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第49話 小さな願いが動かしたもの

夜明け前、まだ空に月が残る時刻。

江戸城の裏門を、二人の男が静かに抜け出していた。


「上様、本当に町へ出られるおつもりで?」


久通が小声で問いかける。


「目安箱に入っていた、あの投書。どうしても無視できぬのだ」


吉宗は足早に歩きながら言う。


「“ おかあが、びょうきです。

おいしゃさまをよぶおかねがありません。

このままじゃおかあがしんでしまいます。

しょうぐんさま、たすけてください”……これを読んだ時、胸が痛んだ。わしは将軍である前に、ひとりの人間だ、ほおっておくことなどできぬ」


吉宗は投書を握りしめたまま、しばし黙り込んだ。

庭の向こう、白みはじめた空に一番鶏が鳴く。

遠くで桶を運ぶ町人の声が微かに聞こえ、城の中とは思えぬほどの静けさに包まれる。

江戸の町には、今も同じように目覚めた子どもたちがいるのだろうか。

そのうちの一人が、親を救おうとして必死に書いた一枚の紙――。


吉宗は目を伏せ、拳を握りしめた。



南町奉行所。


奉行所の奥では、忠相が目を細めながらその紙を見つめていた。


「忠相、わしはその子の母親を助けてやりたい」


「ですが、上様。こういった話は珍しくございません。病気の家族を抱え、医者にかかれず苦しんでいる者は、この町に数えきれぬほどおります」


忠相は真顔で続けた。


「この母親を救っても、第2、第3の子供がまた出てくるでしょう。全員を同じように救ってやるおつもりですか? そんなことは到底不可能でございましょう」


「そんなことぐらい――わかっておる!」


吉宗は低く、しかし強い声で言った。


「わしにとって、江戸の民は皆、子のようなものだ。苦しむ声を聞きながら、背を向ける将軍ではいたくないのだ。……わしは、この子の母親を助けたい」


しばらく目を伏せていた忠相は、やがて小さくうなずいた。


「……御意。上様のお気持ち、確かに承りました」


彼は部屋の奥に向かって声を張った。


「岡っ引きを呼べ」


しばらくして現れたのは、頭に手拭を巻いた鋭い目の男。忠相に呼ばれたことへの緊張が伺える。


「番太郎、これを見よ」


紙を手渡す。


「これは……目安箱に入っていたもの、ですか?」


「そうだ。この投書をした子を探してほしい。母親が病に伏しているらしい。上様が、助けてやりたいと仰せだ」


番太郎は紙を両手で持ち、まじまじと見つめた。

やがて、目を細めてうなずいた。


「……承知しました。顔見知りの仲間に声をかけて、町中をあたります。小さな子どもに心当たりがないか、手分けして調べましょう」


「頼む」



町へ出た岡っ引きたちは、仲間に声をかけ、手分けして聞き込みを始めた。


「なあ、この町内で、病気の母親を抱えた子どもがいるって話、聞いちゃいねぇか?」


「さあなあ。そんな話は耳にしてねぇがな……それに病人ならどこにでもいるだろうさ。」


「ちくしょう、これじゃ埒があかねぇ……」


昼を過ぎ、影が少しずつ長くなる。


「そっちは?」


「ダメだ。似たような話はあるが、どれも投書にあった“娘”とは違うらしい。年が合わねぇ」


「こっちもだ。具合の悪い婆さんの話は聞いたが、子どもはわかんねえってよ」


番太郎は、雨戸の閉まった長屋、風邪をひいた声がする裏路地、子どもたちが遊ぶ寺子屋の前――あらゆる場所で聞いて回った。


「そういや……最近、葛粉を一人で買いに来てた子がいたな」

「小さな風呂敷に銭を包んで、『これで葛粉は買えますか』って……」

「“おっかあに飲ませたいの。くず湯は病気にいいって聞いたから”って、真っ直ぐな目で言ってたよ」


「それだ、どこに住んでる?」


「たぶん……浅草の裏手。染め物屋の角を曲がった長屋だったと思う」


番太郎はその場所に向かいながら、心の中で呟いた。


(頼む、あの投書の子であってくれ……)


長屋に着き、戸口を叩くと、奥からかすれた声が返った。

ほどなくして、小さな女の子が顔を出した。


頬はこけ、袖のほつれた着物。だが、しっかりとした目をしている。


「あの、すまねぇが……おっかあが病気で寝込んでるっていう家は、ここで間違いねぇか?」


少女は戸口で戸惑いがちにうなずいた。


男は少し息をつき、声を落とした。


「……安心してくれ。悪いことをするわけじゃねぇ。

実は、目安箱に出された手紙を読んだ上様ご自身が、その子を探しておられるんだ」


「上様が……?」


「ああ。“助けてやりたい”って、仰ってる。だから、心配すんな。何もかも、悪いようにはしねぇよ」



南町奉行所、書院の奥――

忠相は文机の上に広げた訴状を静かに見つめていた。そこへ、岡っ引きが音もなく膝をつき、頭を下げる。


「ご報告いたします。目安箱の文の子、見つかりました」


「……そうか。場所は?」


「浅草の裏手、長屋の一角です。母親が病で伏せっており、薬も買えず、娘がひとりで看病しておりました。年の頃は七つか八つといったところ。文の内容と一致しております」


「……医者を呼ぶ」


忠相はすぐに、町の外れに私塾兼施療所を構える医師、小川笙船を呼び出し、事情を説明した。


「其方は貧しい者を無償で診ることもあると聞く。一緒に来てくれないだろうか」


かれるとは……。私にできることがあれば、喜んで」



その夜、再びあの長屋に人の気配が戻った。


「医者だ、通してくれ」


戸を開けた少女は、一瞬驚いた顔を見せたが、すぐに道を開けた。


部屋の中には、浅く息をする母親が横たわっている。

栄庵は静かに、脈をとり、額に触れ、胸の音を聞いた。


「……大丈夫だ。まだ間に合う」


「ほ、ほんとに?」


「水と食と薬、それがあれば……助かる」


少女の目に、ぽろりと涙がこぼれた。


「おっかあ……死なないんだね……?」


栄庵は、頷いた。



その報を受けた忠相は、すぐに吉宗のもとへと向かった。


「上様。件の少女、見つかりました。そして、医者の小川笙船に診せました」


吉宗の目がわずかに揺れる。


「母親の容体は?」


「まだ間に合うとのこと。ただし、放っておけば……命は危うかったでしょう」


しばしの沈黙ののち、吉宗は息を吐いた。


「……まずは、その者を救えて良かった。だが、これで終わりではない。たまたま見つかった、たまたま助けられた、では……また、誰かが死ぬ」


「上様……」


「仕組みがいる。誰でも、診てもらえる場を――」


この夜、将軍の胸に芽生えた想いが、やがて江戸の町を変える一歩となる――

今回のお話は、前回の目安箱に寄せられた一通の投書――「おかあが、びょうきです……」という子どもの訴えをきっかけに、吉宗が実際に動き出す場面でした。


史実では、目安箱に届いた訴えをもとに小石川養生所の設立が始まったとされますが、その投書を書いたのが誰だったのか、どんな背景があったのかは、記録に残っていません。


だからこそ、想像をふくらませて「もしも小さな子どもが、必死の思いで助けを求めたのだとしたら……」と描いてみました。


将軍として、たったひとりの民の声に耳を傾け、動いた吉宗。


この夜の出来事が、江戸の医療を変えていくきっかけとなった――そんな物語が、読者の皆様の心にも届けば嬉しいです。


面白かった、続きが気になると思っていただけたら、ブクマや感想をいただけると励みになります!

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