9 シャッドと言う殿方
「好きだ。俺と結婚し、この村でずっと一緒に暮らそう」
「困ります」
シャッドというその殿方は、紛れもなくあの時に私が死神を追い払った殿方で間違いありません。
「絶対に幸せにして見せよう」
「あの、すごく困ります」
何でもこの村の長の一人息子で、商人として腕を磨く旅に出ていたその帰りの道中だったのだとか。
「この出会いは、運命に決まっている」
「そう言われても……本当に物凄く困ります」
私が寝込んでいる時も熱心にお見舞いに来てくださっていたそうですが、目を覚ますとこの状態、というわけです。
この村自体はそれほど裕福ではない、とはセベルリオンさまの談でしたが、聞くところによるとこのシャッドさま――若くして商いの勘は凄まじく、修行と称して現在の長より少しばかりの路銀とこの地の名産品を渡されて村を追い出されて数年……大国へと販路を作り、これからこの村が賑わって行くだろうという希望を引っ提げての凱旋となったのだとか。
宿も食事も――私が割ってしまった老婆の、それはそれは高価なお薬の弁償や、解毒と称して口に含んだそれはそれは……それはそれはそれは高価だったのだと念を押された媚薬さえも弁償してくれたのだとか――。
「ぁ……び、媚薬?」
うっかり媚薬を盛ってしまった?
口移しで?
「そんな……それが事実であれば正に外道。人の心を弄んでしまうとは、人間失格です――」
そんな心無い外道のわたしがベッドの上でシーツにくるまり失意していると、ドタドタと足音を立てて部屋へと入ってくる方がおりました。
「――あーっ! また来たのかお前っ! エミネイラは寝込んでるんだから、そう何遍も来るんじゃねえっていったろうが!」
レイニールさまは厚意で周辺に現れたという未知の魔物を捜索にあたっていらしたのです。私の様な外道とはまるきり逆、聖人の様な女性です。
「くっ、お前に何がわかる! 意識も絶え絶え、死さえ覚悟していた俺を救った――あの燃える様な接吻が運命でなければ何だというのだ!」
せ、SEPPUN……?
「何だぁ? 勘違いしやがって、この童貞野郎が。意識がない人間に嚥下させるために口移しするってのは別に珍しいことじゃねえぞ。セベルリオンが流行病でうなされてた時、ナダが口移ししてたことだってある……はっはっは。笑ったよ。ひどい絵面、ありゃ傑作だったッ! なぁ、エミネイラ」
その通り――その通りです。病人へ口移しでお薬を与えることは決して珍しいことではありません。健康な人間の、いわば役目であり――義務なのです。
「そ、その通りですっ! 私が接吻を……ぃぇ口移しをするのは全くもって珍しいことではありませんから!」
「そ、そんな……嘘だと言ってくれ」
「嘘ではありません! 日常的に私は口移しをするのですッ、この間のことなど、この『口移しのエミネイラ』にとっては珍しいことではありません!」
「う、嘘だ……嘘だーッ!」
少し言い過ぎたのでしょうか。
足早に部屋を出ていくシャッドさまは微かに涙を流していた様にも思えます。しかし、媚薬の効果が切れてしまえばこんな陰気な死神女のことなどすぐに忘れてしまうことでしょう。
少し胸が痛む様でしたが、勘違いしてはなりません。
こんな私に好意を抱く物好きな殿方がそういらっしゃるはずもありませんから。
「ところで、レイニールさま。『どうていやろう』というのは? 彼、その言葉を聞いてひどく傷ついていた様ですから――」
侮辱の言葉、なのでしょうか。確かにレイニールさまは根心は優しいとはいえ口ぶりは荒っぽい方。はずみで口にしてしまったのなら、後で謝罪をしなければ――。
「あー……意気地なし、とか、そういう意味。まだ高みには行けるだろうが、未だその好機を掴み取れていない……早く掴み取れ、立ち上がれ――そう言う意味、かな」
何とはなく、バツの悪そうなレイニールさまは――彼女も過ぎた言葉を言ってしまったと、後悔の念があるのかもしれませんね。こうして意味合いを聞けば、男児に喝を入れる言葉の様ですが。
「よいしょ、と」
「うんこか?」
「なっ! ち、違います……少しお花を摘みに――ぁいえ、いつまでも寝転がっていられません。私も、皆様のお役に立たなければ!」
そうです。
念願のベッドとはいえ、この様な形で褒美をいただくのは本望ではないのですから。ここからがエミネイラの勝負所、というわけです。
まずはお花を摘んでから、村を散策してみることにしましょう。
日差しが眩しいと感じます。
何でも、私はうなされながら二日二晚と眠っていたとのこと。
その間シャッドさまをはじめ、薬売りの老婆と、この村の長だという殿方も足繁くここへ来たのだとか――。
今も舌は少しだけぴりぴりと痺れますし、頭痛も少しばかり私を悩ませます――ですが、これまでの人生で初めて意識して死神を退けた事、こればかりは希望に他なりません。私の一生に訪れた、初めての希望。
「あ……エミネイラ」
宿を出て歩き、素朴な街並みに改めて感心していた折、落胆した様子でこうべを垂れているシャッドさまと出会したのです。
「……結婚しよう」
「困ります」
「そうか……どうしても、駄目か」
「どうしても、困ります」
見れば整った顔立ちでいらっしゃいます。
死神に囚われていた折、頬はやつれて血色が悪く、ともすれば死へと片足を踏み入れていたこの殿方も、媚薬に毒されていなければ、きっと「我こそは」と名乗りをあげる女性が行く道を塞いでしまう事でしょう。その中にふさわしい女性は幾らでもいるはず。
私の様な女にかかずらわっている暇はないはずです、この殿方の人生には。
「随分、嫌われてるみたいだな」
「いえ……困ります」
嫌っている、というわけではないのです。エミネイラは媚薬の効果に戸惑い、困っているだけ――こうして明け透けに好意を抱かれる経験はないのですから、当然といえば当然――そう思うのです。
「この村は賑わっていく。ここらでとれる農作物が、滋養に富み、調理次第では味も化けると、隣の国の、そのまた隣の国で認知された」
「良い事、とお見受けしますが……」
シャッドさまの表情は険しい。そう感じます。嫌な予感がするのです。
言葉では説明することができませんが、うなじの辺りはぴりぴりと小さな小さな稲妻が走る様――どういうわけかお腹の辺りがどんよりと重く感じるのです。
「俺を襲った魔物、この辺りじゃ見たことがない」
「未確認の魔物、というわけでしょうか。安心なさってください。レイニールさま達が調査をしてくれています」
「この辺りじゃ、ってだけだ。俺が――いや、この村が得する事で損をする奴らもいる。被害妄想ってわけじゃないぜ? 現に何度か妨害を受けた。脅迫も。そう考えてしまうのはおこがましい事だろうか」
死神を追い払うことには成功したものの、因果までは退散させることはできていない様でした。