8 反撃の時
「――どいてくれ!」
黒い靄。
新天地においても私を付き纏う影。
一瞬、呼吸を忘れかけましたが、セベルリオン様の声で我に帰ります。
「どうした、エミネイラ。平気か?」
「……だ、大丈――」
担架に乗せた少年を殿方が二人、大急ぎで何処かへと運んでいるよう――かと思えば彼らはすぐ先の、様々な小瓶を並べた老婆の元で足を止め、少年の容体を見せようとしているのでした。
少年は顔を赤くして呼吸も荒い――きっと苦しんでいるだろうという様子が、黒い靄の切れ間から見て取れました。
恐らく老婆は薬売りか、あるいはお医者様なのでしょう。
「こ、これは一体……う、何という熱……何があったのじゃ」
額に手をあるとすぐにわかるほどに熱を持っている様です。
老婆が上着を脱がせて紫色の痣がところどころに現れている様を確認すると、薬選びに取り掛かりました。ですが――。
「ううむ……原因が解らんには――解熱作用のある薬は効果があるじゃろうが……この子はどうしてこうなった?」
ですが、指先はふらふらと羽を休める場所を探す蝶の様に色々な瓶や葉っぱの上で動きを止めるものの、どれかを掴み取るに至りません。原因と病状が判読できない事にはお薬を選べないのでしょう。
「村のすぐそばで見たこともない魔物に襲われたんだ、何年もここいらで商売をしてるが、あんなもん見たことがねえ! そいつに少し触れただけでコイツは……ババ様、頼む、何とかしてくれ」
頭を下げて突っ伏したまま、殿方は声を震わせて懇願するのでした。
きっと大事な方なのでしょうね。私にはあの殿方の様に大事な人など――
「……カーナ」
そうです。もし、カーナが毒に侵され辛そうにしていたならどんな気持ちになるのでしょうか。
「バアさん、魔物の毒なら不用意な薬は強烈な副作用を与えてしまうかもしれん。時間がそう経っていないのならばまずは患部を探して毒を吸い出すのが肝要だ――」
「ううむ、わかってはおるが」
セベルリオン様はとても博識ですね。私なんかはこんな時、これっぽっちも役に立てません。
と、
「カーナ」
今までのエミネイラなら思ったのかもしれません。
ですが、カーナ。私に勇気を貸してくださいね。
「おい、エミネイラ!」
刺されたところは目視では、それこそ素人の私なんかには分かりようもない事ですが。
「毒を吸い出します!」
「おい、エミネイラ、無茶するんじゃないッ!」
セベルリオン様の制止はさて置き、今は一刻を争うのです。寝かされた体の傍に膝をつき、観察してみます。
右の肩口と二の腕の中間あたり、小さく黒い靄がかかっているこちらがそうなのでしょう。病気や毒に詳しくはありませんけれど、刻一刻と濃く、黒く染まる靄が如実に物語っているのですから――間違いはありませんとも。
散々、私の事を苦しめた死神さま。残念ですが、今こそこのエミネイラの口が吸い出してご覧に入れましょう。
「……ばはっ、う、ごほ――」
少し咽込んでしまいましたが、吐き出した血は宵闇の色。そしてほどなく地面に染み付いたそこから蠢く影が霧散します。
「正解です……次はどうすれば」
まだ顔には靄がまとわりついたまま――。
逃げては駄目。俯いては駄目。目を背けていては駄目。
「得体の知れない毒を吸い出すなど無茶な事をしよる……病人が増えたらわしゃ面倒が見切れんぞ! しかし、まだ毒は体に残っておる。さて――」
「駄目ぇーーッ!」
その薬は駄目です。薄らとですが靄がかかっていますから。それ自体は毒とはならないのでしょうが、老婆が手に取ると変化が現れたのです。この状況においては死神に好都合な品、と言う事なのでしょう。
咄嗟に手で払いのけてしまい老婆が手にした瓶が割れてしまいましたが、今は火急に適切な薬を施さなければ――。
「これも、これも駄目です。……! あっ、これならいけそうですねっ、それとこれと、こっちの草とあっちの液体と――」
こういった類の知識はありませんが、私が何某かを手に取れば顔の靄が濃くなったり、薄くなったり変化はなかったり――簡単です、死神が嫌がるモノを選択すれば良いのですから。いい気味ですね、エミネイラの反撃の時ここに来たり! というわけです。
「ですがこれをどうやって飲ませれば――」
「小娘! 何をやっとるんじゃ、素人が勝手に」
顔を覆う靄。
ですがじっと集中して見ていると口元のあたりだけそれが晴れていきます。きっと死神が嫌がっているのでしょう。
「そうだ!」
これしかありません。
変な味のする草や液体や木の実やガビガビに乾燥したトカゲみたいなものの尻尾に、うわぁ、虫だ――少し抵抗がありましたが――まとめて口に放り込みます。
「うぅ……もご……もご……うぷ!」
口移し。今まで散々、嫌悪の対象だった死神の靄へと顔を埋めるのは心臓が飛び出す思いでしたが。咀嚼してすり潰せば弱った体でも飲み込めるかもしれません。
ですがエミネイラの恨み、ここで晴らさでおくものか――後になって考えてみれば随分と無茶で大胆な事をしたものだ、とも思いますが、この時は必死だったのです。
「――ぷはっ、ごぼ、ごほっ! 苦……苦いっ、げほゲホッ」
「大馬鹿者っ! それは薬ではなく呪いや儀式用の……いや、そんな莫迦な。信じられん……痣が」
死神さんは退散された様ですね? お口の中はピリピリと痺れてとてつもない苦味で吐き気がしますが、見ればゆっくりと上下する平たい胸が、先ほどよりも呼吸が緩やかになっている事を表しています。
「熱も少し下がっているようじゃ……」
老婆もカーナのおでこのあたりに手のひらを当てて、熱が引いている事が確認できた様です。
あれ? カーナ?
……違いますね。必死だったあまりにカーナと思い込んでいた様ですが、カーナではありませんね。成人とは行かないまでもそれはまごう事なき少年。殿方だったのです。
「……私は、何とはしたない事を……」
それに少量とはいえ、毒や得体の知れないナニカ達を口に含んだものだから、具合が悪くなってしまった様です。
体を支えきれなくなって倒れ込んではしまいましたが、苦しそうにしていた少年の顔は穏やかで、いつも通りに眠っているだけの様にも見えます。
「良かったです」
寝転んでみると、いつの間にかたくさんの人々が集まってきていた様でした。
「呆れた」と言わんばかりのセベルリオン様の顔が視界に入ると同時に、私は気を失いました。