21 あ、尻尾
「げほっ、空気の悪さが笑えなくなってきたな……エミネイラの奴、一体どこまで行ったんだ」
森を駆け、肺臓にまとわりつく瘴気を愚痴と一緒に吐き捨て、口を拭うついでに木の幹にもたれ掛かった折、セベルリオンは向こうで立ち上る光を目にした。
「何だ?」
そう遠くはない場所だ。しかしこれほど目には見えない細かな瘴気が大気を汚染しているというのに、決して体力に恵まれているとは思えないエミネイラがそれほど遠くまで行けるとは思えないが――。
胸を押さえて呼吸を整え、今見た光とエミネイラの関連性を考える。
暫く雨は降っておらず乾燥した落ち葉が地面を覆うこの時期、足跡を探ることは困難であった。手掛かりはない。しかし、
「――行くしかないか」
その光源の更に向こう、休んでいた鳥達が一斉に飛び立った。倒木し、腐臭が強くなる。恐らくあれは腐れ竜が何らかの原因で力を強めた事に起因するのだろうと見て間違いはない。
あの光がエミネイラとは断定できないが、腐れ竜は光の元へと進んでいるようだ。
いずれにしても痕跡はない。セベルリオンは駆け出した。
◇◇◇
「ヒィ、魔術師、か」
「そんな事言ってる場合かよ! 聞こえなかったのかよ、今の! 向こうの方だ、早く逃げ……ゲホ」
「あれ、おい、しっかりしろよ! あれ、目が……」
私の放った強烈な“灯火の魔術”に面食らったのでしょうか。
人間に化けた腐れ竜さまは、片方は吐血し、もう片方は眼から血を流して蹲りました。
「あ、あの、そんなつもりじゃ――」
樹々の倒れる音。瑞々しい枝葉が折れる音などではなく、水分を失ったボソボソの枯れ木が、自重によって崩れていくような独特の音。
腐れ竜を倒した事を喜んでいる場合ではありません!
悪より悪の、巨悪がこの“盃”を求めて襲来するのです。
徐々に――ですが、確実にこちらに向かってくる。
音が大きくなっていく。
「……あ、あ……死神、が――」
膝を折る二人に靄がかかる。
周囲に靄が蠢く。
指先に、視界に、肘に、髪に、死神がまとわりつく。
ですが――。
「このエミネイラ、全て払いのけてご覧に入れます!」
この死神が、決して抗えないものではないと、既に存じておりますから。
先ほどから利き腕の紋様は灼けるように熱く、ですのに全くもって痛みはりません。どこか優しく懐かしいような――。
ともあれ、今は考えている暇はありません。
まずは指先の靄を、ほら、簡単です。
念じ、埃を吹き飛ばすように頬をいっぱいに膨らませ息を吹き掛ければこの通り!
理屈はちっとも分かりませんが、こんなに簡単に事が運んで良いのでしょうか?
こんなに簡単に払えるのであれば、民も、街角の老人も……お母様も――。
「――っ、悔いても仕方のない事っ」
耳に残る、まるで汚泥が鳴いているかのような不快な声。
ついに、ついに姿を見せる、腐れ竜さまの家族を人質にしているという巨悪。
「来ましたね、このエミネイラの魔術でやっつけてご覧に入れましょう!」
ですが、私の想像し見当を付けていた世にも恐ろしい巨悪の姿とは違い、朽木を倒して這うように顔を見せたのは、あの日レイニールさまに連れられて丘の上で見た、まさに【腐竜アボラクスス】そのものだったのです。
「……よくも家族が云々などと都合の良いことを言って……ッ、私を騙してくださいましたねッ」
怨みがましく睨みつけたはいいものの、近くで見れば、その大きさに圧倒され。脚がすくんでてしまいそうでした。
ふと振り返れば、二人の殿方が倒れ込んでいます。
きっと二人の殿方は、このエミネイラの魔術を恐れた憎き腐れ竜さまに操られていたに過ぎない――そう考えれば辻褄が合います。
「いざ、尋常に――」
しかし、右腕を伸ばして腐れ竜さまへ向けて遮二無二念じても、魔術らしきものは発動しません。
「あ、危なかった」
竜の薙いだ狂爪が私の体を切り裂かなかったのは、咄嗟に靄が見えて必死に身を屈めたから、その拍子に岩に足を取られて体を転がしたからに過ぎませんでした。
岩でさえが腐食してほろほろと朽ちていく。どうやらあの爪は敵意そのもの、腐れ竜さまの纏う瘴気よりもずっと呪いが強く、肌を掠めればそこで仕舞いのようです。
もたもたしていると、利用された哀れな殿方二人も瘴気に当てられて無事では済まないでしょう。お薬を与えなければ。
「……しかし、どうして私は平気なのでしょう、かっ」
顔の右半分、ベッタリと靄がまとわりつくような気配がして私は反射的に左方向へと着地のことなど何も考えずに飛び退くことで追撃を交わしました。
そこまで機敏に動き回って攻撃をしてくるわけではない様子。体が腐っているのですから当然ではありましょうが。
「はぁ、はぁ――もしかしたら、この盃のせいで……?」
私がこの瘴気を受けてへっちゃらなのは、あるいは偶然手にする事になった、この古びた杯のおかげ……?
合点が行きました。
この竜が人を食べるのならば、倒れている殿方を食べた方が食べがいがありそうですし、お腹が膨れるでしょう。
それでも執拗に深淵のように暗い眼を私に向けてきているのは、なるほど、この杯が怖いのですね?
「観念なさいな――」
あ、尻尾
と思った頃にはもう少しばかり遅かったのです。
鉤爪を避ける事で精一杯だった私は、消耗した体力の配分も見誤ったようで、靄を見てから避ける事ができなかった。体が心に、追い付いては来てくれなかったのです。