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34 ブラッドカリス

 ところどころで聞こえる豪快な笑い声と纏う甲冑の鋼を打ち鳴らす音。

 かと思えばその周りでは子供達が走り回って笑い、互いに掛け合う無邪気で少し可笑しな、なんてことのない会話が聞こえ、怒っている様で慈愛に満ちた力強い母親らしき女性の声――。

 ここでは争いの火種に怯え、抗おうとする反面、民の優しい営みの音があちこちで聞こえる。


 そのどれもが私の額に突き刺さって内部で反響し、とめどない頭痛と吐き気を呼び覚すのでした。


「ぅぷ。ォェェ……これも私を付きまとう死神の呪い、ということなのでしょうか」


 どうやら私はベッドに横たわっていた様。

 体を起こし、眩しい日差しに視線を誘われ目を細めながら窓辺を見ると、背中越しに声がかけられました。

 

「――お前が調子に乗ってあたしの酒にまで手ぇつけるからだ。お陰でセベルリオンからくすねた釣り銭がパー。誰かの呪いだってんなら間違いなくあたしのだ。一生恨んでやるからな」


 口元を拭いながら声のした方を見ますと、レイニールさまが椅子に腰掛け足を組み、頬杖をついて私を睨みつけていました。

 昨日の事、このエミネイラの記憶にはございませんが、なんだかレイニールさまが昨日まで纏っていた私を遠ざける様なサボテンの針のチクチクとした雰囲気は、今はもう感じられません。


「……一生、忘れねぇからな」


 もっと直接的な怒り。

 どうしてレイニールさまはこんなにもニコニコと笑顔を浮かべているというのに、ひしひしと心の底で煮えたぎる溶岩の様な怒りが伝わってくるのでしょうか。

 察するにこれが言霊。以心伝心、ということなのでしょう。


「なぁ、エミネイラ。お前、ソレ。どう思う?」

「どう、って……」


 彼女の視線の先を辿ると、いつのまにか私が両手で握りしめていた杯にたどり着きます。


「……わかりません。森で襲いかかってきた暴漢が持っていたものですが、どうしてか温かみと懐かしさを感じるのです。あの時の竜の呪いから私を守ってくれた――それ故そんなふうに思い込んでしまうのかもしれませんが――たとえ全くの偶然だったのだとしてもォェ」


 ですが、ええと。あの方々は何とおっしゃっていたでしょうか……作戦? 任務……誘き出す。


「この杯が……腐れの呪いをぅプッ! オースチラへと誘い込んだ……」

「そいつは全くの嘘っぱち……とは言いきれねぇな。それはさ、お前が持ってるそれはヴァルシュヴァレイの秘宝、千年前、伝承に謳われる聖女の血を受けた“聖杯(ブラッドカリス)”だよ」

「――! あの手が臭いといわれる聖女さまの?」

「ふざけんな。いわれてねぇよ、誰がそんな噂を流してんだ」


 だってあの時、村のお婆さまが――。

 言おうとするとより一層、レイニールさまの眉間に深い皺が刻まれて、私は肩をすくめて込み上げる胃酸の味に耐えることしかできませんでした。


 ですが、レイニールさまはふっと小さく息を吐き、まるでその小さな呼気と一緒に全ての怒気を吐き出してしまったが如く、もう一度落ち着いて椅子へと座り直し、懐かしむ様に語ったのです。


「でも、わかんねぇよな……千年も前から、ヴァルシュ一族はそいつを守っていた。長い時間だよ。それを守るために死ぬ奴もいれば、意地でも生きる奴がいた。そいつらの内、一体何人が“聖女”なんて怪しげなやつに会ったことがあるよ? 声を聞いたことがある奴は? 話したことは? いるかどうかもわかんねえ、救い手の伝承なんて嘘くさいもんのためにアイツらは――」


 窓辺より日差しを浴びて、手に顎を乗せて儚げに語るレイニールさまはまるでどこかのお姫様の様にも見えて――。


「救い手の……嘘くさい――聖女の……伝承」


 そう呟くと、レイニールさまは。


最初(ハナ)っからお前は……そう思ってたってことか」

「……はぃ?」


 花の様に微笑んだのでした。


 

 ※ ※ ※



「さて、首尾はどうだったかな?」


 老兵カイレンは窓辺に座り日差しを背に受けて、さながら石像の様に静かに――そして穀物を挽く石臼の様な声をかけてきた。


「上々だよ。プレアスリテ公国の英雄はこちらの側についてくれるだろう。彼にとっても悪い話ではない」

「歴戦の戦士を味方につけ、貴方もまた、戦の中へと身を投じるか」


 カイレンは俺の目を覗き込み、少しばかり寂しそうにそう言った。

 

「……このまま手をこまねいて見ているだけでは、各国に火の粉は降りかかり、戦火が広がっていく。何もせんで眺めているだけでは祖国の――祖国の、民へ合わす顔がない」

「誰も若、貴方を責めはせんよ。父君も、母君も、妹も。何も剣を振るうだけしか道はないというわけではあるまいに。皆、聡明で優しく、時に突飛な行動をすることもあるが――それでも貴方ならば、と」

「やめろ」


 望まずとも冷たい声音を発してしまい、ほんの少し嫌悪した。暴力抜きに戦を沈めようとした先代、父上は他でもない、暴力によってお隠れになったではないか。


「すまない。ちと気が高ぶっていてな。柄にもなく気疲れしたのだろう」

「少し休まれたらどうか」

「そうさせてもらおうか」


 上着を空いている椅子の背もたれに投げかけ、身投げでもする様にベッドへと背中を預けた。

 と、気がかりだった事を思い出して未だ俯いているカイレンへと問いかける。


「エミネイラは、墨式によって魔術の際は持っていないと聞いた気がしたが――?」


 まだ眠りにつくにはいくらか早い時間だ。

 太陽はまだ高くに在り、夕飯も済ませていない。


「……無いとも」


 腐っていた竜が白銀に輝いた夜を思い返す。


「あの時確かに、エミネイラは魔術を発動させたと思ったのだが。森が光り、光源を辿った先にエミネイラを見つけた。それに、あの赤い衣、杯。レイニールは言ったぞ、あれは聖杯に違いないのだ、と」


 カイレンは口を開かず、しかし時が流れ、いつしかセベルリオンはそれほど長くはない眠りについていた。

 これより太陽が地平の向こうへ降るにつれ温度が下がる。しわがれた手で薄手の布をセベルリオンにかけてやり、彼を起こさぬ様にそっと扉を開けながら独り言ちた。


「……エミネイラ。儂のせいじゃな、すまない」


 後ろ手でゆっくりと閉めた扉は寂しそうに軋み、二人の空間を隔てた。

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