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第53話 幕府の壁

江戸城・御用部屋。


朝の光が障子越しに射し込む中、老中たちが居並ぶ部屋に、吉宗が静かに座した。


「……本日は、皆に集まってもらったのは他でもない。ある件について、話をしたい」


老中・阿部正武がわずかに身を乗り出す。


「上様、ご指示とあらば、いかようにも。して、いかなるご件にござりますか」


吉宗は手元の巻物を開きながら、口を開いた。


「小石川の地に、幕府直営の施療所を設けたいと考えておる」


室内の空気が一瞬、張り詰めた。


「……施療所、にございますか?」


「うむ。病に倒れ、金もなく、医者にもかかれぬ者が数多おる。先日、それを目の当たりにし――考えを改めた。江戸の町に、貧しき者でも診てもらえる場所を設けたい」


老中たちの顔に困惑と疑念が浮かぶ。


「上様、御意は尊し。しかし、施療となれば費用がかかりましょう。医者の手配、薬の用意、建物の整備……。加えて、無償となれば、町医者との軋轢もございます」


「加えて申せば、上様。すでに寺社や町人の善意による施療所も存在しております。それを幕府がなぜ? と問われましょうぞ」


吉宗は静かに、しかし強い目で応じた。


「幕府が動かねば、誰が民を救う。病ひとつ治せぬとは、あまりにも口惜しき世。金の有無で命が左右されるような世を、わしは良しとはせぬ。せめて一ヶ所、幕府の責任において命を繋ぐ場を設けたいのだ」


老中のひとり、稲葉正知が、やや眉をひそめて口を開いた。


「上様、施療所の設置――そのご志は、まこと尊きものにございます。しかしながら、財政は逼迫の一途。先の上米の制も、諸大名の不満を宥めつつ、ようやく形にしたばかりにござります。これ以上の出費は、幕政に響きかねませぬ」


続いて、松平乗邑が低い声で言葉を重ねた。


「加えて、町医者との関係も見過ごせませぬ。彼らの多くは貧しい民のために診療しておるとはいえ、それでも生計を立てておる者たち。幕府が無償で医療を施せば、その職を奪うことにもなりましょう。善意のつもりが、反発を生むやもしれませぬ」

「仮に施設を設け、薬と人を揃えたとして――そこに貧しき者たちが集まり、病が蔓延する可能性もございます。かの場所が病の巣となれば、城下に不安が広がりましょうぞ」


吉宗は一人、黙して老中たちの言葉を聞いていた。やがて、ゆるりと立ち上がると、巻物を閉じ、背筋を伸ばして言った。


「……皆の申すこと、道理である。財も、人も、摩擦も、危うさも――すべてわかっておる。だが、それでも申す。わしは、それらの困難を承知で、進めたいのだ」


その声は低く、しかし部屋の隅々まで響くように力強かった。


「病を癒すに金が要る――それは今の世の理じゃ。だがな、理ばかりが人を救うわけではない。わしは、この手で、理の外にある情けを形にしたい」


再び、老中たちの間に沈黙が落ちる。


やがて阿部正武が、慎重な声音で言った。


「……上様。拙者どもも、御志の重さはしかと受け止めました。されど、これは一朝一夕に決することではございますまい。少しばかり、考える時をお与えいただけませぬか」


吉宗は、しばし彼の目を見つめたまま、頷いた。


「よかろう。……この話、ここで終わったと思うな。必ず、再びこの場で続きを話す」


そのまま立ち上がると、吉宗は静かに御用部屋を後にした。


残された老中たちは、互いに視線を交わしながら、重苦しい沈黙の中に座し続けていた。


今回もお読みいただき、ありがとうございました!


幕府直営の施療所――今でいう公立病院のような構想を掲げた吉宗でしたが、さすがに一筋縄ではいきません。

財政、体制、既存の町医者との関係……改革に踏み出そうとするたびに、立ちはだかる現実の壁。


それでも「理の外にある情け」を信じて、一歩を踏み出そうとする吉宗の姿が、少しでも伝われば嬉しいです。


次回はいよいよ、小川笙船が幕閣の前に立ちます。

現場の医師だからこそ語れる、医療の現実とは――。


よろしければ、ブクマや感想などで応援していただけると励みになります!


また次回も、よろしくお願いします!

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