第25話 紀州の町に目安箱出現
その日、吉宗は机に向かい、何やら新たな策を練っていた。
「吉宗といえば目安箱、よね……?」
小声でつぶやいた後、自ら首をかしげる。
「でも、あれは将軍になってからの話だったか……。いや、ここで取り入れても、悪くはあるまい」
ふと思い立ち、声をかける。
「久通、そこにおるか?」
「はっ。殿、いかがなされました?」
いつものように背筋を伸ばして現れた久通。だが、その表情にはうっすらと警戒の色が浮かんでいる。
また、とんでもないことを言い出すのでは――そんな心の声が見えた気がした。
「城下に、目安箱を設けようと思う」
「……目安箱でございますか?」
「うむ。良き政をなすには、民の声が欠かせぬからな」
吉宗がさらりと口にすると、久通は一瞬目を見開いたが、すぐに頷いた。
「それは……まことに良きお考えにございます」
その顔には、安堵の色が滲んでいた。
「設置場所だが……どこがよいと思うか?」
「やはり、城の正門前ではございませぬか?」
「うむ……威厳はあるが、民にとっては敷居が高かろう。お城に訴えに行こうなどと、気軽にはならぬであろうな」
「確かに……では、大手筋はいかがでしょう?城下でも人通りが多うございます」
「ふむ、民の声も届きやすそうじゃ。しかし、お上の目が届かぬ場所ゆえ、不届き者のいたずらも心配じゃな」
「それもまた道理。では、寺社の境内では?」
「それも考えたが……僧たちが、あれやこれやと口を出してきそうでの。政に宗教を巻き込むのは避けたい」
「では、奉行所の前は?」
「それも敷居が高いであろう。お裁きの場と近ければ、訴えに来る者も身構えるわ」
「……さて、困ったものですな」
しばし黙考した後、吉宗はぽつりとつぶやいた。
「……やはり、大手筋がよかろう。これは民のための施策じゃ。ならば、民の近くが一番じゃな」
「はっ、大手筋に設置いたしまする」
*
翌朝、大手筋の通りにひときわ目を引く箱が置かれた。
傍らには、「目安箱設置」のお触れ書きが高々と掲げられ、行き交う町人たちが足を止めていた。
〈お触れ書き〉
一、これより、大手筋に目安箱を設けることとする。
一、町民の訴え、嘆願、進言など、いかなるものも受け付ける。
一、名を記すもよし、記さずともよし。
一、訴状は、月に一度、藩主自ら目を通すものとする。
――紀州藩主 徳川吉宗
「おい、見たか? また殿が何か始めたらしいぞ」
「目安箱、だと? なんだそりゃ」
「ほら、ここに書いてある。民の声を聞くってよ」
「えぇ~、ほんまに読んでくれんのかね」
「さあな。でも、おいらの長屋の雨漏りのこと、ちいと書いてみっかな」
「おいおい、下手なこと書いて捕まるんじゃ……」
「名前は書かんでもよいってあるぞ。こりゃ面白くなってきた!」
集まった町人たちは半信半疑ながらも興味津々。
中には腕組みして唸る者や、「よし、じゃあ早速書くかな」と呟きながら足早に立ち去る者も現れ、大手筋の一角はちょっとした騒ぎとなっていた。
「殿、民の反応も上々でございまする」
「そうか。それは良きことじゃ。どんな訴えがくるか楽しみじゃな。ふふ、民の声を聞いてこそ良い政ができるというものよ」
──後日。
「殿、今月の訴え状でございまする」
「ご苦労。どれ……『お殿様、魚の卸値を元に戻してもよろしいでしょうか。魚屋 市兵衛』……」
「…………」
「久通、この市兵衛という名に、見覚えがあるような気がするが……」
「左様、殿が先日、城下にて熱い値切り交渉をされた、あの魚屋にございます」
「……やはり、あの時のか」
吉宗は目を細め、しばし天を仰いだ。
今回は、吉宗がまじめに“民の声を聞こう”と目安箱を設置するお話……のはずでした。
殿、方向性は間違ってないんです。ええ、間違ってはないのですが……まさか最初の投書が「魚の値段戻して」だなんて、誰が予想できたでしょうか。
まじめな施策にも、どこかズレた反応が返ってくる――そこがまた主婦吉宗の魅力(?)かもしれませんね。
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