12 手を伸ばすしかないのです
「――あっ、カイレンさま……嫌、くすぐったい、です……んっ」
「これ、変な声をあげるでない。でなければここで終いにするぞ。儂は世間体を気にする方でな」
なるほど。
いくら魔術を使えるか否か、その素養を確かめる儀式自体はさほど見咎められるものではないとしても、みだりに目立つ必要はない――そういう事なのでしょう。
しかしこれは耐え難いこそばゆさです。
手首をきつく握られ、温かい今の季節とはいえヒンヤリと冷たい墨を乗せ柔らかな筆が走り、痛みとも痒みとも違う感触が神経を撫でる――。
「ぁん……これも試練の内、というわけですね」
「……いや、全然。口を閉じられなければ儂の腰巻でも詰め込んでやろうかの」
すっかり打ち解ける事が出来た長老様のお家から墨を借り、出来るだけ人の邪魔にはならない場所を選び、こうして“何とかの何某”という儀式を施していただいています。
「ん……ッ! カイレンさま、これは。この文字や模様……一体、何を?」
気を紛らわせる為でもありますが頑張って問いかけると、我慢をできない軟弱な私にカイレンさまの厳しい眼光が向けられます。
「【天賜印定の墨式】……儂らの一族ではこうして魔術の素養を見定める者が多かった。まずは身体に害をなさず、周囲へもさほど影響を成さない初歩の初歩――なんら生きてゆくうえでは役に立たぬような――かといって極少の魔術因子のみで発動の兆しが見える魔術の式を構築して、その有無、或いは多寡によって魔術の素養を確認するのだ。近代となってはカビも生えぬ古びた手法になってしまったが」
聞けば、紙に書いた式を握りしめ、拳ごと水に沈める法や、印を記した紙を燃やして炎に息を吹きかける法。あらかじめ式を描いてある床に座って四方に立てた灯の揺らめきから占を行う法など、様々な手法があるようですが。
こして体に直接、呪物を混ぜた墨で式を描く手法は紙の普及に伴って、また、その独特の儀式が手間だとして徐々に少なくなっていったのだとか。
ともあれ、ここからです。
万一、もしも私に才があるとすれば、これより生まれ変わった魔術併用侍女・エミネイラ爆誕、という訳です。腕力も弱く、身のこなしは目も当てられず、武術の才も心得もない。
そんな私が強大な厄災、【腐れ竜アボラクスス】に抗うには、手札は一枚でも多い方が良いでしょう。
「よし、と」
「右腕はおしまいですか? 次はどこに印を――」
「莫迦者め! 印を描くは片腕のみじゃっ、服は着たままで良い!」
これは恥ずかしい事をしました。
痴女です。痴女そのものです。
てっきり全身に模様とこの文字らしきものを書いてゆくのだと思い込んでおりましたが、服を捲り上げたとたんにカイレンさまの戒めが耳を打ちました。
「利き腕だけでよい。儂は世間体を重んじる……そう言ったな?」
「え? ええ」
二の腕の半ばから指先にかけて、特徴的な紋様をほとんど隙間なく描き、「ふぅ」と息を吐いて額を拭うカイレンさま。
きっと緻密な文様を僅かに震える手で描ききるのは――失礼かもしれませんが、お歳を召したお体では大層苦労なさったのでしょう。
「キレイな紋様です」
「綺麗、か……実に的外れだよ、エミネイラ」
突如として刃物の様に尖り、金属を擦り付けるような迫力の声を絞り出すカイレンさまに思わず気圧されました。眼光は鋭く、まるで瞳の奥が煮えたぎっているかの様。
「この紋様は魔術の素養を測らんとす血塗られた紋様……才があったと笑う勿れ……才があった者は魔道を探求するまでもなく戦場に駆り出され死んだ。追い求めなければ死ぬのだ、努力せんわけにはいかぬ――」
カイレンさまの周りだけ、急激に気温が下がったような感覚。私の肌も鳥の羽を毟ったかの如く毛穴が粟立ち、意図せずとも生唾を飲み込まずにいられませんでした。
「……才が無かったと悲観する勿れ。喜ぶがよい。戦の始まり、異形の襲来、力持たぬ者の盾にされずに済むのだから。権力者の多くは力を持たぬ。なぜなら、力ある者は戦場で殺されるからだ――別の力ある者によって」
しかし、決して私に怒りをぶつけようというのではないのです、決して。
戒めようとしているのです、軽い気持ちで、魔術という力を手にしたいと思った私に。
あれ? そうだったでしょうか?
「カイレンさま」
「エミネイラ。君が欲しいと考えている【魔術】というのは、いつの世も――」
違うのです。
「カイレンさま。貴方が何をおっしゃりたいのか、分かっているつもりです……ですが、『キレイ』ですよ、この紋様」
見方によっては悍ましい蛇が蜷局を体を引きずっているようにも、不気味な印象を受けるのかもしれませんが、私はこう思うのです。
「私にはとてもキレイに見えるのです。カイレンさまの息遣いが聞こえる様です。この紋様を作り出す過程で、幾つもの失敗があったのでしょうね。沢山の方に悲劇が訪れたのでしょう。ですが、これは持たざる者が何かを得ようと必死に手を伸ばした結果、生み出された紋様――」
太陽に腕をかざしてみると、紋様がきらきらと光出す様にさえ私には見えます。
「私には本当に何もありません。もしも魔術の才があれば飛び跳ねて喜びますし、才がなくとも今まで通り。軽い気持ちで魔術を学びたいわけではないのです。どんな小さな何かだとしても、私は一生懸命に手を伸ばしたいのです――ですから、輝いて見えます」
これは、無い物ねだりの結果。
出来ないとしても、やってみるしかないのです。
手を伸ばさなければ、掴むことはできないのですから。
「どちらでも良い、か」
「ええ。私の様な者に才があろうがなかろうが、この村へ腐れ竜が近寄ってきます。セベルリオンさまは言いました。良い村だ、放っては置けない、と。私もそう思うのです」
子供達は遊び、大人達は働き汗を流す。
クラーラの城とは全く違う生活を営む者達。
私とて、みすみす腐らせるわけにはまいりません。
「……墨式は完了だ。一日、二日で効果が現れるはずだよ。しかし、違和感があればすぐに言いなさい。稀に、よからぬ事が起きる場合がある」
「よからぬ事?」
「あぁ……まぁ、そうそう起こることでもないが――」
カイレンさまが安堵した様に息をつき、普段の穏やかさを取り戻した頃に私の名を呼ぶ声が聞こえました。
「おぉーい、エミネイラ! 西側の忌避薬が足りないんだ、調合を手伝っておくれ!」
「はぁい、只今! ……村長さまですわ。カイレンさま、有難うございましたっ、私、行きますね!」
効果が現れるまで時間がかかる様です。
腐れ竜の襲来までに、結果がわかれば良いのですが――。
「全く、そそっかしい娘だのう」
頭を下げ村の入り口へと駆けていくエミネイラの後ろ姿を眺めながら、カイレンは大きくため息をついた。
「カイレン、墨式は上手くいったか?」
「この儂があの程度の式で失敗をするとでも?」
入れ違いにカイレンの傍、腰を下ろすセベルリオンへと眉を寄せた顔を向け、筆を洗う。
「もう歳だからな。どうだ? 墨式は手順は面倒だが、効果はすぐにわかるはずだろう?」
「……無い。済まないが、あの娘に魔術の才は無いよ」
遠くで聞こえるエミネイラのはしゃいだ声に、カイレンは再度、ため息を吐いた。