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上位互換の庭セット 3980円

作者:

当初の予定より割と伸びちゃいました。


ホームセンターは私にとってある種の麻薬です。


そのホームセンターは私の家から車で十数分ほどの距離にあります。

「コンビニ感覚で行ける」と思うかどうかの賛否が分かれる絶妙な距離と存在感なのではないでしょうか。

店舗の広さ、多すぎず少なすぎずの客数、匂い、店内BGM、そしてそれらが構成する「雰囲気」というやつ、どれもが私の中の依存性をくすぶります。

娘からはすっかり呆れられています。テーブルに置いてあったレジ袋を見て舌打ちをされることさえありました。坊主憎けりゃ何とやらです。


誤解されるのもあれなので言っておきますと、別にDIYとかガーデニングに興味は全くないんです。

我が家には確かに世間一般でいう庭というやつがあります。

エアコンの室外機とか物置周りとかは割と綺麗にしてます。妻と違ってその辺は私マメなので。

ただそれ以外はノータッチです。

あ、夏は除草剤撒きます。私も娘も虫が得意ではないからです。我が家の対ゴキブリ特殊機動係は専ら妻です。


少し話逸れてもいいですか?


今の家に引っ越したのは娘が三歳の時でした。

都市開発の一環としてついで感覚で作られたニュータウンへのプチ引っ越しでした。だから前の住みかへは徒歩で行けます、もうイオンモールになっていますが。

コピペを繰り返したような土地、建物、備品。

皆で仲良く均一的に減価償却ができる街、それがこのニュータウンです(もうニューでもなんでもないですけどね。)

そんなわけで私の中で自然発生したのが『チキチキ 家のローン完済レース』です。

やっちゃいますよね。お隣もお向かいも(はす)向かいも大体金額同じだろうな、っていうのが見えちゃいますからね。

そしてこのレースで私はぶっちぎりの成績を残しました、多分ですが。

つまりは住宅ローンの繰り上げ返済をやりまくったんです。ここまで徹底的に元金を削りにかかったのウチくらいじゃないでしょうか。知りうる限りで一括払いしたご家庭はなかったはずでしたし。

ごくごく一般的な共働きの核家族にしては結構なスピード記録だと思うんです。

地味で陰湿とはいえこれも一つの優越感なんです。地味で陰湿なハウトゥーでもいいから褒めてほしい。


逸れすぎたでしょうか。戻ります。

そんなわけでDIYにもガーデニングにも興味のない私がホームセンターで何を買うか。何も買いません、基本的に。

ただラリるためだけにホームセンターを徘徊しています。

時折、「いつの間にか単三電池減ってたな」とか「今年は雰囲気に乗ってクリスマスリースでも飾ろっかな」といった具合に動機を練ります。

ちなみに食品は滅多に買いません。妻が不機嫌になるからです。

「台所の一切を担う私にとって日々の食事はライブ、献立決めは作曲活動なの。勝手に冷蔵庫を埋めるのはセトリ乱してるようなものでしょ。」

以上が妻の言い分です。当然私は反論しません。飲み込みます。

これからご結婚または同棲をお考えの皆さん。家事非分担(ソロデビュー)の弊害はまず冷蔵庫のレイアウトに出ます。慎重なレコード契約をオススメします。


「あれ、貝川(かいかわ)さん?」

仙人みたいな声が後ろから私を呼びました。この声、誰だっけ?

あぁ、先ほど少し登場していました、斜向かいの権藤(ごんどう)さんです。

声こそ仙人みたいな権藤さんですがルックスは私より若く見えます。ほんのりと日焼けしている上に茶髪なのがそれを助長しています。確か実年齢は私より六つ上だったはずですから現在彼は四十一歳。う~ん、若々しい。

「最近よくここでお会いしますね。」

別に「お会い」しているわけじゃありません。一方的に目撃されているだけです。

「晩御飯の調達ですか?私もなんです(笑)うちのカミさんに買ってこいって言われちゃってねー。」

(「も」じゃないんだよ、「も」じゃ、テンポが合わない通り越してメトロノームの製造元ごと違うんだよ)

記憶が間違っていなければ権藤さんは総合商社の部長をやってたはずです。

そのため会話の端々に“それっぽさ”が見られます。

「このカレーなんですけどね、レトルト食品のBtoBで今年に入って業界シェアトップに躍り出た企業が製造してるんですよ。元々はアメリカに本社置いてるグローバル企業の日本支社だったのが暖簾分けされて新しい一個の会社になったっていう面白い企業でしてね…」


始まったよ。


「なるほど」とは思うけれどその先がない、感心はしても関心は湧かない、そんな話。

ただ知識をひけらかしたいエセインテリならまだ幾分かマシかもしれないです。しかし権藤さんや彼のような属性の人は違います。

「今自分が提供している情報が相手の人生にプラスを与えている、豊かにしているのだ」と本気で信じているのです。

それがかえってタチが悪い。


私の勤める会社にも一定数生息しています、こういったアナタノタメニナル科の人間が。

二十代の私はこの人種が大っ嫌いでした。

三十代手前の私はこの人種との当たり障りない付き合い方を覚えました。

そして三十代後半の今、私はこの人種との共存を真剣に考えはじめています。


そもそもなぜ私とアナタノタメニナル科にここまでの溝があるのか?

思うにそれは私が高卒だからです。

もっと正確に言えば〈自己実現とか向上心に欠けた高卒〉だったからです。


高校を卒業してすぐの、ちょうどゴールデンウィーク手前の時期のことでした。

彼女(現在の妻)との間に子供ができたことを両親に伝えたところ、私はものの数秒で勘当を食らいました。

「お前みたいな半端者が父親じゃあ、産まれてくる子は三つもならんうちに死ぬだろうよ。」

まるで見てきたかのような口調で偉そうに諭す父親の顔は今でも脳裏に焼き付いています。

結局いつまで経っても父親から見た私というのは、夏休みにアサガオの面倒を怠り枯らした時の私のままだったのです。

私は怒りと悔しさで震えました。

思えば私の父親は昭和気質と上昇志向をDNA レベルで焼き込んだような人間で、対人関係において「~してやる」というスタンスが常の人でした。

私とアナタノタメニナル科との決別はもうこの時に始まっていたのです。


怒りと悔しさを消す方法は一つ、妻とともに娘を立派に育てあげることでした。

その事実をもってして父親をひれ伏させたいと思う自分がいました。

大学進学を諦めた私と妻はそれから馬車馬のように働きました。

幸いにも知人からシンデレラストーリーさながらの融資・援助を受けた私はそこそこ大手の商社に高卒でありながら入ることができました。

この頃からでしょうか、私とアナタノタメニナル科の亀裂が瞬く間に拡がったのは。

自己のキャリアや所属しているコミュニティへの寄与なんかどうでもいい、家族の生活の維持・安定が第一の私でした。

それに対して、やれ「三十までには独立」だの「新たなプラットフォームを創る」だの「お互いに高め合える関係を」だのと言っては連日MTG と合コンの往復を繰り返す大卒の同期。

守りの私と攻めの彼らです。共鳴のしようがありません。

え?「今お前MTG (ミーティング)って言った?イキった?」ですか?

