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第30話 幕開けの宴

「上様、紀州の家臣たちが小広間に控えております」


「そうか。皆に将軍になった姿を、見せてやらねばの」


吉宗は静かに立ち上がり、小広間へと向かった。


扉が開くと、懐かしい顔ぶれがそこに整列していた。


「皆の者、大義である。……だが、わしとそなたらの仲じゃ。堅苦しい挨拶など抜きにしてくれ」


「そう仰られても、こみ上げてくるものがございます……」


「殿……いや、上様。このたびは、まことにおめでとうございまする」


「まさか、我らの殿が将軍になられようとは……感無量にございます!」


「上様となられても、節約道は邁進なさるのでしょうな」


「いや、本当に……めでたいことでございまする」


口々に語られる祝辞。顔を紅潮させる者、目頭を押さえる者。

それぞれが、長年仕えてきた主の「門出」に、心からの喜びと誇りを隠しきれずにいた。


吉宗は静かに目を細め、軽くうなずき小広間をあとにした。――そして、江戸城全体が祝賀一色に染まる午後を迎える。



本丸御殿、大広間の正面。

江戸城に設けられた表能舞台では、将軍宣下を祝う御祝儀能が始まろうとしていた。


まずは、将軍宣下の祝賀として、天下泰平・五穀豊穣を祈願する神聖な能『翁』が舞われた。

面をつけた演者が静かに舞台に現れると、場の空気が一瞬にして引き締まる。

続いて、脇能『高砂』が上演され、吉祥の詞章とともに、新たな将軍の門出をことほぐ声が城中に満ちていく。


御三家をはじめとする大名たちは、皆、背筋を正し、舞を見守った。


その眼差しの奥には、それぞれの思惑が潜みながらも、いまこの瞬間だけは、幕府の安寧と未来への祈りが共通して宿っていた。



能の余韻がまだ空気に残る中、城内では次なる祝宴の準備が静かに整えられていた。


会場は江戸城・黒書院の一間。

大広間に敷かれた几帳きちょうの向こう側には、吉宗のための御座が設けられており、左右には御三家の藩主をはじめ、幕府の重臣たちが控えている。

畳の上には膳が並べられ、献立には山海の珍味、そして祝いの酒が供された。


「上様、このたびは誠におめでとうございまする」

杯を捧げる老中の言葉に、次々と祝いの声が続く。


「上様のご治世、我ら心よりお支えいたしまする」

「これぞ天下の幸いにござりまする」


その声の一つ一つに、吉宗は丁寧に頷いて応じた。


(将軍、か……。まだどこか現実味がないのだが)


ふと目をやれば、久通が控えている。

軽く目を合わせると、にこりと笑って杯を差し出してきた。


吉宗もまた笑みを浮かべ、静かに盃を受けた。


祝宴はしっとりと、だが次第に和やかさを帯びてゆく。

酌を交わすたびに、形式ばった祝意は薄れ、かつての同僚や知己との言葉も混じりはじめる。


「いやあ、紀州殿が将軍とは……江戸もいよいよ引き締まりますな!」

「うむ、質実剛健、まさに吉宗公の気風が求められていたのじゃろう」


吉宗は内心で苦笑した。

(引き締める気など、まだ何一つ考えておらぬが……)


杯の酒は、ほのかに甘く、そしてほんの少しだけ重かった。



江戸城内、御座所の奥。

扉の外で控えていた久通が、静かに膝をついて頭を下げた。


「このたびは将軍ご就任、まことに――」


「……もういい、久通。お前まで堅苦しい口ぶりをせんでもよい」


吉宗は小さく息をつき、わずかに笑みを浮かべた。


「まさか、自分のような側室腹の四男が、将軍になる日が来ようとはな……」


「夢でも見ているようだよ、本当に」


「私も信じられませぬ。あのお城を抜け出しては町で遊ばれていた新之助様が今や将軍とは……」


「……ああ、それに久通、おぬしとよく喧嘩したな。」


「今思えば本当に些細なことで……」


「今ではもう、喧嘩の相手にもなれませぬ」


「ならば……せめて、昔のようにそばにいてくれ」


静かな空気が流れる。

将軍と側近――立場は変われど、絆は変わらぬまま。


その夜、二人は御座所の奥で、灯の消えるまで昔話に花を咲かせた。

少年の日々の思い出とともに、将軍としての長い夜が、静かに始まった。


八代将軍・徳川吉宗、ついに誕生――

今回は、吉宗が公式に将軍として任命され、能や祝宴でその門出を祝われる一日を描きました。


正室の子ではなく、側室腹の四男という「まさか」の出自から、将軍という大役を担うことになった吉宗。

自分でもまだ実感が湧かない中で、それでも懐かしい顔ぶれに囲まれ、少しずつ「上様」としての自分を受け入れていく……そんな静かな心の揺れを大事に書いたつもりです。


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