13 クラーラの文
千年も前の、今では御伽噺くらいにしか語られぬ大戦後に興り、小国ではありながらこれまで王国と言う態を細々とつないできたクラーラのごく一部において不穏な空気が立ち込めていた。
「陛下……陛下っ」
宰相ヘリンゼは、決して洗練されているとは言えない所作と足音をもって玉座のある間へと走り寄ってくる兵に苛立つと共に、たいして身分の高くない一般兵でさえその軽装にクラーラ王国の印が施されていれば殆ど素通り出来てしまう“平和ボケ”した王宮の体制に苛立って小さな舌打ちをした。
「騒々しいぞ。ただでさえ陛下は今体調がすぐれぬと言うのにこの様に埃を立てて――大した内容でなければ貴様は明日より南の開拓兵に回してやるでな」
「ヘリンゼ様……申し訳ありません。しかしこの様な文を――」
息荒く、首を垂れた兵が献上した書状を乱暴に奪い取りって視線をやや大陸特有の癖ある文字へと這わせると同時に、口が渇いてゆくのと反比例し脂の浮いた額をじっとりと汗で滲ませていった。
「ヘリンゼ、何事であるか」
背後よりクラーラ王の声がかかり、『大した事ではありません。このヘリンゼが対処しておきましょう』と言って手柄欲しさにその通り自らが指揮を取る事も一瞬脳裏に浮かんだが、どうにもこれは自分程度では対処しようもない“災害”であると思い直したのだ。
「陛下……オースチラ領へ彼の腐れ竜アボラクススが接近しているとの書簡です。昼と昼の隙間、宵闇を這いずり進み、方角的には小さな村を北東へ向かっていると……やがてクラーラへも魔の手が迫る可能性大――火矢を持った兵団と多量の一等級聖水、魔術師方を出兵されたし――このクラーラに? まさか」
顔色を伺う様にチラチラと王の顔と書状の間で視線を忙しなく動かしながらヘリンゼが言い、最後に大仰な咳払いをした辺りで王は包み込む様な脱力感のなか、沸々と煮えたぎる怒りから肩を震わせた。
「全く持って忌々しい……あの“忌子”が生まれてこの方、この様な事ばかりが起こる」
思えばあれが生まれてから妃は亡くなり、疫病が城下を蹂躙し、中立を維持してきたこのクラーラにも世の戦乱、その火の粉が降りかかろうとする有様、というのが王の考えであった。
すでにその第三王女は城を去ったというのに、未だにこうして恨まれようなどとは当のエミネイラでさえ予想することさえ及ばない。
誰に聞かせようとしたわけでも無く一人でに滲み出た王の言葉にヘリンゼは大袈裟に頷き、一方で兵は聞こえぬふりをした。
「そう言えば……その日門兵が見た最後の第三王女は西の方角へ歩いて行ったと――さてはこの騒ぎ、もしや第三王女が腹いせに行った“嫌がらせの類い”では」
そう言って血色ばんだ安堵の顔を見せるヘリンゼに王は不快感を隠さず、ヘリンゼの手に握られた書簡に目を細め、凝視した。
「……いや、“あの者”の仕業では無かろうな。対応が必要だ」
王にはわかる。それはまごう事なき正式な書簡である。
なればこそ対応に苦慮するのだ。正式な物だからこそ対応を間違えてはならない。
「誠ですか! では兵を集め……いや、まずは民に――」
兵を立ち上がらせて民草の避難をさせようとしたヘリンゼを――それがヘリンゼの迅速な対応でもって王の機嫌を取ろうと言う思惑だと分かってはいるが――彼を掌で制し、
「民衆には知らせるな。万一他国へと逃げられれば税収と労働力が減ずる」
玉座から軽くて重い腰を上げた。
「兵も出さぬ。腐れ竜に対峙すれば腐肉と化すだけである。その書状は九分九厘、敵国の陽動作戦であると判断する――この書状を届けた者は? 今どこにいる」
王が睨みつけると兵は再び跪き、
「はっ。眼光鋭く、しかし不審で極端に寡黙な女でありました。弓矢を携え、門の詰め所で待てと言いましたが……結局、行方をくらませました」
返事をした。小さく二度三度頷いた王は目だけをしきりに泳がせているヘリンゼに命を下す。
「周辺の守りを固める。腐れ竜の迎撃のため出兵させるは国の守りを手薄にするための陽動。その隙をついて本丸へ攻め入るつもりだろう。同時に周囲を囲う事で民の動きを牽制する。明日、対クレインによる攻城を想定した大規模な軍事訓練を行うと触れて回れ。くれぐれも市中の者は商売の手を止める必要はない、とも伝えるのだ」
「――との王令であるっ! 何をぼさっとしている、弱卒めがっ!」
王の言葉に間髪を入れずにヘリンゼが兵を叩き走らせ、玉座へは戻らずに窓より城下を眺める王の背へと声をかけた。
「さすが陛下。他国の謀略とまではこのヘリンゼも思い至りませんでした。しかし残りの一分……いえ、一厘だとしても万一、腐れ竜が本当にオースチラ領に接近しているとしたら――」
にこやかに揉み手をしながら媚を売らんとするヘリンゼに辟易としながら、小声で彼に告げる。
「……オースチラ辺境伯に対処を任せる」
ヘリンゼの顔がしきりに強張り、よほど彼の事を嫌っているのだろう事が読み取れた。
「あの男に、でありますか」
「それと、正教会に寄付をして一等級聖水――いや、この際三等でも粗悪品でも良い、聖水と名のつく物は全て買い取っておくのだ。使い方は辺境伯に任せる」
背中を丸めて咳き込んだ王は玉座に戻り、未だ不服げにしていたヘリンゼを睨みつけてやっと彼が緩慢に動き出す様を見届けた。
再び咳き込むとぐったりと背もたれに体重を預ける。
追放した第三王女の顔を思い出そうとしたが、物心ついてからは髪を長く伸ばし背を丸め、いつも俯き伏し目がちに人を避けるようにして歩いていたため、瞼には浮かばなかった。
「クレインの動きも気になるが……さて」
書状は間違いなく、国家間で取り交わされる条約に封をするための高等でまず分かるものにしか分からぬ術式が施されていたのだった。




