第48話 目安箱に託された、小さな願い
「江戸にも目安箱を設置しようと思うが、そなたはどう思う?」
静かな朝。将軍・徳川吉宗は、机の帳面を閉じながらふと言った。
「それは、よき案でございます」
側仕えの久通は、すぐに背筋を伸ばして答える。
「では老中の水野忠之を呼べ」
「はっ!」
すぐに障子の向こうに控えていた奥番が動く。
――目安箱。
紀州藩主の頃に一度だけ設けたことがある。
直接役人に言えぬこと、言ったところで黙殺されること――
そんな声が、素朴な紙切れに書かれ、ひとつひとつ届いた。
吉宗は、それを江戸にも持ち込む決意をした。
ほどなくして、水野忠之が現れる。
――目安箱。
紀州藩主の頃に一度だけ設けたことがある。
直接役人に言えぬこと、言ったところで黙殺されること――
そんな声が、素朴な紙切れに書かれ、ひとつひとつ届いた。
吉宗は、それを江戸にも持ち込む決意をした。
ほどなくして、水野忠之が現れる。
「上様、目安箱を設置すると聞きましたが……本当に、よろしいので?」
吉宗は、机の上から目を上げる。
「よろしいとは?」
忠之は言葉を選びつつ、慎重に口を開いた。
「民の訴えのすべてが、建設的とは限りませぬぞ。中傷や悪意もありましょう」
「ならば読めばよい。どれほど恨みを買っておるか、知るのも大事なことだ」
「……心得ました。設置場所は?」
「町奉行所がよかろう。南北両方に置く。鍵はわしが預かる」
忠之の眉がわずかに動いたが、異を唱えることはなかった。
「民の声を聞かねば、政の正しさなどわからぬ。
我が目も耳も、届かぬところを、この箱に補わせるのだ」
吉宗の言葉に、忠之は静かに頭を下げた。
*
目安箱は、南北の町奉行所に設置された。
「ご意見あらば、この中へ」と記された札が掲げられ、
町人たちは物珍しげに立ち止まり、箱を眺めた。
最初の数日は様子見だったが、三日もすれば紙の束が少しずつたまってきた。
ある日、南町奉行所の門前に、小さな影がひとつ現れた。
年の頃は十ばかりの男の子。
麻の着物はほつれ、髪は乱れ、手には小さく折った和紙をしっかりと握っている。
男の子は目安箱を見上げたまま、しばらく動かなかった。
「……ほんとうに、いいのかな……」
ぽつりとこぼれた声。誰にも届かぬ独り言。
箱の前に立つだけでも、彼にとっては勇気が要った。
何度も書き直したその手紙を、ようやく今日、持ってきたのだ。
おそるおそる周囲を見渡し、投入口に手を伸ばす。
和紙の端が投入口に触れ、ゆっくりと押し込まれる。
カサ……という小さな音。
中に落ちた手紙を見届けると、男の子はすぐに背を向け、走り出した。
「かあちゃん、なおるかな……」
その声は、通りの雑踏にまぎれていった。
*
翌朝、その投書は吉宗のもとへ届けられた。
久通が持参した小さな包みを開くと、素朴な紙に震える筆跡が残されていた。
墨が滲んでいるのは、手の汗か、それとも涙か。
吉宗は黙って読んだ。
⸻
「おかあが、びょうきです。
おいしゃさまをよぶおかねがありません。
おかねがないと、しんでもいいのですか。
しょうぐんさま、たすけてください。」
⸻
静かな室内に、風の音だけが通り抜ける。
吉宗は紙をそっと置くと、目を伏せた。
すぐ隣に控える久通も、言葉を失っていた。
「上様……」
その声に返事はない。
ただ、吉宗の眼差しには、確かな決意が宿っていた。
その日――小さな一通の投書が、江戸の医療を変える最初の一歩となった。
今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。
ここからしばらくは、将軍・徳川吉宗が実際に行った「目安箱の設置」――
そして、そこから始まった小石川養生所の設立までの物語になります。
史実によれば、養生所設立のきっかけの一つに「目安箱に届いた投書」があったとされています。
けれど、その投書が誰によって、どんな思いで書かれたのか――その記録は残されていません。
だからこそ、もしそれが「家族の命を救いたい」と願う子どもの声だったとしたら?
そんな想像から、このエピソードは生まれました。
お金がないと病院に行けない。
治したいのに、治す手段がない。
そんな理不尽が、ほんの少しずつでも変わっていった――
これは、そんな時代の小さな一歩の物語です。
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