第23話 藩札の行方と吉宗の決断
藩政改革に着手して幾ばくかの時が過ぎたある日――
勘定方より、「ぜひお目通りを」との申し出が届いた。
改革に伴い、あちらも何かと積もるものがあるのだろう。
私は軽くうなずき、予定帳を一瞥してから、側仕えに指示を飛ばした。
「よかろう。通せ」
私は軽くうなずくと、几帳の奥へと視線を移した。ほどなくして、控えていた役人が慎重な足取りで部屋へと入ってくる。
「殿、お時間を賜り、恐れ入ります。早速ながら、本日の件にございましては――
出納逼迫により、誠に恐れながら、藩札を一万両分増刷致したく、御伺いに上がりました」
私はその言葉に眉を顰めた。
「藩札の増刷だと?」
「はっ、畏れながら申し上げます。
近頃、御用金の支払いが相次ぎ、藩の手元に潤沢な金子がございませぬゆえ……
当面の支出をしのぐため、やむを得ず、藩札の増刷をと存じ上げまして……」
吉宗はしばし黙し、帳簿の一角に視線を落としたまま、やがて顔を上げた。
「返せる見込みはあるのか?」
その声は怒気を含んでいたわけではない。むしろ静かで低い。けれど、その一語一語には、言い逃れを許さぬ重さがあった。
「返せぬとあらば、藩札の価値はただの紙同然……」
眉をわずかに寄せ、じっと相手を見据える。
「それを理解したうえで申しておるのか?」
勘定方の役人は、その視線に射抜かれたように背筋を伸ばし、額にじわりと汗をにじませた。
「はっ、重々承してございまする……」
喉が鳴る音とともに、かすかに喉仏が上下する。顔はこわばり、手にした帳面を持つ指先にも力がこもっている。
「されど、他に手立てもなく……何卒、お沙汰を……」
畳に落ちた汗のしずくが、じわりと紙の表面を濡らした。
吉宗は静かに役人を見やった。その視線には、表情を崩さぬまま、言葉の裏を見通す鋭さが宿っていた。
「……少し、考えるとしよう」
柔らかな口調だったが、その一言に込められた重みを、役人も感じ取ったのか、背筋を強張らせて深々と頭を下げて去った。
頭を下げて去った役人の背が襖の向こうに消えると、吉宗はひとつ、ため息をついた。
「はぁ……」
彼は帳簿の束に手を伸ばし、机に向かう。
開かれた帳簿の中には、ここ数年の金の流れが詳細に記されていた。
震災の復興、先代や先々代の葬儀にかかった膨大な費用――。
その一つひとつは必要な支出だった。
無駄遣いとは言えない。だが、積もりに積もった支出が、すでに藩の足元をぐらつかせていた。
(……勘定方も分かっているのだろう。藩札を増やせば信用が落ちる。現金化の見込みもないことぐらい、誰だってわかる)
(それでもやらねばならぬ。目先の支払いを凌ぐには、それしか道がない)
帳簿の端に、誰かの筆跡で「一万両」と書かれた数字がにじんでいた。
吉宗はその数字を見つめたまま、静かに呟く。
(でも……藩札は借金返済のためにポンポン刷るものじゃないわ)
筆を握る手に、じわりと力がこもる。
(そんなことをしていたら、いつか信用をなくして、価値がなくなってしまう。現代の国債だってそうじゃない。刷りすぎれば、インフレが起こる)
遠い記憶――スーパーのチラシに目を光らせ、卵の値段に一喜一憂していたあの頃――が、ふと胸をよぎる。
(あの時も思ってた。先送りばかりじゃ問題解決にはならない!)
そっと帳簿を閉じた吉宗の目には、決意の色が宿っていた。
「久通、勘定方を呼べ」
呼び出された勘定方は緊張した面持ちで再び謁見の間へと姿を現した。
「増刷は――認めよう。ただし、これを最後とする。今後、藩札の発行は一切許さぬ。よいな」
「……はっ」
「それから、今出回っている藩札も、少しずつ回収する。現金と引き換えに、地道に回収していけ」
吉宗の声音には揺るぎがなかった。
「藩の信用とは、即ち民の暮らしそのもの。それを損ねてはならぬ」
深く頭を下げる勘定方に目を向けることなく、吉宗は机上の帳面に視線を落としたまま言った。
「下がってよい」
「ははっ」
扉が閉まる音が遠ざかると、吉宗は小さく吐息を漏らした。
(……今は仕方ない。今刷らねば、立て直すどころか明日を迎えることすら危うい)
(だが、これが最後だ。これ以上の増刷はせぬ)
(藩札の信用が落ちれば、物の値は上がり、民の暮らしはますます苦しくなる。――それだけは避けねばならぬ)
(少しずつでよい。これからは、藩札を現金に換え、回収していく。それが信頼を守る道)
彼の瞳には、ひときわ強い光が宿っていた。
今回は真面目モードの吉宗でお送りしました。
藩札の増刷、借金の返済、インフレの懸念……節約主婦の血が騒ぐ展開でしたね。
次回はどうしましょう? また真面目路線で攻めるか、それとも久しぶりにおちゃらけ吉宗が暴れるか……
ぜひ、読者の皆さまのご希望をお聞かせください!
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