第6話 名誉を守るということ
日に日に、それと気付かないほど少しずつ気温が上がっていく初夏。
昼は公園をそぞろ歩いたり、あるいは競馬やボート観戦をしたり。夜になれば晩餐会や演劇の鑑賞、エトセトラ、エトセトラ。社交期真っ只中の貴族は何かと忙しいものです。
そして今夜は、アプシル伯爵ドリス・リッダー様と一緒に参加する初めてのパーティー。我がボガート家のタウンハウスまでお迎えに来てくださったドリス様はまるで、絵画から抜け出て来たみたいに素敵でした。
「よく似合ってますね」
「この短期間でドレスをいただけるとは思いませんでしたわ。ありがとうございます」
ドリス様の手をお借りしながら馬車に乗り込み、そっとスカートを整えて彼の座るスペースを確保します。
夜空のような濃紺のドレスは金色の刺繍がキラキラ輝いてとっても綺麗。ただこれだけの細工をするには結構な時間がかかると思うのですが……。
「予想通り、世の中では僕らが恋仲だと知れ渡っているようだよ」
馬車が動き出すなり彼はイタズラっ子のような笑みを浮かべます。
「あれから一週間と経っていないし、私たちは表に出ていないのに本当に早い……」
「恐らくだけど、もっと前の我々の逢瀬……ほら、ニナ嬢が転びかけた夜の。あれも誰かに目撃されていたんだと思う」
「逢瀬じゃないですけどね」
「そう思ってるのは僕らだけだ」
一度「そう」なのだと拡散されたら否定も訂正もできない社会。逢瀬だったと判断された以上、もうどうにもできないってことですね。なんて生きづらい世の中なのかしら!
「ただ貴女の名誉はできるだけ守ることを誓うよ」
「ふふ、期待してますわ」
それが難しいのだという話をしていたのに、一体どうするつもりなのでしょう。結果が伴うかどうかはさておき、彼がどのようにして私の名誉を守るのかに期待が高まります。
それから書類の整理などの仕事の補佐をいつから始めるか、というような話をするうちに馬車は目的地へと到着しました。
ドリス様が先に馬車を降り、私のために手を差し出してくれます。私がその手を頼りに馬車を降りると彼は私の耳元へと口を寄せました。
「公の場ではあまり喋らないことにしているんだ。でも貴女は気にせず自然体でいいから」
「そう、なのですか」
彼は初めて会ったときでさえ、「僕は足が長い」とかなんとか言っちゃうような人です。どちらかと言えばジョークが好きで饒舌なほう。喋らないと言われてもいまいちピンときません。
なぜ、どうしてと聞き返したかったのですが、主催である公爵家の従者に声を掛けられ、それ以上を問う暇はありませんでした。
公爵夫妻へのご挨拶を済ませて会場内を見渡せば、若い男女を中心に招待されているのがわかります。恐らく公爵家の年頃のご令嬢を殿方にお披露目するのが目的、つまり婚活パーティーですね。
「アプシル伯爵だわ、今夜も素敵!」
「お隣にいらっしゃるのはボガート嬢よ、やっぱりあの噂って」
すっごい視線を感じるし、陰口も聞こえます。思わず強張った私を励ますように、エスコートするドリス様の右手が私の左手を強く握りました。
「大丈夫です、ありがとう」
見上げた私に彼が微笑みかけたとき、私たちの周囲が急に薄暗くなって。いえ、そう感じてしまうくらい、たくさんの人が私たちを囲んだだけでした。
「おふたりが恋仲だという噂は本当ですの?」
「え、ええ。まぁ……?」
「でもボガート嬢は婚約を解消されたばかりとお聞きしましたわ」
「そ、そうですね?」
「えーっ! ではおふたりはいつからそのようなご関係でしたの?」
割と直球で聞いてくる! 私、他者に質問するのは得意ですがされるほうは慣れてなくて……。
いつからって、いつからでしょう。ドリス様が本当に一切口を開かないからびっくりしちゃいました。待って、そんな無言でどうやって私の名誉を守るっていうんですか。んもー期待して損した!
「えと、それは」
「確かアプシル伯爵のお部屋で密会されてたとか?」
私が過呼吸になった夜のことでしょう。メイドがきっちり予想通りの仕事をしてくれたようです。
私たちを囲むご令嬢たちは、婚約解消直後に密会するくらいなのだから、ふたりの付き合いはもっと昔からあったはずだと推理しています。そうです、私が浮気をしていたと指摘したいのが見え見えなのです。
ドリス様と事前に打ち合わせをしていなかったせいもあって、なんと答えたらいいのかわかりません。返答に困っていると、ドリス様が私の肩を抱いてぎゅっとご自分のほうへと引き寄せました。温かくて力強い手です。
「あの夜に結婚を申し込みました。意中のご令嬢が自由の身となったのです。すぐにその手をとらなければ僕は生涯後悔したことでしょう」
一瞬の沈黙。私たちを囲む令嬢たちはポカンと口を開けてドリス様を見上げ、彼の言葉をゆっくりと味わっているようでした。
「つ、つまり伯爵が今までどなたとも婚約なさらなかったのは」
誰かが呟くと、ドリス様は教会の天井画にある天使のような笑みを浮かべます。令嬢たちが「きゃー」と黄色い歓声をあげました。
「では、半年を過ぎたら正式に婚約を……?」
そんな言葉にドリス様は力強く頷いて、再び黄色い歓声が。
ついさっきまで、私たちが低俗な行いをしていたことをいかに自白させようか、と躍起になっていたようでしたのに。たった一言で空気が一変してしまいました。なにこれ。
「そうですわよね、アプシル伯爵が不道徳な行いをなさるとは思えませんでしたもの!」
そういうことでしたか!
彼のかつての真面目な生き方に助けられたということです。ドリス様のお人柄のおかげで私の浮気疑惑が払しょくされた……感謝……。
その後さらに男女問わずたくさんの人が集まって来て、ドリス様へ結婚相手の紹介を依頼し始めました。私は人混みに辟易したため、そっと彼の手を離して輪の中から抜け出ることに。
「本当に名誉を守ってもらっちゃったなぁ……あのコミュニケーション能力が羨ましいわ」
人々の興味は「一途なアプシル伯爵」にばかり集まってしまい、私の浮気の噂はもうすっかり忘れてしまったかのようでした。今夜の話がさらに拡散されれば、きっと私の不名誉など消え失せて――。
「ニナってアプシル伯爵と浮気していたの?」
飲み物を求めて部屋の隅へ移動した私の前に現れたのは、アネリーンでした。