いいえ、これは私なりの彼らへの歩み寄りのつもりです。


「貝川さん?どうかされましたか?」

しまった。回想が長すぎました。

っていうか回想中ずっとレトルトカレーの会社のブランディングの話してたんですか権藤さん?カンブリア宮殿じゃん。

「すいません。ここ最近あんまり眠れてなくて、」

適当な言い訳で返します。

「そうですか。『春眠暁を覚えず』って言いますけど、やっぱりこういう春先って睡眠のコントロールが難しくなりますよね~」

さすがは権藤さん。雑な返しもちゃんと自分のフィールドに引き込みます。

「そういえば最近よくお嬢さんをお見かけしますよ。」

ん?

「そうなんですか?」

「ええ。私いつもミーティングがある時は会社の近くにあるサラダ専門店の『サーモンとクレソンのサラダ』を買って食べるんですけどね、店から会社に戻る途中でお見かけするんですよ。スーツを着た若い男性とご一緒でしたよ。」

「……。」


(あ、権藤さんはMTG って言わないんだ、)ってお思いでしょうが今そこはどうでもいいです。

記憶が間違っていなければ権藤さんの勤めている会社は東京都千代田区にあります。娘の通っている高校とはなかなかに離れています。

それ以前に平日の昼間にJK がオフィス街にいるのは不自然です。

さすがにその不自然さはアナタノタメニナル科の権藤さんも同じ感覚として伝わっているはずです。それがわかった上で彼はこの話題を切り出してきたんです。

私は目の前にいる小麦色で茶髪のこのおじさんがだんだん怖くなってきました。

「貝川さんは今夜の晩御飯はご家族みんなで?」

「え、ええ。その予定です。」

ほら。この質問はもうなんというか、そういうことです。

しばらくの静寂。なんとか私は口を開きます。

「ちょっと…また今度にでも…娘にも聞いてみます。」

私の声、急にガサガサです。

「あ~そうした方がよろしいでしょうね~」

権藤さんは口角を少し上げました。“他人様の家庭に口出しするのはアレですが、何かあってからでは遅いですよ”と言われたような気がしました。

「それじゃあ失礼。」

そう言って権藤さんはレジの方へ去って行きました。

取り残された私は徘徊を延長することに決めました。。


かくして私は普段滅多に長居しない園芸コーナーにて植物の種が並べられたラックをぼんやりと眺めています。

ユーフォルビア、メカドルニア、トレニア、ペチュニア、……

西洋魔術の呪文みたいだなぁ、と現実逃避に走る脳みそが呟きます。

「ヒシキパグラ…アパラチャモゲータ…」

「エロイムエッサイム?」

「え?」

キョトンとした私の目を見て彼女はフフッと笑いました。

水木しげる作品に出てくる呪文を唱えるヤツに合いの手を入れられる大人がこの世界にいかほど存在するでしょうか?

とりあえずこの店のスタッフに一人居たことがわかり私は驚きました。

「『ゲゲゲの鬼太郎』でしたっけ?」

「『悪魔くん』にも出てくる呪文です。」

「そうなんですね~」

(こんな綺麗な人が働いてたんだ)

「珍しいですね。」

「え?」

「だっていつもはこの園芸コーナーはスルーされてるじゃないですか。こうして来てくれるだなんて意外です。」

(轟さんっていうんだ。というか、いつも見られてたんだ私。)

「今日はちょっと考え事しちゃってて、それでなんとなく、」

「そうだったんですか。でも、なんとなくでも来てくれて嬉しいです。」

轟さんは真っ直ぐに私を見てそう言いました。彼女は軽く腰を曲げることで視線の高さを私に合わせてくれています。

思わず私も彼女をじっと見つめます。

目はそれほど大きすぎず鼻筋もさほどスラッとはしていませんがそれぞれのパーツのバランスが非常に整った顔立ちです。

髪は黒のセミショート、少しだけ入っているインナーカラーは濃いパープルです。

なんというかその、えらく引力のある顔です。

「何か育ててみますか?」

「え、……クレソン。」

権藤インパクトの余波から依然として抜け出せていない私がいます。

「クレソンですか、いいですね!生命力の強い多年草ですから初めて家庭菜園される方にはオススメですよ!」

轟さんが商品を探そうとしたので私は慌てて止めました。

「ああ、いや、やっぱりクレソンはやめときます。あの、轟さんのオススメって何かありますか?」


いつの間にか外が暗くなり始めています。

権藤さんがもういないのは当然のことですが、店内を見回すと客がほとんど回遊していません。この時間帯でこんなに静かなのは珍しいです。

「お待たせしました。こちらなんかいかがでしょう?」

柔和な笑みを見せながら轟さんはやや大きめの段ボールを持ってきました。

『上位互換の庭セット 個人宅用』

私は心の中で段ボール上面に印字された商品名を五回読み直しました。

「えーと、これは…」

「あ、大丈夫ですよ。体積こそありますけど全然軽いですから。お車ですよね?」

彼女は「ほら、軽いでしょ。」と言いながら私に段ボールの端を持たせます。

「確かに車ですけど。そうじゃなくてですね、これは一体どういう商品なんでしょう?上位互換?」

「はい、上位互換です。『三輪車がフェラーリになる』とかの上位互換です。」

(轟さん、天然な上にクセが強いな)

「じゃあフェラーリ出てくるってことですか?庭から?」

「フェラーリ埋まる位の広さのあるお庭なんですか?お住まい豪邸なんですね~」

(いやフェラーリ持ってきたのアンタだろ)

「よく『幸せを呼ぶ観葉植物』ってあるじゃないですか。」

「え?ええ。」

「アレみたいなものだと思ってください。きっと…」

轟さんの小指が私の人差し指に触れます。思わずキュッと強張った私の肩に彼女はトンと顎を乗せます。至近距離で私の耳に伝わる彼女の息の温度と忍び声。

「きっと貝川さんにシアワセ、運んできてくれますよ。」

私はハッとなりました。轟さんはちゃんと段ボールを挟んで私の真正面に立っています。

「お、おいくらですか。」

「税込で三九八〇円です。」

(高いのか安いのかわからない)

「じゃあ、これください。」


轟さんはそのままレジでのお会計をしてくれました。

そして彼女はなぜか駐車場までついてきてくれました。懇切丁寧な素晴らしい接客です。ちなみに車に着くまでに三回ほどお互いの肩が触れました。

「ちゃんとトリセツの通りにやってくださいね。ガーデニングの基礎は『継続力と忠実性』ですよ。」

フニャフニャと笑いながらそう言う彼女の頬はほんのりと赤らんで見えます。まるでこの夜風に酔いを覚まさせているかのようです。

「わかりました、ありがとうございます。」

私も笑顔で返します。いつの間にか私の心は格段に軽くなっていました。


家路につくまでの車中で私はずっと彼女の香りに包まれていました。

おそらくは後部座席に置かれた段ボールを介した移り香なのでしょうが、それは広くて甘くて深い香りです。助手席に彼女が座っているのではと錯覚させられるほどです。

思えば彼女に耳元で囁かれたあの瞬間自体もきっと錯覚です。

(あの園芸コーナーに行けばこの錯覚に再度陥ることができるのか)

そう思うと私は自然と高揚しました。

これから家族との苦悩の時間が待ち受けているというのにアクセルのペダルが軽やかで仕方ありません。

今の私に見えているのは今夜の家のその先、明日の会社終わりの園芸コーナーです。


私と轟さんとの一幕をご覧になって、

「妻帯者のくせに若い女に魅せられるなんて」「なにをムラムラしてるの、最低」「これだからオジサンって不潔」

と思われた方が一定数いらっしゃることと思います。

二つ言わせてください。

まず一つ目に私は不倫をしようなどとは一切考えていません。〈誘惑に応える〉ことは妻を裏切る悪行ですが、今みたいに私が一人車内で高揚するなどといった〈誘惑を自分の中で咀嚼する〉行為というのは善悪の彼岸にある本能的なものです。男たるもの、いや人間たるものに備わった(さが)です。

そして二つ目に皆さんはここまで私サイド、つまり夫側の生活の一場面を覗いたに過ぎません。

(つが)いの間で生じる過ちというのは突き詰めればどれも必ず双方に原因があるものです。

妻を見ずして夫を非難する、夫を見ずして妻を非難する、こういったことは極めて滑稽です。

では私の妻にある“原因”とは何か?

