第34話 南町奉行といえば――やっぱりこの人!
ある日、吉宗はお忍びで城下の町を歩いていた。
夕暮れの商家の前で、何やら言い争う声が耳に入る。
「……無くしたと思っていたものを、今さら渡されても受け取れん!」
「いえいえ、あっしも人様の落とし物をそのままいただくなんて、できやしませんよ!」
「いや、何を言われても受け取るわけにはいきません」
どうやら落とし物を巡っての揉め事らしい。
吉宗が思わず歩み寄ろうとしたその時、一人の若い侍が間に入った。
「そなたら、何をそんなに揉めておるのだ」
「お武家様、聞いておくんなせぇ。あっしがこの通りで財布を拾ったんです。中を見てみたら“白木屋”って書いてありまして、それでここまで届けに来たんですが……この旦那さん、もう自分のものではないからと、受け取ってくれねえんです」
「それで、あんたが持っていけと?」
「ですが、さすがに他人様のお金をそのまま受け取るわけにもいかず……」
どうやら、落とし物を“もらいたくない者同士”で揉めているという、珍しい争いだった。
同心の若者――大岡忠相は、しばし黙考し、静かに言った。
「その財布には、いくら入っておった?」
「三両でございます」
忠相は頷くと、懐から一両を取り出して手のひらに乗せた。
「では、こうしよう。この金を合わせて、四両とする。
二人とも、それぞれ二両ずつ受け取るのだ」
「――そなたは、三両拾ったのに、二両しかもらえず、一両の損」
「そして、そなたは三両落としたのに、二両しか戻ってこず、一両の損」
「私もまた、この騒動に巻き込まれ、一両を支払い、一両の損」
――皆が一両ずつ損をして、三方一両損。だが、それでこの場は丸く収まろうぞ。」
忠相はふっと微笑んだ。
しばしの沈黙の後、二人の男が顔を見合わせ、声を上げて笑った。
「なるほど、こいつぁ見事な裁きだ!お武家様、ありがてぇことで!」
近くで見ていた吉宗もまた、思わず口元を綻ばせていた――。
騒動が収まり、町の空気がほっと緩んだそのとき――
人混みの端から、ひとりの男がにこやかに歩み寄ってきた。
「お侍様、見てましたよ。今のお裁き」
「いや、大したものだ。自分も損をしてまで民を収める。誰にでもできることではありませんな」
忠相はやや戸惑いながらも、丁寧に一礼する。
「恐縮です。あのままでは、どちらも納得できず揉めが続くと思いまして」
「なるほど……失礼ですが、お名前を伺ってもよろしいですか?」
「大岡忠相と申します」
その名を聞いた途端、男は内心でひそかに叫んだ。
(えぇ〜!? 大岡忠相⁉︎ ちょっと待って、あの“大岡越前守”ってやつ⁉︎
今のが、もしかして……“大岡裁き”ってやつなの⁉︎ すごい、本物だったのね……!)
思わず脳内で小躍りしそうになるが、そこは元・主婦にして今・将軍。
表情を崩さぬよう、咳払いで気持ちを立て直す。
「ごほん……大岡殿か。気に入った。ちょっとそこらで飲みながら、話をせぬか?」
「えっ……? あ、は、はぁ……?」
やや引き気味に頷く忠相を、構わずぐいっと肩を引き寄せる吉宗。
「よし決まりだ。お代は、わしが持つ!」
「い、いえ、それは……って、あの、どちらまで――?」
あれよあれよという間に引きずられていく忠相。
道ゆく人々が目を丸くする中、謎の町人(実は将軍)と新進の同心が、連れ立って居酒屋の暖簾をくぐっていくのだった。
翌日――
「大岡、明後日、お城へ参れ。ご老中様からのお達しだ」
上司の一言に、忠相は首をかしげた。
(何の用だ……? 私はただの寄合旗本の次男坊。役職も持たぬ身だというのに……)
そして、明後日。
江戸城・中奥 書院の間
「大岡忠相、これより上様と御対面にございます。控の間にてお待ちくだされ」
(まさか、将軍に直々に呼び出されるとは……何かの間違いでは?)
やがて、襖が開き――
「上様のおなーりー!」
場が静まり返る中、将軍・徳川吉宗が御座に現れた。
「大岡忠相、表をあげい」
その声に忠相は顔を上げ――そして、固まった。
(あっ……あの時の、居酒屋で酒を酌み交わした、あの武士……!?)
吉宗はにやりと笑った。
「はっはっはっ、驚いておるようだな。まさか、居酒屋の相手が将軍とは思わなかったか?」
忠相は慌てて頭を下げた。
「し、失礼の数々、平にご容赦を……!」
「よい。忍びで町に出ていたのはこちらだ。むしろ礼を言いたい」
吉宗は一歩前に出て、真っ直ぐに忠相を見据えた。
「そなたの裁き、誠に見事であった。私欲なく、民の心を汲み、冷静に事を治める――あれぞまさしく奉行の器」
「大岡忠相、そなたに町奉行を任せたい。引き受けてくれるな?」
忠相はその場に伏した。
「ははーっ! ありがたき幸せ、身に余る光栄にございます!」
吉宗は頷き、笑みを浮かべた。
「これよりは、町の民を守る目となれ。期待しておるぞ」
こうして、かの有名な南町奉行・大岡忠相が、歴史の舞台に歩み出すこととなった。
今回登場したのは、あの名奉行・大岡忠相。
某時代劇でおなじみの大岡裁きを、ちょっぴりコミカルに取り入れてみました。
吉宗との出会いを、少し意外なかたちで描いています。
本作では、歴史の人物をゆるく楽しく再構成していますが、
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