第2話 転機は突然に
陽の当たる縁側で、ふかふかの布団にくるまりながら、私はごろりと転がっていた。
(あったかい……なんかもう、このまま寝てもいいかも……)
目の前には、湯気の立つ白湯とやわらかいお粥。
乳母が木匙でそっと口元に運んでくれるそれを、私はゆっくり、よく噛んでから飲み込む。
「源六様、今日もお利口でございますねぇ。よく噛んで、えらいですこと」
(……うん、なんか、こうした方が落ち着くんだよね)
言葉にはならないけれど、小さな私は、小さな世界で毎日を穏やかに過ごしていた。
乳母も爺やもやさしくて、衣服は季節に合わせて丁寧に調えられている。
朝昼晩のご飯はあたたかく、部屋も寒くない。
不思議なことに「物がない」「足りない」と思ったことがない。
(なんか、すごく……ちゃんとしてる)
でも、それが“当たり前”なのか“特別”なのかは、まだわからなかった。
◆
ある日、屋敷の空気が変わった。
使用人たちがひそひそ話し、いつも明るい乳母の顔にも陰が差している。
「……次郎吉様が……」
「まさか、あのお方が……」
耳に入ってくる声の中に、「次郎吉」という名があった。
(……兄さま、だっけ。会ったこと……あったっけ?)
たしか、私は“源六”と呼ばれていて、末の子。
父は立派な人らしいが、私は生まれたときに「体が弱いかもしれない」とかで、城ではなく家老の家に預けられたのだという。
だから、兄たちのことはよく知らなかった。
姿を見た記憶も、声を聞いた覚えもない。
でも、その日を境に、周囲がざわざわとし始めた。
人の出入りが増え、なにやらあわただしい。
やがて、父の使者がやってきた。
「源六様は、江戸へ向かわれます」
(え……なにそれ?)
そう思う間もなく、私は立派な駕籠に乗せられ、家臣に囲まれて旅に出た。
◆
江戸の紀州藩邸は、それまで住んでいた屋敷とは比べものにならないほど大きかった。
廊下が何本もあり、行き交う人の数も多い。
部屋は広く、言葉遣いもどこか硬い。
「源六様、こちらへどうぞ」
「お着替えはこちらで……」
それまで親しんでいた乳母とは別の人たちに囲まれ、少しだけ不安になった。
でも、食事はやっぱり温かく、布団もふかふかで、静かにしていれば誰も怒らない。
私は新しい環境にも、なんとなく順応していった。
数日後、改まった場で名を呼ばれた。
「以後、源六様は“徳川新之助”と名を改められます」
(……しんのすけ?)
どこかで聞いたような、でもはっきりしない。
(うーん……まあ、かっこいい気もするし……別にいいか)
幼い私は、それがどういう意味を持つのか、深く考えることもなく受け入れた。
「武家の子は、成長にあわせて名前が変わるものですからなあ」
と、大人たちは当然のようにうなずいていた。
◆
新しい名前、新しい屋敷、毎日の稽古。
剣術や弓、文字の練習に礼儀作法と、遊ぶ時間は減ったけれど、生活は安定していた。
とくに「食べること」に関しては不満がなかった。
三度のごはんはちゃんと出るし、熱すぎず、冷たすぎず。
私は、よく噛んで、しっかり飲み込んで、残さず食べる。
それがいつの間にか「立派なお子様」と評されるようになっていた。
「新之助様は、きっとご立派なお方に育たれましょうな」
(……それって、褒められてる?)
でも、“将来は当主に”なんて空気は、この時点ではなかった。
まだ兄たちがいたし、私は末の子。誰もが“まさか”と思っていたはずだ。
ただ、私の知らぬところで、ひとり、またひとりと兄が姿を消し――
気づけば、私しか残っていなかったのだ。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
今回は「まったりスローライフだったはずが、気づけば江戸へ!?」という転機の回でした。
この物語の主人公・源六は、史実の徳川吉宗がモデルですが、本人はまだそのことに全然気づいていません。
それどころか、「ごはんがおいしいなあ」「布団ふかふかだなあ」と、わりと真剣に“今を楽しんで”います(笑)
歴史モノではありますが、ガチガチの時代考証ではなく、あくまで「節約主婦がうっかり名君に!?」という、のんびり転生コメディとして描いていきたいと思っています。
次回は、いよいよ元服(大人の仲間入り)を迎える源六。
名前も「頼方」となり、少しずつ「吉宗」という運命が近づいてきます。
けれど――
本人はまだ、自分の正体にも時代にも気づいていません。
そんな彼(彼女?)の、ちょっぴりズレた成長を、これからもゆるっと見守っていただけたら嬉しいです。
それでは、次回もどうぞお楽しみに!