それはまた追々ということで。まずは週末の庭作りです。



というわけで土曜日の午後三時です。

昼間からノンアルビールとチェダーチーズに手を出した私に「まったくもう~」と軽く呆れながら妻の千波(ちなみ)は買い物に出掛けました。今家には私一人だけです。

縁側に腰を下ろした私は隣に置いた『上位互換の庭セット 個人宅用』をとりあえず開封だけしました。

「あぁ、そうだ。」

この手のニュータウンの良い所は馬鹿の一つ覚えのように造られた桜並木です。今年も見事に咲いています。

なんだかんだとケチをつけたところで、やっぱりこの艶やかな香雲は綺麗と言わざるを得ません。

悪い所といえば毛虫の大量発生です。なんせ私と娘は虫があまり…これ先日も話しましたね、失礼。

というわけでまずは除草剤を撒きます。少しでもダメージを軽減させてから始めたいですから。

セットの使用前に庭に除草剤を撒くのは問題ないことは昨日轟さんから教えてもらっていました。


ご推察の通り私はこのセットを購入した水曜日から今日までの間、毎日ホームセンターに通っています。

すいません若干誤魔化しました、訂正します。轟さんに会いに行っています。

私の中で依存の対象が「一店舗」から「一人」に移行・収斂されていくのを確かに感じたのです。

決まって彼女は私の姿を確認すると当たりくじを引いたような表情を見せてくれます。

決まって彼女が接客してくれている間、園芸コーナーには他の客やスタッフがいません。二人きりです。

決まって彼女の笑い声、少し自分よりも高い背丈、広くて甘くて深い香り、インナーカラーのパープルに私は気を取られます。


開けたセットの中には土、肥料、スコップと折り畳み式のシャベル、杭とロープ、じょうろに熊手、小っちゃい立て札のようなもの何枚か、等々道具一式が詰め込まれてます。

段ボールで持ち上げた時はあんなに軽いのに中身は案外ビッシリなんだな、と思いました。

箱の隅に冊子がありました。大きさはスーツの内ポケットに入る程度ですが割と分厚く、ご丁寧に紺色のカバーが付いています。

(結月(ゆづき)の生徒手帳に似てるな~)

案の定これは取扱説明書でした。中はというと比較的大きめの文字とイラストで構成されていて非常にシンプルです。そこは生徒手帳っぽくありません。

「まずは範囲の決定からかな。」

個人宅用の場合、周囲二〇メートル以内の範囲での使用が適正だそうです。

轟さんとも相談した結果、レイアウトは縦二メートル横四メートルの長方形を外塀に沿わせる形にしようと決めていました。

どれどれ?どうやら杭とロープはここで使うみたいです。

「杭を打つんなら金槌(ハンマー)が要るじゃないか。」

私は物置の方へ向かいましたが、すぐに足を止めました。

「いけない、そうだった。」


「基本的にはセットに入っている道具のみ(・・)使用してください。」

のみ(・・)ですか?」

「はい。」

私は適当に手に取ったストレリチアの種のパッケージを見ながら轟さんに尋ねます。

「セット以外の道具を使っちゃいけない理由とかがあるんですか?」

「いいえ、ありませんよ。ありませんけど折角なんだから統一されたアイテムでガーデニングを楽しんでほしいんですよ、フフッ。」


杭を庭に打ち付けながら私は轟さんの「フフッ」を思い出してつい赤面してしまいました。

再度セットの中を確認するとちゃんとありました、金槌が。

杭を打っていくというのは割と腕の力を使う作業です。筋肉痛になっちゃいそう。

ところでこの金槌なんですが、そこそこオシャレです。柄の先端に小さくも精巧なイルカのモチーフが付いています。

金槌だけじゃありません、スコップや熊手にも同じイルカのモチーフ。

それともう一つ、どの道具もエメラルドグリーンです。上から塗料か何かが塗ってあるんでしょうがそれにしたって鮮やかです。

春の陽の光に当てると、ラメとかとはまた違った、それこそ本物の宝石のようなキラキラとした輝きを放つのです。

轟さんの言う「統一されたアイテム」の意味がわかりました。確かにこの些細な統一感が私を楽しくさせてくれています。


「ただいま。」

いまいちちゃんと声は聞き取れませんでしたが多分帰ってきたのは娘の結月でしょう。千波がこんなにすぐに帰ってくるわけがありません。

「お母さんは?」やっぱり。結月でした。

「買い物~」

「そっ。…何やってんの?」

「ガーデニング…」

「ふーん」

自分から聞いておいて答えたらこの通りの愛想の無さ。娘はまるでアナタノタメニナル科と対をなすような存在です。


「アナタノタメニナル科?(笑)何それ?(笑)」

轟さんは笑う時に首を少しだけ左に捻る癖があります。私も昨日発見しました。

「そういう人身近で居ませんか?」

「私がそうかも。」

「確かに。グイグイ来る感じはそうかもしれないです。でも轟さんのは本当に相手のためになってるじゃないですか。」

「ホントですか?嬉しい~。娘さんはどうなんですか?」

「娘ですか?あの子はむしろもう少しアナタノタメニナル科に寄ってもいいくらいですよ。」

「え~そうなんですか?もしかしたら娘さんは貝川さんの方から話を投げてくれるのを待ってるのかもしれませんよ。」

「そうなんですかね~」


「結月、」

打ち付けたそれぞれの杭の先っぽにある輪っかの部分にロープを通しながら私は娘に話しかけました。

「何?」

「最近、学校はどうだ…?」

「別に。お母さんから聞いてるでしょ。テストも、模試も、通知表だって問題なく好成績だって。」

通しきったロープの両端を固く結びます。

「お前が勉強できるのはお父さんだってわかってる。テストの点数とか五段階評価とかには嘘はないだろうさ。お父さんが聞きたいのは出席日数だ。」

ロープを縛る私の手に握力が込み上がっていきます。

「何が?っていうか“嘘”って何?」

一方の娘は言葉に刺々しさが滲み出していっています。

私は一呼吸置いてから立ち上がり、縁側に立つ結月と向かい合いました。


「斜向かいの権藤さんっているだろ、」

「ああ、あの小麦色で茶髪の?」

(認識してるとこ同じじゃん!)私はほんの少し驚きました。

「この前権藤さんと立ち話しててな、あの人が働いてる会社の近くでお前を見たって聞いたんだ。スーツ着た男と一緒だったって。」

いつの間にか桜の木が西日によって黒いシルエットになっています。

「誰なんだ、その男は?」

「…会社の代表取締やってる人。」

「何ていう会社の誰だ?」

「どうしてそこまで説明しなきゃいけないの?自分の将来のために頑張ってるんだから放っておいてよ。」

「将来だと?」

「今私その人の会社の手伝いしてるの。そのまま就職する予定だから。」

「大学は?」

「行かない。お母さんにはもう話してるから。」

「おい、ちょっと待てよ、それh…」

「最近じゃ高校生のうちにインターンシップやってそのまま社員登用されるのだって当たり前なんだよ。」

「『されるのだって』って言い方してる時点でそれは主流じゃないんだよ!大体な、真っ当な企業なら大学や大学院での奨学を保障して適切なステップを踏ませていって社員にするんだ。焦る必要はない、もう少し慎重に考えるべきだ。」

