EMERGENCY
EMERGENCYという単語が好きだ。緊急時に押すことが許されているボタン。緊急時に蹴破ることが許されている仕切り。わたしはそのすべてを壊したくて仕方がない。
わたしは休み時間に蟻の脚をちぎって遊んでいる。蟻を手の中に招いて、ただ遊んでやるふりをして、無造作に脚をちぎる行為は、不思議な背徳感と官能性を帯びていた。これを人間にしてやることができたら、どんなにわたしは満足するのだろう。
君はそういうわたしの鬱屈した暴力性を目ざとく見咎めて詰った。その君の叱声まで含めた一連の流れが、わたしの中のなにかを満たした。君が叱ってくれるから、わたしはまたその行為に手を染める。君はそれを見つけてはまた叱り、わたしは笑いながら行為を続ける。
君はこんなわたしの心内環境を見て、なんと言うだろう? 君は二元論者だから、わたしをマゾヒストだと言うかもしれないし、サディストとするかもしれない。わたしの中の歪んだ欲望を、被虐と加虐の二元論では語れないと、君は知らない。
ああ、君は知らない。わたしの何もかもを。
「加藤さん、なに書いているの?」
わたしは慌ててノートの端に書いた蟻の落書きを手で隠した。
「隠さなくていいじゃん、なに書いたの?」
君はそうやっていつも乱暴にわたしの心へ侵入してこようとする。
「なにって、落書きだよ」
「それを見せてって言ってんじゃん」
「見る価値ないよ。君のノートに比べたらね」
君のノートは整然とまとまっていて、わたしのとっ散らかった汚い字の羅列に比べて、何百倍も眺めていたいノートなのには違いない。見るからに優等生の君と、多動性をはらんだ、ただ大人しい生徒のわたし。君が絡むと事態が大事になるから君とは一緒にいたくないのが本心だ。君は自分が思う以上にトラブルメーカーであることを自覚したほうがいい。
「加藤さん、またありんこの脚ちぎってないよね?」
「ちぎってたら何? どうするの?」
「怒る、そんなことしちゃだめでしょ。蟻が可哀想」
「じゃあ蟻じゃなかったらいいの? 草むしりなら君も怒らないよね? 草と蟻となにが違うの?」
「……そんな屁理屈言わないでよ、論破して勝ったって思いたいんでしょ?」
「はっ、そんなのと一緒にしないで。わたしはただ君がどこまで正義を語ってくれるのか見たいだけ。草はよくて蟻はだめ? どうしてそう思うの?」
「……だ、だからさ。もう嫌。加藤さん変だよ」
「知ってる。で? どうして?」
「ああもう! 加藤さんのバカ!!!」
君はわたしから興味をなくす。いつもどおり。いつもこんなやりとりをして、いつもこんなふうにわたしが踏み込んで、いつもこうして罵倒される。それがよくてカマかけているわけだが、バカはどっちだよ、と言いたくて仕方がない。
蟻が可哀想で草はだめ。肉を食べるのは動物が可哀想で野菜を食べるべき。人間をいじめるのはよくないから悪。これはみんなわたしが納得できていない言説たち。
蟻は生き物だから、とみんな言うが、草だって生き物だろう? その辺の草がすべてマンドラゴラなら君たちだって草むしりをしないだろう。
同じ理由で、野菜も肉もありがたい食べ物だ。動物には感情があるから? じゃあ感情がない人間は食糧か?
人間をいじめるのはよくないから。見るからにどんくさくて頭のおかしなやつならいじめてもいいだろう? なあそうだろう? そうやって罪人を吊し上げて処刑を娯楽にしてきたんだろう?
声を上げるかあげないかじゃないか結局。植物は悲鳴をあげない、表情がない。黙って耐えるものはいじめても告発しないからこちらにはリスクがない。だからいじめる、殺す、辱める。そうだろう?
ああ、そんなとき、そんなときにこそEMERGENCYのボタンだ。いつしかそれは“決して押してはならぬ禁忌のボタン”になっていた。声を上げると事態が動いて面倒事が増えるから、極力押さないでくれと言われている。だから誰も押せないまま事故が起こる、事件が進む、人が死んでいく。
わたしにとってのEMERGENCYボタンが蟻の脚なのかもしれない。君以外の人間には無視をされている現在、わたしの感情はどこかに行ってしまった。それでも感情的な動きをしたい自分は残っていて、仕方なくグラウンドに座り込んで蟻をちぎる。そして君に叱られ、満たされ、迷惑だと思う。
本当はもっとデカいことをして発散させたい。休み時間に犠牲になる蟻の数も格段に増えた。教室中の生徒を人質にとって爆破事件を起こし、わたしもろとも爆死するのもいいだろう。
君を監禁して手足を1本ずつ切り落とすのもいいだろう。……ああ、それがいい。君が即座に叱ってくれるし、人間の脚をちぎりたい欲も満たされる。そうしよう。
「加藤さん……なにして……え、ねえ、やめ、ねえ!!! ねえ!!!!!」
恐怖に歪む君の顔を見て、次第に自分の中の残忍さが頭をもたげる。いまこの瞬間、地球上に存在していてよかったと思う。少年漫画の悪役ではないが、歌でもひとつ披露してやりたいくらいだ。
わたしはただの包丁を弄び、君の指にあてがう。
いまこそ叫べ、EMERGENCY…