第51話 町医者に学べ――養生所への第一歩
吉宗は地味な縞模様の着物を着流し、笠を目深にかぶり、忠相とともに南町奉行所を出た。
武家屋敷が整然と並ぶ一角を抜け、外堀を渡ると、景色ががらりと変わった。
大きな暖簾を掲げた呉服店や薬屋、往来を行き交う買い物客の姿――江戸随一の商いの町、日本橋である。
「……相変わらず、景気の良さそうな顔ぶれだ」
「はい、大店が並ぶ表通りでございます。ですが、この先は様子が変わります」
やがて、華やかな表通りから路地へと入り、人通りもまばらな一角へ。
木戸の奥からは咳き込む声が聞こえ、膨らんだ洗濯物の影に干された布団が、所々破れかけていた。
「……この先に、医師・小川笙船の施療所がございます」
忠相の言葉にうなずき、吉宗は一歩、足を踏み出した。
忠相に案内され、吉宗はひときわ古びた長屋の一角で足を止めた。
小さな木戸の脇には、墨で「施療所」と書かれた粗末な札がぶら下がっている。
目印らしい目印もなく、うっかりすれば通り過ぎてしまいそうな、ささやかな佇まいだった。
「……ここが?」
「はい。表向きは目立たぬようにしておりますが、町の者には知られております」
戸を引くと、中から薬草の香りと、かすかな線香の煙が流れ出た。
畳も敷かれぬ板張りの床に、患者たちが毛布にくるまって横になっている。
竹で仕切られた簡素な間仕切り。壁際には戸板を寝台代わりにした棚が並び、布団も擦り切れていた。
器や壺が無造作に置かれ、棚の上には干し草や薬草の束、壊れかけた薬箱が積み重ねられている。
大岡忠相が周囲に配慮するように一歩進み出て、静かに呼びかけた。
「ごめん、小川笙船殿はおられるか」
奥から、年若い弟子が顔を出した。白衣の袖をまくり、慌ただしくも礼儀正しい様子で頭を下げる。
「申し訳ございません。先生は奥で診察中にございます。どのようなご用件でしょうか?」
「南町奉行の大岡忠相である。政に関わることで、笙船殿に急ぎ話を通したく参った」
弟子の目が一瞬見開かれたが、すぐに深く頭を下げた。
「それは、それは……! ただいま、すぐに先生に取り次ぎます。どうぞ、こちらへ」
弟子が奥に声をかけに行ったのち、しばらくして奥から笙船の声が響いた。
「申し訳ないが、いま手が離せぬ。お話があるのなら、もう少しお待ちいただけぬか」
すると、診察を受けていた年配の女が立ち上がり、恐縮しながらも言葉を返した。
「先生、私らのことはあとにしてくださいまし。お奉行様のお話を……」
その言葉に、吉宗がやわらかく微笑みながら声をかけた。
「いや、我らが待つ。病とは急を要するものじゃ。手が空くまでこちらで待たせてもらうとしよう」
弟子は驚きつつも深く頭を下げ、ふたりを一角の板間に案内する。
だが――
待つといっても、何もせずにはいられぬ性分である。
しばらくして、湯を沸かすかまどの前で、誰かが火をあおいだり、鍋を支えたりと忙しなく動いているのが目に入った。吉宗は立ち上がり、そっとそちらへ歩み寄った。
「少し手伝ってもよいか?」
「えっ、いえ、そんな……」
「黙って見ておれんでな。……湯を沸かすぐらい、わしにもできるじゃろうて」
そう言って、火を足し、やかんの位置を調整し、さらには包帯の切り分けまで始めてしまう。
忠相は隣で呆れながらも、苦笑していた。
「まったく……じっとしてはおれぬお方だ」
*
しばらくして、奥の診察室から足音が近づいてきた。現れたのは、細身の着流しに身を包んだ、初老の男。眉間に刻まれた深い皺が、日々の苦労を物語っていた。
「お待たせいたしました。手が離せず、失礼いたしました」
そう言って、男――小川笙船は深く一礼する。
「お初にお目にかかります。わたくし、小川笙船にございます。さて、お役目中のお奉行様が、わざわざお越しくださるとは。何かご用にございますか?」
吉宗はそっと立ち上がった。周囲にいた町人たちが、自然と静まり返る。
「そなたが、小川笙船か」
吉宗は一歩進み出て、ゆっくりと口を開いた。
「うむ……実はな、幕府として、病に苦しむ民のための“施療の場”を作りたいと思うておる。誰もが、身分や懐の具合にかかわらず、等しく診察と手当てを受けられるような場を――じゃが、わしにはその心得がない。何が必要で、何を備えればよいのか……餅は餅屋、まずはそなたの話を聞かせてほしいのだ」
その言葉に、笙船の表情が一瞬、揺れた。
今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。
吉宗が訪れた、小さな町の施療所。
そこで目にしたのは、貧しさの中で病と闘う人々の姿でした。
「ならば、幕府が施療の場を作ればよい」――
そんな思いが、少しずつ動き出そうとしています。
次回はいよいよ、小川笙船との本格的な対話へ。
養生所創設に向けた第一歩が始まります。
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それでは、また次回お会いしましょう!