「それだってただのお父さんの中の物差しじゃん。奨学金返す相手が国から企業に変わるってだけで、社会人になってから返済に追われることには変わりない。」

真っ直ぐ私を見る結月から私の目線は逃げました。娘の反論は続きます。

「焦らなくていい?慎重さ第一でいい?それってさ、〈お父さんの価値観〉じゃなくて〈お父さんの時代の社会景気の価値観〉なんだよ。バブル崩壊もリーマンショックもその場凌ぎでよかった、私たちに皺寄せやってやり過ごしてた世代の都合いい戯れ言なんだよ!」

「とにかく目を醒ましなさい。私立でもいい、学費だってどうにかするから、大学に…」

「目を醒ますのはお父さんの方だよ。高卒であることコンプレックスに感じてるからって勝手に私でリベンジしないでよ。私は明確なビジョンに従って判断してるの。邪魔しないで。」

結月はそのまま階段を上がっていってしまいました。


自室に籠る娘、庭で立ち尽くす私。

奨学金の返済を避ける娘、家のローン返済を自慢した私。

「失なわれた三十年」の余波に悩む娘、波の真っ只中にいたのに悩まなかった私。

明確なビジョンを持って高卒を選んだ娘、明確なビジョンを持たずにただ高卒になった私。

目を醒ましきった娘、広くて甘くて深い香りからさえも目の醒めぬ私。

代表取締をやってる若い男と街を歩く娘、あの日ベンチに座る彼女を見殺しにして駅へと戻った私。


視線を庭へと戻すと、杭のうちの一本に毛虫が這っていました。

退けることも退くこともできない私が庭に一匹いました。



「なんで相談してくれなかったんだ?」

晩御飯を食べ終えてから私は妻に尋ねました。

「相談しなかったわけじゃないし、しなくていいと思ってるわけでもない。でも物事にはタイミングっていうものがあるじゃない。」

「大学受験までもうあと一年なんだぞ。んな悠長な、」

「そうよ悠長なこと言えないわ。言えないくらいあの子の人生における重要な選択なのよ。慎重になって然るべきでしょう。」

つい夕方まで「慎重になれ」と言っていた私のこめかみにブーメランがぶっ刺さります。

「結月が手伝いしてるっていうその男のことは知ってるのか?」

「全然。詳しいことは聞いてないわ。」

「どうして聞かない?」

「そこで『どうして聞かない?』っていう発想になるから結月もあなたに秘密にしてたんだと思うよ。」

「なんだと?」

「あの子だってもう大人なのよ。親にプライベートなこと干渉されるのが嫌に思うだろうし、第一干渉するべきじゃないわ。」

嘘つけ。

それだけが理由じゃないだろう。

貝川千波が娘の結月にちらつく男の影について、本人に言及しない理由。

「我が子の自立を遠くで見守るのも親の役目」なんて殊勝な理由だけじゃないでしょ?

もっとシンプルで根本的な、「自分がされて嫌なことは人にしない」の理論でしょ?


「ママ活?」

「ええ。千波のやつ、マッチングアプリで知り合った大学生の男と度々どこかに出掛けてるみたいで。それも一人や二人じゃないっぽくて。」

「見たんですか?」

「メッセージのやりとりだけは。いつからか外出してる時間がすごく長くなってて、気になってスマホをこっそり。」

「パスワードは?」

「いつかに機種変した時に作ったパスワードのまんまでした。私が気付くことはないっていう自信があったんでしょう。」

「そっか~、怖いな~」

轟さんは腐葉土やにがり(、、、)を平積みしながら言いました。

「最近は『既婚者向けマッチングアプリ』なんてものもありますからね、変な時代ですよ。いや、そんなことないか。古今東西に共通した人類普遍の定理なんですかね、『パートナーには無い“何か”を求めたくなる』っていうのは。」

「自分にも落ち度があるんだろう、とか詭弁を並べたところでやっぱり腹立つものは腹立つんですよね~。轟さんも彼氏のママ活には気をつけてね。」

「大丈夫ですよ~私彼氏いないですから。」

「そうなんですか?」

「そうですよ。」

すると急に轟さんは私に顔をグッと近づけました。

「もしあれなら私でしますか、復讐?」

(轟さん、今日シースルーだ。)

「………。」

「冗談ですよ!貝川さんって超素直ですよね(笑)」


おあいこ様でしょ?そう思いません?

この通り妻にだって相応の“原因”があるんです。

今日も帰りが遅かったのも、結月の学校欠席を責められないのも、私が何かしらでラリらきゃいけないのも、全部そこに帰着するんです。

それにメッセージを盗み見た限りですが、妻は出逢った男たちと性行為までは至っていないんです。本当にただ「一緒にお茶しただけ」みたいなんです。

〈人類普遍の定理なんですかね、『パートナーには無い“何か”を求めたくなる』っていうのは。〉

私には無くて若い男とお茶するだけで得られる“何か”って一体何ですか?

