第44話 燃える江戸と、改革の種
「カンカンカンカンカンカン……!」
甲高い半鐘の音が、静寂を切り裂くように鳴り響いた。
吉宗は筆を置き、眉をひそめた。
(火事……だが、この打ち方は……普通ではない)
鐘の音は間断なく続き、どこか切迫した調子がある。
「久通! 久通はおらぬか!」
「ここに!」
奥の間から駆けつけた久通が、膝をついた。
「半鐘の音が異様だ。火元を調べさせろ。範囲と風向き、被害の拡大が予想されるかどうか――急げ」
「はっ!」
久通が駆け出すと、吉宗は立ち上がり、遠くの鐘の音に耳を澄ました。
(これはただの火事ではない。何かが違う――)
「カン、カン、カン……!」
半鐘の音はなおも続いていた。先ほどよりも増えたようにさえ聞こえる。
吉宗は縁側に出て、遠くの空を仰ぐ。風が東へと流れている。微かに焦げた匂いが鼻をかすめた。
(風下の町筋が延焼すれば……)
「上様!」
久通が息を切らして戻ってきた。
「どうであったか」
「火元は神田の鍛冶町。油を扱う店が引火し、大きな火柱が上がったとのこと」
「被害の範囲は?」
「現時点で十数棟が焼け落ち、延焼は南へと広がっております。火消し組は出払っておりますが、人手が足りぬ模様。町民も総出で桶を運んでおりますが、間に合っておりませぬ」
吉宗の表情が引き締まる。
「火消しはどこから出た?」
「まだ出ておりませぬ。火元が町人地ゆえ、定火消は動いておらず――町民が総出で消火にあたっております」
吉宗は拳を握りしめ一歩前に出た。
「できる限りの人を集め、延焼を一刻も早く食い止めるのだ!」
命を受け、久通が駆け出していく。
吉宗はその背を見送ったあと、そっと障子を開け、空を仰いだ。
――赤い。
日はまだ高いはずなのに、空はすでに火の粉に染まり、まるで夕暮れのような鈍い赤に覆われている。
「……さらに燃えておるのか」
かすかに聞こえる、半鐘の音。だが、それは一つの鐘ではない。あちらこちらから、途切れることなく打ち鳴らされている――まるで町が叫んでいるかのようだった。
「くっ……これは、ただの火事ではないな……」
吉宗は眉を寄せ、静かに拳を握った。
*
翌朝。
空はようやく晴れ渡り、かすかに漂っていた煤煙の匂いも、風に流されつつあった。
「上様、火の手はようやく鎮まり、町も徐々に落ち着きを取り戻しつつございます」
障子を静かに開けて入ってきた久通が、深々と頭を下げた。
吉宗は帳簿を閉じ、ゆっくりと顔を上げる。
「そうか……長かったの」
「はい。火元は鍛冶町近くの町屋より出火。強風に煽られ、周囲へ一気に燃え広がりました。定火消四組が出動し、町民に加勢しましたが、消火にほぼ一昼夜を要しました」
「被害のほどは……?」
「町屋百三十余棟、商家二十七棟が全焼、怪我人多数に加え、死者も十数名。避難した者も多く、行き場を失った者が各所に散らばっております」
「……そうか」
吉宗は目を伏せ、静かに息を吐いた。
「やはり、今のままではいかんな……手が足りぬ。町を守るはずの仕組みが、追いついておらぬ」
そう呟いた目には、何かを決意する光が宿っていた。
吉宗は、帳簿を脇に押しやり、ふと顔を上げた。
「久通、大岡忠相を呼べ」
「はっ。ただ今すぐに」
やがて、足音軽やかに、忠相が現れた。
「大岡忠相、命により馳せ参じました」
「うむ、大儀である。此度そなたを呼び寄せたのは、先日の火事の件だ。――忠相、そちはあの火事をどう見る?」
忠相は一礼し、顔を上げた。
「町屋からの出火ということで、定火消しの出動が遅れたことが延焼の一因かと」
「やはり、そなたもそう思うか。定火消しは武家屋敷を守るのが本来の務めだからな。町屋は後回し――それが、今回の被害を広げた」
「はい、火元が町人地であったがゆえに、初動に時間を要したのは事実です」
「仕方がないと言えば、仕方がない。だがな、忠相」
吉宗は身を乗り出すようにして、真剣なまなざしを向けた。
「町屋を守る火消しも必要だと思わぬか?」
忠相は一瞬目を見開き、すぐに深くうなずいた。
「おっしゃる通りにございます。町民あっての江戸でございますから」
「それでだ。町火消し――新たに、町人のための火消し組織を設けようと思う」
「町火消し……」
「そうだ。町屋を中心に活動し、いざという時にすぐ駆けつけられる者たち。町人自らが町を守るための火消しだ」
忠相は深く頷いた。
「上様、それはとても良き案にございます」
「うむ」
「では、老中の水野殿、松平殿、勘定奉行の神尾殿、北町奉行の石出殿とまずは話し合い、幕府としての方針を取りまとめましょう。そのうえで、町年寄や名主たちと協議を進めるのがよろしゅうございましょう」
吉宗は満足げに微笑んだ。
「よいな。それで参ろう。久通、しかるべき手配を頼む」
「まずは幕府としての方針をおまとめになったほうが、後の混乱を防げましょう」
吉宗は少し目を細め、やがて静かに頷いた。
「……うむ。確かにな」
「久通、老中二名と勘定奉行、それから北町奉行を呼べ。方針を定める」
火事と隣り合わせの江戸。
その暮らしの不安を取り除くにはどうすればいいか――吉宗はついに「町火消」の新設へと動き出します。
これまで武家屋敷中心だった火消しの仕組みに、庶民のための守り手を加えることで、新しい時代の一歩が始まります。
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