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第52話 志をともにして

「……そのような場を、幕府が設けるとおっしゃるのですか?」


笙船は、静かに問い返した。声音には驚きと、ほんのわずかな期待が混じっていた。


「うむ。わしは、目安箱に投じられたあの訴えを見て、心を動かされた。あの子のように、声を上げる術もなく、病に苦しんでいる者は、他にもいるはずじゃ」


吉宗は、まっすぐに笙船を見つめながら言葉を続けた。


「このままではいかん。幕府として、病に苦しむ者たちに手を差し伸べる仕組みを作らねばならぬ」


この言葉を聞いた瞬間、笙船の目はわずかに見開かれた。だがすぐに表情を引き締め、何もなかったように静かに視線を落とす。

やがて椅子から立ち上がり、棚の上の薬箱にそっと手をやると、ふうっと息を吐いた。


「……まさか、こんな日が来るとは思いませんでした」


「ほう?」


「わたくしも、同じような想いでおりました。だから目安箱に、施療の場を求める書状を投じようとしていたのです。ですが……それが本当に実現するとは」


「そうか、それは奇遇じゃな。志は同じ、ならば話が早い」


吉宗の声には、わずかな笑みがにじんでいた。


「笙船殿、わしに知恵を貸してくれ。わしは医のことは素人じゃ。

だが――金も人も、幕府ならなんとかできる。

じゃが、知識と情けだけは、他を頼らねばならぬのじゃ」


笙船は、深く頭を下げた。


「僭越ながら、力を尽くさせていただきます」


その言葉に、忠相も静かに頷いた。



「……では、伺いましょう。上様の思い描かれる“養生所”とは、どのような場でございますか?」


吉宗は少し考え、口を開いた。


「まずは――誰もが金を気にせず、診察を受けられることじゃ。

いまの施療所のように、ただ薬を配るだけでなく、寝かせて治療できる場所にしたい。

病床も、薬も、医者もそろった“庶民のための病院”じゃな」


笙船は真剣な表情で、静かに問いかける。


「……上様、施療を完全に無償で行うことは理想でございます。ですが、現実には、薬代ひとつとっても馬鹿にはなりませぬ。施療を受ける者すべてにそれを求めぬとなれば、たちまち資金が尽きましょう」


吉宗はうなずいた。


「確かに。金は無限にあるわけではない。そなたの施療所の様子を見て、わかった。……だからこそ、わしは考えておる」


「施療を受ける者すべてが、等しく困窮しているわけではあるまい。わずかでも支払いができる者には、ほんの少し、薬代の足しにと協力してもらえばよい。持てる者が、持たざる者を支える。そういう仕組みにできぬか?」


その言葉に、笙船の目が見開かれる。


「……それは、御政道の理想にございますな」


「理想でも、やらねばならぬ。……わしがやらねば、誰がやる。困っておる者の手を取るのは、政を預かる者の務めじゃ」


笙船はゆっくりとうなずき、口元に静かな笑みを浮かべた。


「よろしゅうございます。上様。知恵と技は、いくらでもお貸しいたします」


「うむ。助かる」


吉宗は深くうなずいた。


「では、病床の数は? どれほどの患者を収容するおつもりですか?」


「……まずは、二十人か三十人が横になれるだけの広さを。

いずれは倍に増やしてもよい。雨風をしのぎ、身体を休められることが第一じゃ」


「なるほど……場所の選定も重要になりますな。

清潔で、井戸があり、物資を運びやすい場所。

そして、近隣に騒音や悪臭のない環境が望ましい」


吉宗は頷いた。


「場所の目星は、忠相と相談して探すつもりじゃ。

あとは、医者と薬。こればかりは、わしにはどうにもならぬ。

そなたの知る中で、信頼できる医者はおらぬか?」


「数名、心当たりがございます。ただ……施療に従事できる者となると、限られますな。

報酬が得られぬとなれば、日々の生計が立ち行かぬ医者も多い」


「それもわかっておる。

だが、幕府が運営する以上、最低限の俸給は用意する。

ただし――薬代や診察代は、基本的に無償としたい」


笙船は、ふっと口元を緩めた。


「それが本当に実現すれば、江戸は変わります。

庶民が、“病に怯えずに暮らせる町”になります」


「そのために、そなたの知恵を借りたいのじゃ。

すぐにとはいかぬが、地ならしから始めたい。

人の命を救うための場所じゃ。

金ではなく、志を柱に据えたいのじゃ」


笙船は深く頷き、静かに言った。


「承知しました。

この命、医の道に捧げております。

どうか、上様のお力で、この志を形に――」


笙船の言葉に、吉宗は静かにうなずいた。


「よいな。ならば早速、話を詰めてゆこう。まず――どのような施療所を作ればよいのか、そなたの考えを聞かせてくれ」


笙船は一瞬だけ目を伏せ、思案の色を浮かべた。


「場所、医師の数、設備、薬……すべてが一からになります。が、まず必要なのは――施療の対象となる者の線引きです」


「線引き?」


「貧しき者、身寄りのない者、重い病にかかって仕事を失った者。施療所には、誰でも受け入れてよいという訳にはまいりません。でなければ、すぐに手が回らなくなります」


「……なるほど。無尽蔵に人を受け入れることなど、現実にはできぬというわけか」


「また、薬や食事、寝床なども必要になります。いま町で開かれている施療所の多くは、患者の持ち込みに頼っておりますが……幕府直営とするなら、ある程度は備えが要ります」


吉宗は腕を組んだまま、じっと聞いていた。


「ふむ……場所は、小石川の薬園が使えぬかと考えておる」


「薬園……上水道にも近く、静かで、風通しもよい土地と聞いております。施療の場には、確かにうってつけでしょうな」


「加えて、薬草の備えもできる。幕府の園なら、必要な草はある程度育てられよう。足りぬ分は――どこぞから集めてくるまで」


「薬草の探索ならば、植村左平次という者がおります。お庭番の者ながら、本草に詳しく、全国の薬草の地を歩いていると聞きます」


「おお、よいな。……では、薬はなるべく自給とし、費用を抑えることもできる。問題は――人手か」


吉宗はしばしの間思案し、そして顔を上げて言った。


「そうだ、お庭番の中に薬草に詳しい者がいたな。植村左平次――本草に通じておる。其奴に命じて、全国を巡らせ、薬草の産地を探らせよう。いっそ、薬草園の整備も進めてゆけ」


笙船が感心したように目を見開いた。


「なるほど、上様。まさに“餅は餅屋”にございますな」


「ふふ……あとは、その餅をどうこねるかじゃな」


こうして、小川笙船との思いが重なり、やがて――小石川養生所の設立へとつながっていく。

今回もお読みいただきありがとうございました。


江戸の医療に向き合いはじめた吉宗。目安箱の一通の訴えから、彼の意識は「個人の救済」から「制度づくり」へと移っていきます。


そして出会った医師、小川笙船。実在の人物であり、小石川養生所の創設にも深く関わった人物です。


物語は、いよいよ吉宗が「施療院」という形で制度化を進める段階へ。次回は、幕閣を相手に奮闘する吉宗の姿をお届けする予定です。


もしこの作品が面白かったら、ぜひブックマークや評価で応援していただけると嬉しいです。更新の励みになります!


それでは、次回もどうぞよろしくお願いいたします。


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