結局私は妻にも自分の言い分を伝えきれないまま、今度はリビングで一匹になりました。



眠れません。

別に夜更かししてたって問題はないんですけどね、明日日曜だし。

ただなんというか、ちょっとでも意識が飛んだが最後、自分の今の生活がどこかに飛んでいっちゃいそうな気がして堪らないんです。

いつの間にか私は庭に出ていました。

熊手で土を掘り返してまた平らに(なら)します。空気を混ぜるようにするのがコツだそうです。

次に肥料です。

液体をイメージしていたので、錠剤であることに違和感がすごいです。

五~十センチ程度の深さの穴を指で作り錠剤を一錠。この繰り返しです。枯らしたアサガオを思い出します。

なんとこの白い錠剤は一時間位するとキレイに溶けて土壌全体に行き渡るそうです。

ということで一時間待機です。

本日三本目のノンアルビールを開けて縁側で虚しく月見酒です。


「本当に手伝いしてるだけなのか?本当はその男とはもう男女の関係なんじゃないのか?」

「結月にはもう知られてるんじゃないのか?お前が若い男とわざわざ代官山まで足を運んでることとか。」

言うべきことが言えない。言わなきゃ壊れてしまうかもしれないのに。

「きちんと自分の口から娘に伝えますから。」

この惨めさも溶けて土の中で散り散りになってくれればいいのに。


「あれ、貝川さん電話鳴ってません?」

「ん?ホントだ。」

………。

スマホの表示を見た瞬間の私の硬直化に轟さんは気付きました。

「貝川さん大丈夫ですか?」

「ええ。ちょっと出てきますね。」

私は小走りで駐車場まで移動してから画面の〈応答〉を押しました。

「もしもし。」

「もしもし貝川さん?私です、加賀見(かがみ)です。」

「ご無沙汰してます。」

「結月ちゃん、元気ですか?」

「はい、もう来年大学受験です。」

「……その感じ、まだみたいですね。」

「やっぱり催促のお電話でしたか。」

電話の向こうで小さくため息が聞こえました。

「一体いつまで引き延ばすつもりですか?今ご自分でも言いましたよね?『もう来年大学受験だ』って。もうとっくに本来の時期を過ぎてるんです!」

「わかってますよ、そんなこと。」

「まさかこのまま伝えずにやり過ごそうだなんて考えてませんよね?」

「とんでもないです。」

「最悪の場合、私が訪問させていただいて結月ちゃんに直接お話をさせてもらいますよ。わかってますk」

「すいません、娘がすぐ近くにおりますので失礼します。」


さて、一時間経ちました。

いよいよここからが本番です。上位互換したい物を埋めていきます。

しかし今になって発覚した問題が一つ。何を埋めるか全く決めてませんでした。

「出てこい、フェラーリっ!」って三輪車埋めますか?残念ながら三輪車がそもそもありません。その昔にフリマで売っちゃいました。

それにどうせなら色んな物を一気に試してみたいんです。

ということで草木も眠る丑三つ時、私は家中を漁ります。


・踵のあたりのゴムが切れてしまったサンダル。

・衝動買いしたっきり使っていない手の平サイズでランタン型の間接照明。

・今日がちょうど賞味期限のハム。(セトリ乱してますかね?ちょっとした音響トラブル程度でしょ、大丈夫大丈夫。)


とりあえずこの三つでいってみよう。

私はスコップでせっせと穴を掘ります。

反乱軍として戦争に駆り出された農民が自分の死期を悟って政府軍である主人公に自分の墓穴を掘らせる、そんな話をなぜか思い出しました。(そう、あれはたしか三銃士の人形劇でした。)

三つ分の墓穴を掘り切るのに割と時間を要しました。額から頬にかけて汗が伝います。

埋める対象を汚さないための保護フィルムがご丁寧にも入っていました。至れり尽くせりのセットです。

サンダル、間接照明、そしてハムをフィルムでくるみ、埋葬します。

セットに入っていた小さな立て札はどうやら墓標の役割を果たすようです。

『サンダル』と『ハム』はそのまま、間接照明はそれっぽく『カンセツショウメイ』と立て札に書きます。

立て札を刺して、世にも珍しい上位互換の庭第一弾の完成です。

達成感によるものか、それともここ数日間の心労によるものか、眠気がどっと押し寄せてきました。

結局私は正午まで四肢と八時間ばかりの生活をベッドに放りました。



「どうでした?凄かったでしょ?」

「ええ。正直なところ週末迎えるまではほとんど信じてなかったんですけど、日曜に掘り返してみてビックリしました。」


まず掘り出したのはヴィトンのスニーカーでした。

通販サイトの写真と何度も見比べては「おぉ」と唸るばかりでした。こういうリアクション、私ももうオジサンなんだな。

あの間接照明はシャンデリアになってました。笑うしかなくなりました。

こうなると本筋とは少し違う、どうでもいいことに疑問が湧きます。

上位互換に当てはまるのか、間接照明からシャンデリアって?とか。

シャンデリアも保護フィルムに覆われてるけど、保護フィルムのサイズはいつ変わったんだ?どういうカラクリ?とか。


「どういうカラクリかって?内緒ですよ。」

轟さんはいつにも増してニヤニヤしながら言います。土日に会えなかったうちにインナーカラーがアクアマリンみたいな色になっています。

「それで、ハムはどうなりました?」

「それが高級ハムになってたんですけど、驚いたことに桐の箱に入ってたんですよ。こっちはハムまんま入れてたのに。」

「人間は付加価値に生かされてるようなものですから、それも込みの上位互換になるんじゃないですか?ちょうどいいじゃないですか。お中元に使えますよ。」

「チャーハンにして食べちゃいました。絶品でしたよ。」

「な~んだ。」

「本当につくづく素晴らしい庭のセットですよね、やっぱりあの肥料の錠剤が違うんですかね?」

「あぁあれは…って、ダメですよ!内緒って言いましたよね!」

轟さんは私の腕に寄りかかりながら背中をペシペシと叩きました。

「あぁそうだ。貝川さん。」

彼女は私にかけていた体重を自分の軸足に戻しながら少し真面目な顔をしました。

「一応注意事項としてお伝えしておくんですけど、」

「何でしょう?」

「あの庭に生きてるものは埋めないで下さいね。」



「ただいまー!」

「おかえり。ってまたそんなに買って来たのか?!」

「大丈夫よ、これでも前より安く済んでるくらいだから。エンゲル係数はむしろ抑えられる見込みです。」

千波、さては権藤さんのとこの奥さんにばったり会ったな。

このわざとらしい言い回しはきっとそういうことです。言ってませんでしたが、あそこは夫婦揃ってアナタノタメニナル科なんです。

「いくら最安でも質の悪くて傷みやすそうなのはいつも買わないようにしてたからね。じゃあお願いね。」

「よ~し、やっちゃうか!」


当たり前の展開でしょうが、上位互換の庭によって私たちの生活は大きく変化していきました。

まずは粗悪品を買うようにします。すると出費が自ずと軽くなっていきます。

筋だらけのマグロ、形が良いだけで色的にヤバいレタス、フリマの最安やワゴンセールの余りなんかを片っ端から。

あとはひたすら埋めては掘り起こしての繰り返しです。

そればかりに夢中になってしまうため定期的に肥料を埋め忘れてしまいますが上位互換は問題なく為されています。一回の効き目長いんだな~。

やや広めにスペースを作ったのもこうしてみると正解でした。

おかげで普通のガーデニングじゃ見ないこの立て札の数と密度、ガチの墓地です。

「こんなに買ってたら冷蔵庫キャパオーバーするんじゃない?」

「冷蔵庫も上位互換する?」

「埋めて掘り出すの大変過ぎるだろ。」

「だよねー。買い換えちゃおっか!」

冗談ではなく本当に買い換えるつもりです。無理ありません。貝川家は今バブル期に突入したんですから。

例えばあのシャンデリア。金色の部分は「金色の部分」ではなくちゃんと純金でした。バロック様式の珍品だそうで、結果七十万円で売れました。

私と妻は体感したのです。「あれは金の()る庭なんだ」と。

シャンデリアはギリギリかもしれませんが、家電や衣類などの生活用動産は細々と利益を出すようにすれば非課税、仮に課税されたところでこれまでの家計の収支と比べれば大幅な黒字になることに変わりはありません。

