第8話 なにも知らなかった
公爵家での夜会からさらに一週間が経過して、城内にあるドリス様の私室に入り浸ることにも慣れて来た頃、レーアさまが婚約したという報せが届きました。
手紙から顔を上げたドリス様がイタズラっ子のように笑います。
「熊さんとの婚約が成立したようだよ。これで鉄鋼分野もさらに栄えることになるね」
「ドリス様のお仕事ってなんていうか……すごいですね、この国の最近の成長具合といったら目を瞠ります」
私がそう言うと、彼は机を離れてソファーに座る私の元へやって来ました。その手には地図があり、テーブルへと広げながら隣に座ります。
「我が国は東と南が海に面しているが、北と西は大国と接しているね」
「両国が戦を始めたら、魔術師のほとんどいない我が国は一瞬で滅ぶとか」
他国は人口の一割くらいが魔術師となるそうです。結構な数です。一方我が国はなぜか魔力を持つ者が生まれません。どうやら土地そのものに魔素がないせいだ、というのが最近の研究なのですが……。
そんな軍事的弱小国が生き延びているのは、隣接する国同士が牽制し合っているからに他なりません。
「真正面から戦っても勝ち目はないが、経済的に、そして情報戦でなら勝つことができる」
そう言って彼はいかに三国の均衡を保つか、熱心に語ってくれました。すでに双方どちらも我が国の技術や資源の支援によって生活が守られているのだとか。ですから今まで以上にこの地を戦場にすることはできないのだと言います。
きっとその成果の裏側にはドリス様の活躍があったことでしょう。熱心に話す彼に、私はなんだか誇らしい気持ちになりました。
「そういえば、他国でも魔法については未だ謎が多いという話は知っているかな」
「火や風という自然由来の力を行使する体系や、魔物を使役するような体系の魔術があるんですよね」
彼は卓上のランプに火を点し、その上にパーコレーターを設置しました。簡単にコーヒーを淹れられる器具ですが、本音を言うと私はまだ仕組みがよくわかっていません。まぁいっか。
「そう。魔術の体系は先天的なものであり、自分で選べないということと、自然由来のものが多くを占めるということだけはハッキリしている」
「魅惑魔法など精神感応系もあるらしいと聞きます。恐ろしいわ」
「そう。それが君だよ」
「……んんっ?」
隣に座るドリス様が身体を捻って私の方に向き直りました。一方の手は私の肩に、もう一方の手は私の頬にかかる後れ毛をすくい上げます。
「魔力持ちがほとんど生まれない我が国では、魔術師を探すシステムさえ構築できていないよね」
「幼少期に神殿で――」
「あれは自然由来の魔術体系しか拾えない簡易のもので、だから君のような特殊な魔術師を見つけ損ねる」
彼の長い指が私の頬を撫で、心臓がばくばくと暴れ始めました。
「何か質問はある?」
「私に魔力があると考えていらっしゃるのですか」
「そう。ニナは間違いなく精神感応系魔術師だ」
「誰も私に惚れてくれないのに?」
「僕は好きだけど、論点はそこじゃないね。魅惑魔法を使っているわけではないから」
少しずつ距離を詰めるドリス様に、私の身体はゆっくりとのけぞっていきます。
これ以上は自分の身体を支えられないという角度になったところで、室内に沈黙が落ちました。お互いの息遣いがすぐ近くにあって、腹筋はプルプルするのに倒れることも起き上がることもできません。
「君は人に秘密を持たせない」
「……え?」
もう少しだけ見つめ合ったところで、パーコレーターが小さく音をたて始めました。沸騰して蓋が少々持ち上がっているようです。
私の腰に腕を回したドリス様が私の身体を起こし、手慣れた様子でパーコレーターにコーヒー粉の入ったバスケットをセットします。
「君が問えば誰も秘密にすることができない、という魔法だよ」
「そんなまさか。だ、だってドリス様も私に秘密だって言ったことあります」
どうして私を選んだのか、という質問にはまだ返答してもらっていません。
結ばれる未来の無い恋をしているから、都合の良いカモフラージュとして私を選んだのだろうと思ってはいるけれど、それを彼の口から聞かされたわけではないのです。
コポコポとパーコレーターの内部で湯が循環する音がし、豊かなコーヒーの香りが室内に広がっていきます。
「秘密だとは言ってないよ。『今は聞かないでくれ』と言ったんだ。君に本気で問われたら回答しないわけにいかないからね」
「そんな……」
「あのときは、君が本気で知りたいと思っていなかったから威力が弱かった。おかげで魔法効果が切れるまで黙秘を貫くことができた。だから回避できたに過ぎないんだ」
「確かにあのときは無言の時間があったけど」
根掘り葉掘り聞いてきて疲れる、と言ったキェル様。言いたくなかったのにと真っ赤なお顔をしたレーアさま。彼らは私の魔法の被害者だったということ……?
「使いようによっては恐ろしい魔法だと思う。だから絶対に他言はしないようにね」
そう言って彼はコーヒーをカップに注ぎ、私の前にそっと置いてくれました。お砂糖を少し加えたコーヒーはほろ苦くて、でもちょっとだけ優しい味で。
なにか言葉にするのも恐ろしくなって、なにを言っていいかわからないままただコーヒーを味わっていると、静かな部屋にノックの音が響きました。やって来たのは王城の従者で、ドリス様宛の手紙をいくつか運んできたようです。
「アネリーン・ゲールツ伯爵令嬢から……? やっぱり仕事の依頼だったのかな」
ドリス様の呟きにも、私は何も言えないままだったのでした。