすることは、よくわかりまする」

最初に口を開いたのは、老中・土屋政直だった。眉間に皺を寄せながら、ゆっくりと言葉を選ぶ。


「確かに、薬の仕入れ、診療の負担、町医者方の苦労も察せられます。しかしながら……」


「問題は予算にございますな」

続けて、阿部正武が重々しく口を開いた。

「無償での施療となれば、相応の費用がかかる。医者を雇い、薬を揃え、建物を維持せねばならぬ。それが一年、二年で終わる事業ではありますまい」


「それに――」

もう一人の老中が言葉を継ぐ。

「町医者方との軋轢も気がかりでございます。幕府が施療を始めるとなれば、患者を取られたと反発されましょう。とくに金を払える者までが流れれば……商いに響くと騒がれるやもしれませぬ」


「それについては、わしも心得ておる」


吉宗が静かに口を開いた。


「この施療所に来る者には、基準を設けるつもりだ。金がある者、他に診てもらえる者までもがここを頼るようなことはさせぬ」


老中たちがぴくりと反応する。


「ここは、行き場のない者たちの、最後の砦とする。飢えと病に苦しみ、診てもらう金もなく、ただ命をすり減らすしかない者たちのための場だ」


少し間を置き、吉宗は目を細めた。


「民の命を救うのが、この施療所の目的。商いの邪魔をするつもりは毛頭ない」


吉宗の一言に、老中たちは押し黙り、部屋には深い静寂が流れた。


そんな中、忠相が一歩前へ進み出て、静かに口を開いた。


「皆様――では、いっそのこと、現場をお確かめいただくのはいかがかと存じます」


老中たちの視線が一斉に忠相へ向く。


「机上の議論だけでは、見えぬことも多うございます。実際に笙船殿の施療所をご覧いただければ、いかなる現状か、肌でお感じいただけましょう。……一見は百聞に如かずと申します」


老中たちは顔を見合わせ、沈黙した。


その中で、吉宗がわずかに目を細めながら言った。


「よいな。視る目を持たぬ者に、政はできぬ」


吉宗の一言に、場は静まり返った。

老中たちの表情に、葛藤と困惑が交錯する。

今回もお読みいただきありがとうございました。


こんな大がかりなこと、きっと「無理だ」「金がない」と言われるだろうな……なんて思いながら書いていたら、いつの間にか養生所編が長編に(笑)

まだしばらくこのお話が続きそうですので、よろしければもう少しだけ、お付き合いいただければ嬉しいです。


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