ついには家族共有のネットバンキング口座も開設。不思議なことに残高が増えると娘が私に笑顔を向ける回数も増えてゆきました。


衣食住の上位互換は生活水準の上位互換に繋がっている。

そして生活水準の上位互換は精神の上位互換に繋がっている。

そんな単純極まりないことに今さら感動を覚えているんです。ここから自分の人生がガラリと変わるんだって浮き足立ってるんです。

健康診断の検査項目が増えたこんないい歳して今更です。

アナタノタメニナル科の生き方にようやく歩み寄ろうとした今更です。

妻や娘がそうしているように自分もイケナイ事をしちゃおうかと折角思い始めた今更です。

あの日自分が犯した罪の償いについて結月への告白を迫られている今更です。

積み上げてきた年齢、思想、出来心、覚悟を表面的幸福が有耶無耶(ウヤムヤ)にしていきます。

有耶無耶なまま日々は過ぎ、桜前線はなんて刹那に通過。もうすぐゴールデンウィークです。



「そろそろ良いんじゃない?」

「ダメだ。」

「お義父さんだってもう許してくれてるって。」

「そういう問題じゃないんだよ。」

この日の夜。リビングにて千波と二人、やや険悪モードです。上位互換の庭を作ったあの夜以来かもしれません。

というのも、このゴールデンウィークに結月も連れて三人で私の実家に帰ろうと提案されたのです。そんなの反対に決まってます。

「私未だにご両親に会ったことないのよ。」

「母さんには会ったろ。」

「一回だけね。優しくて温かい人だった。だからこそわかる、(わだかま)りがあるのはあなたとお義父さんの間だけなんでしょう?」

「そうだよ。それが問題なんじゃないか。」

母とは時折連絡は取っていますが、おそらく母はその内容を父にはほとんど話していません。

もしかしたら父は私たち家族が再開発地区にあったボロアパートからこのニュータウンに引っ越した事すら知らないでしょう。

「まぁ確かに、結婚に反対だからってだけで我が子を勘当するのはメチャクチャだとは思うけど、」

「メチャクチャ以上だよ。」

「昔の人ってきっとそんなもんなのよ。あなただって言ってたじゃない、『あの人は昭和気質なんだ』って。」

その時、結月が二階から降りてきました。

「何揉めてんの?」

「結月、お父さんの方のお祖父ちゃんとお祖母ちゃんに会いたくない?」

「別に。今更って感じだし、お祖父ちゃんお祖母ちゃんからしても迷惑なんじゃない?」

流石を通り越してアッパレです。

結月の関心は少し違うところにありました。

「ここで暮らす前は一緒に住んでたの?」

「いいえ、前に教えたでしょ。私とお父さんはここからすぐ近くにあったアパートに住んでたんだけど、再開発で立ち退きにあって用意されてたこの街に引っ越したの。」

「そうなんだ。結構トラブったの?」

「私たちは円満解決だったけど。でも周りは大変だったわね~。ゼネコン談合疑惑で話が頓挫しかけたり、立ち退き反対派による暴力沙汰が起こったり、再開発地区の臨海エリアに当時大きな海浜公園があったんだけど、そこで若い女性が服毒自殺する事件が起きてね。根も葉もない陰謀説がつきまとったりして。」

「へ~、そんなことあったんだ。」

「その話はもういいだろう。」

ちょっと耐え切れませんでした。私は縁側に出ました。

「次埋めるものはもう決まってるんだろう。そろそろ肥料もやっとかないとだし…」

そう言って肥料の容器を持った私は違和感に気が付きました。

「なんか減ってないか?」

「ああ!私が先に庭にやっといたの!」

「結月が?」

「ほら、お小遣いアップに繋がるかな~と思って。」

動機は何であれ、まさか娘が自分の趣味に興味を持ってくれるだなんて。

私の心が落ち着きを取り戻します。

〈まさかこのまま伝えずにやり過ごそうだなんて考えてませんよね?〉

叶うことならそうしたい。

結局その夜はサーモンとロングスカート、韓国コスメ、型落ちのノートパソコンを埋めました。



「おや貝川さん!ホントによくここでお会いしますね!」

「え、ええそうですね。ハハハ。」

忘れかけてましたこの感じ。権藤さんは相も変わらず小麦色で茶髪です。

いや待てよ、何か違う。何だろう?

「貝川さん最近お仕事順調なんですか?」

「はい?」

「唐突でしたね、失礼。いやね、ここ数週間の間に貝川さん家に大型の家具やら電化製品やらが届いてるってウチの妻が見てましてね。何かまとまった収入があったに違いないって言うんですよ。」

「そういうことでしたか。」

わかった!歯が真っ白!権藤さんホワイトニングやったんだ。

「仕事の方は変わらずぼちぼちですよ。きっと万年平社員です。」

「“方は”ということは副業でもされてるんですか?」

妙に鋭い!なんだか今日の権藤さん光ってます、推理も歯も。

「実は私もやってるんですよ、ほら。」

権藤さんは私にそっとスマホを見せました。

「株ですか?」

「妻には『あなたはセンスないんだから止めときなさい』って言われちゃったんですけどね。今のところ絶好調!ウチもそろそろ車買い換えちゃおっかな~なんてね!」

正直私は株には興味がありません。だってそれこそアナタノタメニナル科の専売特許みたいな世界じゃないですか。

「次はどこの株価が上がりそうなんですか?」

にわか知識でもいいや、いつも通り適当に返そう。

「当面上がる銘柄はわかりませんが、下がるところなら一つ狙い目がありますよ。ここだけの話なんですがね。」

権藤さんはニヤリと笑って画面の一点を指差します。

「Koto-Tom?」

あれ?この会社って、まさか…。

「国内外の富裕層をターゲットにしたECサイトを運営してる会社です。社長も比較的若い、ベンチャー企業だったんですけどね。コロナ禍を契機に一気に業績を上げて今や大手の仲間入りですよ。」

「この会社の株価下がるんですか?」

「あるウワサがありましてね。社員による商品の横流し疑惑ですよ。」

「横流し?」

「会社が保有している管理倉庫から商品が消えてるらしいです。それも少量を継続的に。外部から盗まれた形跡がないらしくって内部犯行の線が濃厚。そんなわけで警察にも届け出れず現在も原因究明にてんてこ舞いみたいですよ。」

まさか…。

「少量を継続的に…」

「ええ。とはいえ富裕層向けの食品や日用品とかですからね。単価は高いと思いますよ。それに一点もののシャンデリアなんかもヤられたらしいですよ、バロック様式で純金製のやつ。」

まさか…。

「あの、その会社の社長なんて名前でしたっけ?」

「えっと、確か京谷(きょうたに)さんとか言いましたかね。」

京谷!京谷翔太(しょうた)

「まぁ、風説の流布に過ぎない可能性もありますけどね…って、貝川さん?どうかされましたか?顔色が…」

「いえ、何でもないです。そろそろ失礼します。」

小首を傾げるアナタノタメニナル科にはそのまま目もくれずに私は園芸コーナーへ急ぎました。


「あっ、貝川さん!そろそろ来てくれると思ってましたよ~。」

彼女は今日も変わらずそこに立っていました。

「轟さん。あの庭から出てくるものの出処はどこですか?」

「藪から棒に何ですか~?デドコロ?」

彼女はゆっくり私の方に歩いて来ます。彼女こんなに背高かったっけ?

「京谷翔太。そいつの会社が保有する在庫があの庭から出てきてるんじゃないのか。」

「…そうですよ。代わりに貝川さんが埋めたものが在庫に紛れてると思いますよ。」

「どうしてそんな事に?」

「貝川さん、上位互換は〈対象をアップグレードさせること〉だと勘違いしてませんか?〈対象の上位存在にあたる既存のものとのトレード〉が上位互換なんですよ。帳尻合わせが生じるのは当然のことじゃないですか。それに別に良いじゃないですか、バレてないんだから。」

彼女はもう目の前です。園芸コーナーってこんなに薄暗かったっけ?

