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第31話 享保の改革〜紀州の存続と側用人の廃止〜

江戸城・中奥の一室。

御座所の片隅に据えられた小机には、紀州藩の地図が広げられていた。


吉宗は腕を組み、ふむ……と唸りながら、久通を呼んだ。


「久通、少し問う。館林藩や甲府藩は、なぜ廃されたのだ?」


「はい。将軍家を出した御家が、その後も大名として力を持つことを避けるため――そう聞いております。将軍家に過ぎた力を集中させぬ配慮かと」


吉宗は頷き、指で地図の「紀伊」の文字をなぞった。


「だが、紀州は元より御三家の一角。将軍を出したからといって、廃する道理はあるまい」


「ごもっともにございます」


(そうよ、紀州は最初から『徳川を支える柱』として置かれた家。甲府や館林と同じにはできないわ。今後また跡継ぎ問題が起きたとき、頼れる家が減っていたらどうするの?)


「……そもそも御三家は、将軍家を補佐するためにある。尾張、水戸、そして紀州。その三本柱が揃ってこそ幕府の体面も保たれる。私情ではない。幕府のためだ」


「ははっ、仰るとおりにございます」


「宗直を呼び寄せる。あやつに紀州を託したい。……久通、宗直をここへ」


「はっ」


久通はすぐさま膝を正し、一礼して立ち上がった。



「宗直、よく来てくれた」


「はっ。お召しいただき、光栄にございます」


紀州藩前藩主・徳川吉宗の従兄弟、徳川宗直。

その面差しには、緊張と同時に親族としての温かさもにじんでいた。


吉宗は静かに、しかし真剣な眼差しで宗直に向き直った。


「今日、そなたに話がある。紀州のことだ」


宗直の表情がわずかに引き締まる。


「将軍職を継ぎ、私は幕府を背負う立場となった。だが……私の生まれ育った紀州を、ここで絶やすわけにはいかぬ」


「紀州は単なる親藩ではない。尾張、水戸と並び、徳川の三本の柱の一つ。もしこれが失われれば、御三家の均衡が崩れる。幕府にとっても大きな痛手となろう」


吉宗は、わずかに言葉を置いたあと、はっきりと言った。


「宗直。紀州をそなたに任せたい」


宗直は、思わず膝をついた。


「……もったいなきお言葉。身に余るお役目にございますが、御期待に添えるよう、精一杯励む所存でございます」


吉宗は、満足そうに小さくうなずいた。


「そなたなら、務まると信じておる。紀州を守り、育ててくれ」



翌日。


吉宗は老中たちを呼び集めた。


「皆、よう集まってくれた。今日は一つ、決めねばならぬことがある」


老中たちは、姿勢を正し、耳を傾けた。


吉宗はゆっくりと告げた。


「紀州藩は、従兄弟・徳川宗直に継がせることとする。廃藩はせぬ」


一瞬、空気が揺れた。誰も言葉を挟まぬまま、吉宗は続けた。


「御三家は、将軍家を補佐する柱だ。尾張・水戸と並び、紀州を失うわけにはいかぬ。私情ではない。これは幕府のためだ」


老中たちは、深く頭を下げた。


「仰せの通りにございます」


吉宗は、彼らの反応を確認すると、もう一歩踏み込んだ。


「加えて……新井白石と間部詮房、両名は罷免いたす」


座に緊張が走った。


老中たちは、一瞬息を呑み、互いに視線を交わす。


新井白石。先の将軍・家宣の信任を得て、間部とともに政務を一手に握ってきた男。学識高く、政策にも実績はあったが、同時に彼らは「将軍の側近」という地位を利用して、老中や譜代を押さえつけ、権勢を誇っていた。


その存在に、腹の底で不満を燻らせていた者も少なくなかった。


「理由は、幕政の私物化である」


吉宗の声は静かだが、芯の通ったものであった。


「政は、一部の者が私利私欲のために動かすものではない。御三家、譜代、旗本、町人に至るまで、すべての民があってこその幕府であろう」


老中たちの中に、目を伏せた者もいた。白石や間部に遠慮せざるを得なかった過去を思い出したのかもしれない。


「ただし、将軍たる者、政に携わる者と密に連絡を取り合う手立ては必要だ」


吉宗は言葉を続ける。


「そこで、側用人制度は廃止するが――代わりに、“御側御用取次”を新たに置く」


老中の一人が小さく眉を上げた。


「御側御用取次……?」


「あくまで、私の意を老中や幕閣に伝える“橋渡し”にすぎぬ。政に口を挟むことは許さん。かつての側用人のように、将軍の権威を盾に好き勝手をさせるつもりは毛頭ない」


はっきりとした物言いだった。


老中たちは、安堵の表情を浮かべた。


「……上様の御裁断、誠に理にかなっております」


「白石殿らに感じておりました胸のつかえ、いま落ちました」


「側用人に代わる御側御用取次、まことに御英断にございまする」


言葉は次第に賞賛へと変わっていく。


「御政道、まこと楽しみでございますな……」


「いよいよ、幕府が正しく改まってゆくやもしれませぬ」


その声を受けながら、吉宗はゆっくりと立ち上がった。


「……さて、改革はこれからだ。まずは、足元を整えねばな」


その眼差しは、すでに次の一手を見据えていた。

今回は、吉宗が「将軍として最初に行った改革」の一つ――

紀州藩の存続決定と、側用人制度の廃止を描きました。


家を潰すのではなく残すという決断には、過去や血筋に対する情ではなく、将来の「備え」としての合理的な考えがありました。

また、側用人制度の廃止も、情報の私物化を防ぎ、幕政の透明性を取り戻すための一手。


地味に見えるかもしれませんが、吉宗という人物の考え方や方向性が、静かに、けれど確実に表れている場面だったと思います。


この一歩が、やがて「享保の改革」へとつながっていきます。


次回からは、いよいよ江戸幕府そのものにメスが入っていきます……!

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