「どうして彼の会社のものに絞られてる?」

「それについては別に私がそうしてる訳じゃないですよ。貝川さんが(・・・・・)作った(・・・)上位互換の庭(・・・・・・)だからこそ(・・・・・)、そういう仕様になったんですよ。だから~もういいじゃないですか~」

「バレなきゃ良いって問題じゃないだろう!」

「それだけじゃないでしょ?」

「?!」

全身の毛穴から汗が噴き出して、噴き出した途端にその汗が凍りつくような感触が私を覆います。

「今の家に家族三人で暮らして商社勤め、その資金援助くらいじゃ足りないですよね。コロナ禍で急成長?だったらもっと貝川家に金を入れろよ京谷、って思っちゃいますよね~」

「どうしてその事を?」

「幼稚園、小学校、中学校、そして高等学校の学費。徐々に増え続ける食費。女の子だから服にもお金かかるでしょう?」

寒いのか?脚の震えが止まらない。どうして誰も来てくれない?

「数年だけ通わせてたピアノ教室や学習塾の受講料。骨折しちゃった時の入院費。そしてお小遣い、アップするんですか?」

「…めてくれ。」

「一体今までいくらかかりました?そしてこれからいくら必要になりますか?私立で?奨学金に頼らずに?払って貰いましょうよ~。だって本来…」

「やめてくれ!!」

私は彼女を突き飛ばすと無我夢中で車を走らせ家路につきました。


怖くてたまりません。

何が怖いって園芸コーナーを飛び出してからずっと、視界が薄暗いんです。そう、ほんの少しの青だけ混ざったモノトーン。

最悪のパターンが頭の中をよぎります。


際限なく上昇する私の心拍に対して家の中は物音一つしていません。堪らず私は声を張ります。

「…づき……結月!」

やっと聞こえた物音に私は振り返ります。階段の軋む音。降りてきたのは結月でした。

「良かった…。良かっt」

「嘘つき。」

その返事を私が言語処理するより先に娘はその手に握ったものを私に投げつけました。床一面に白が散らばります。

「特殊な肥料でもなんでもない、ただのカルシウムの錠剤だって。」

「成分、調べたのか?まさか、」

あの夜、本当は私の代わりに肥料を撒いてくれてなんていなかったようです。

「彼の会社ね、この前大きめの損害が出たの。至急穴埋めが必要だって。彼の役に立てると思って渡したのに、彼のオフィスじゃ埋めた物はどれも上位互換しなかった。ねぇどうして?どうして騙したの!」

「落ち着きなさい。お父さんもその事は今初めて知った。騙してたわけじゃない。」

「そんなに自分の描くキャリアを子供に着させたいの?思い通りにならない私たちが苦しむのがそんなに楽しいの?!」

私たち(・・・)?」

私が疑問を抱いたことに娘も気付いたようです。反射的に彼女は自身の下腹部に手をやりました。

「まさかお前、妊娠してるのか?」

娘は何も言いません。

私の中で何かがクシャクシャになっていきます。

同じじゃないか。十七年前とこれじゃあまるで同じじゃないか。

過去の蛮行など消し飛ばすほどの殺意と狂気で私は膨れ上がりました。

「その男どこにいる?そいつ今どこにいる?」

「どうするつもり?」

「八つ裂きにするに決まってるだろう!」

「やめて!いい加減にしてよ!」

「それはお前の方だよ!弄ばれてるのがまだ分からないのか?産んだが最後、棄てられるんだぞ!」

その瞬間、鮮明に、そして冷酷に、彼女の目つきが変わりました。

そこにいるのは貝川結月ではありません。腹の子に憑かれた母親です。


若い男との逢い引きを終えた妻が帰ってきて、倒れている私を発見するのはこの十数分後のことになります。



「あなた?あなた!」

具体的にどう揉み合いになったか覚えていません。

覚悟を決めた娘は力強かった、とりあえずそれは覚えています。

視界は真っ暗、なんか体重も感じません。かろうじて聴覚だけが機能しています。

「あなた!あなた!」

こちらへ向かって叫んでるのは千波でしょうか?距離感がいまいち掴めません。

(えーと、どうなったんだっけ?)

そうだ。確かあの時バランスを崩した直後、私の左側頭部に強い衝撃が走ったのです。

あれだけ凍え寒がっていた体がほんの一瞬だけ物凄く熱くなりました。

「結月!何があったの!ねぇ、結月!」

「お父さんが悪いのよ。私とこの子と一真(かずま)さんの邪魔するんだもん。」娘が力なく笑っています。

(そうか、カズマだな。下の名前はわかった。)

ブラックアウトしてなお、娘を孕ませた男を八つ裂きにするという私の行動選択に変わりはありませんでした。

「まだ息があるわ!結月、救急車呼んで!」

「………。」

「結月!」

「ねぇ、もっと良い方法あるよ。」

おそらく妻よりも私の方が早く娘の意図を察しました。

「埋めよ、そしたら上位互換される。」

「何言ってんのよ?!」

「まだ生きてるんでしょ?上位互換されれば怪我だってきっと治癒されてる。それに人格も上位互換されれば私のしたことも水に流してくれる。一真さんとの結婚だってきっと認めてくれる!」

笑い声が混じっています。不自然に引きつった娘の笑みが思い浮かびます。


見えませんが多分もう真夜中です。

ひたすらに土を掬い穴を掘る音が聞こえます。

ダルタニアンに自分の墓穴を掘らせたルミエールはこんな気持ちだったのかな?あっ、あの三銃士のお話です。

穴を掘る音が止むと次はフィルムで何かを包む音。その次は包んだそれを運ぶ音。そしてまた土を掬い今度はそれに被せる音。


「ホントに埋めて大丈夫なの?」

「今更遅いよ。それにお母さんだってお父さんには上位互換されてほしいでしょ?」


二人とも、止めておいた方が良い。


「ママ活のこと、きっとお父さん気付いてるよ。」

「え?」

「大丈夫。上位互換したお父さんならきっと許してくれる。」


二人とも、止めておいた方が良い。

怒っているからではではない。

埋められるのが嫌だからでもない。

ただ今になって轟さんの言ってたことの意味がわかったんだ。


「お父さん、大丈夫だからね。」

「あなた、少しの辛抱だからね。」


〈既存の物とのトレードが上位互換なんですよ〉

〈あの庭に生きてるものは埋めないでくださいね〉



結月。

そう遠くないうちに加賀見さんという児童養護施設の人がお前を訪ねてくる。

そうなればお父さんが昔したことの一部をお前は知ることになる。

どうせ聞こえてないだろうがここで全てを打ち明けさせてくれ。


十七年前の三月の末のことだ。

実家を出て千波とボロアパートに住んでいた当時、二人は本当にお金が無かった。

お互い高校生活自体は親の援助でなんとかなっていたが、不妊治療に踏み切るのは金銭的にも年齢的にも時代的にも到底無理があった。

「子供ができなくたって私は君と居られて幸せ」だなんて当時の私はどうしても口に出せなかった。そんな勇気なかった。

高校生だった二人は既に大学生活なんて見ちゃいなかった。

そんなある日、お父さんは気晴らしに一人海浜公園を散歩したんだ。

海の見えるベンチにその人は座っていた。

今考えても、どうしてあの時彼女に話しかけてみようと思ったのかわからない。

「もしもし、こんなところで寝てたら風邪引きますよ。」彼女はピクリともしない。

側に置いてある彼女のバッグの中に分厚い茶封筒が見えた。


結月、お父さんは魔が差したんだ。

気が付いたら私は彼女のバッグを抱えて路地裏に座り込んでた。

案の定、茶封筒の中身は札束だった。

漁ってみるとバッグには茶封筒の他に白い封筒とコインロッカーの鍵が入ってた。

白い方の封を破って中身を取り出した。遺書だった。

そこには彼女の生涯が淡々と綴られていた。


進路をめぐる両親との軋轢で実家を飛び出したこと。

進学してすぐ、大学ぐるみのイベントでコンパニオンのバイトをしていたこと。

そこで地元の有権者に連れられて来たベンチャー企業社長の男と出逢い恋仲になったこと。

その男が得意先の令嬢と婚約していたことも知らずに彼との子供を授かったこと。

妊娠を知るや否や男は手切れ金を渡して自分を棄てたこと。

迷いながらも子供を産んだこと。

フィクションの世界じゃ母性が境遇に打ち勝つはずなのに、現実には出産後に絶望しかしなかったこと。

子供を殺す勇気はないけれど、一緒に生きてゆく勇気もないこと。

結果我が子を残して自分だけこの世を去ることにしたこと。

両親への謝罪。自身の人生への猛省。男への呪詛。そして娘への懺悔。


何故だかとても他人事に思えなかった。

私は急いでベンチに戻った。戻ったけれど遅かった。

警察と野次馬が取り囲む中、彼女の亡骸が車に載せられるのが見えた。

あの時自分が置き引きなんてしなければ、警察じゃなく救急を呼べたんじゃ、間に合ったんじゃ。

私はパニックになりながら駅へ走った。

彼女が持ってた鍵の番号は大型の荷物用のだった。

周りに誰もいないことを確認して私はロッカーを開けた。

結月、お父さんはそこでお前と出会った。


半月の後、私は千波を児童養護施設に連れていった。

千波はお前の母親になることに迷わず同意した。

それからさらに半月の後、私は遺書のコピーをあの男に渡した。

呪詛は見事に効いた。

男の援助によって私は今の住まいと職を得るに至った。

「脅すのはこの一回きりです。」ってちゃんと言ったんだ。お父さん偉いだろ?


私の両親には千波とのデキ婚をでっち上げた。

今思えばそんな嘘をつく必要性はなかったかもしれない。でも巻き込みたくないっていう気持ちが私にそうさせたんだ。

昭和気質で横柄なバカ親父は騙せたが、母はきっと私の嘘を見抜いていた。

「私達と千波さんが会うのは控えるべき」と助言したのは母だった。おかげで今に至るまで辻褄は合い続けた。


少々長くなったがこれで全てだ。聞こえちゃいないだろうけど。

結月。

あくまでお父さんの予想だが、ここからお前の想定している展開にはならない。

おそらくこれでお別れだ。

結月。

ありがとう。そしてすまなかった。

お前の母親を私は見殺しにした。

十七年で償えた気はまるでしていない。

だからこれからも私はお前を見守っていく。約束しよう。

ほら、じきに夜が明ける。



「そろそろのはず。お母さん、掘り出すの手伝って。」

「う、うん。」

ザッ。ザッ。ザッ。

「ちょっと、結月!どういうこと?」

「あなた誰…お父さんなの?」

「ここどこ?俺は…」

「お父さん、なんだよね?わかる?私だよ、結月だよ。」

「結月?…ぁああああ!」

「どうしたの?お父さん?!」

「ごめんなさい!ごめんなさい!俺が悪かった!許してくれ許してくれ!美紗希(みさき)、許してくれぇ!」


「社長、入りますよ。」

「あっ、あぁ。どうぞ。」

入ってきたこの女性はおそらく秘書でしょう。

高めのヒール。ボディラインの強調されたシャツとスカート。結月がやりたいとよく言っていた韓国風ウェーブのかかった長い金髪。

彼、相変わらずだったようです。

「昨夜どちらに行ってらっしゃったんですか?ちょっとした行方不明騒ぎになったんですよ~。」

「ああまぁ、ちょっと。」

「それに奥様が『どうせまたオンナの家でしょ。』って怒っていられましたよ。」

「そうか。妻には後で私の口から弁明しておくよ。」

言葉遣い、これで合ってるのかな?

「昨夜予定されていた会食ですが明後日にリスケしておきました。」

「ありがとう。」

「定例会は二時間後ですがどうされます?ホテル、行きますか?」

金髪ウェーブが近づいてきます。

「…今日はやめておこうかな。少し寄りたい場所があるんだ。」

「え?」

私はそそくさと慣れぬ支度をします。

「どちらへ?やっぱりオン…」

「オンナの家とかじゃないから!また行方不明になったりもしないよ。定例会、二時間後だったね?」

「はい、そうですけど。」

「必ず戻るよ。」

秘書を残して部屋を出た私ですが、すぐまた部屋に戻りました。

「ごめん、私の車ってどこに停めてあるんだっけ?」



ユーフォルビア、メカドルニア、トレニア、ペチュニア。

「お客様、何か植物をお探しですか?」

「いいえ。あれ?パープルに戻ってる!」

「一昨日染めました~。で、今日は何をお探しなんですか?」

「そうだなぁ。あなたのオススメが欲しいな。」


彼女は段ボールを一つ抱えて戻ってきました。

「こちらですか?」

「そう、これです。」

私は段ボールを開けて白い錠剤の入った容器を取り出しました。

「ずっとこの肥料にヒミツがあるんだとばかり思ってました。」

「フフッ。それだけ土に混ぜても何も起こらなかったでしょ?」

「面食らった連中がわざわざ成分調べてました。ただのカルシウムだったって。」

「ええ。上位互換を促しているのはこっちですから。」

彼女が手に取ったのはスコップでした。

「その表面のエメラルドグリーン、ですね?」

「ご名答。」

「じゃあ他の道具も?」

「ええ、その通りです。これらの道具に塗ってある塗料には高性能AI を組み込んだナノマシンウイルスが含有されています。」

「ナノマシンウイルス?」

「いわば『極小の人工知能』です。それらは道具に触れた人間のデータを握力や体温、脈拍、環境音などから分析・蓄積させていくんです。そのデータが土壌に行き渡ることで上位互換の庭は出来上がるんです。」

「そんなこと技術的に可能なんですね?」

「公表されている限りの物理・化学・情報の技術ではまず不可能でしょうね。」

私は熟考しました。

「生きたままの父親を妻と娘がその道具で埋めた場合は?」

「お二人の個人情報や思考を解析した上で、まず何も起きないでしょうね。ただ、」

「ただ?」

「埋めたその人と娘さんに血縁関係がなかった場合、本物の父親が出てくるでしょう。本来の上位互換の定義からは逸脱してるでしょうが、〈父親〉という条件を人工知能の検索エンジンにかけてしまった以上そうなると思います。」

「じゃあ存在ごと入れ替わるんですか?」

「もちろん。戸籍から周囲の人間の記憶、因果律に至るまで全てトレードされます。ただし、トレードされた人間とその人を埋めた人間を除いてですが。」


予想していたとはいえやはり動揺は相応のものでした。

その動揺も今は自然と収まり、頭も心も不思議と以前よりスッキリしています。

「これからどうされるんですか?」

「そうですね~。手始めに新規参入してきたベンチャー企業を一つ潰そうかなと思います。」

「こわーい。」

クスクスと笑いながら彼女は少し背伸びして私の肩にトンと顎を乗せます。

広くて甘くて深い香りが私を離しません。


「ほらね。シアワセ、運んできてくれたでしょ?貝川さん♡」


次回(予定) 『deep×deep×fake 』

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