第5話 どうして私なのですか
私はアプシル伯爵が一体何を考えているのかサッパリわからず、一先ず呼吸を落ち着けようとお茶を飲みました。冷めてしまっているけれど、ほどほどの渋みと花のように甘い香り。お城で出されるお茶の中でも特に美味しい気がします。
――アプシル伯爵に見初められでもしたらどんなに素敵かしら。
先ほど廊下で聞こえた誰かの言葉が思い出されました。が、そんなことあるわけない、と小さく肩をすくめて馬鹿げた考えを締め出します。
「嫌です」
「バッサリだな」
「え、だってアプシル卿はホラ、変態というか。覗き趣味が」
私が言い終えるよりも先に、彼のほうが両手をぶんぶんと振って否定しました。
「ないないないない、誤解です。夜の庭は思考を深めるのに都合がいいからよく歩くし、偶然あれに行き当たってしまったというだけですよ。貴女もそうでしょう?」
「それはそうですけど。……とにかく。ずいぶんと奇天烈なお申し出ですわ」
「でもお互いに利益がある話だと思いませんか」
「利益ですか?」
彼はデータを見て家と家とを結びつけるのが得意な方です。両親と彼が話をするところも見ていますし、もしかして我がボガート伯爵家の活用方法でも思いついたのでしょうか。私にはさっぱりわからないけれど。
「僕は女性除けができて、貴女は結婚ができる。互いの利益のための結婚は貴族の得意とするところでしょう」
「私は女性としてみなされてない……?」
「あははは! すみません、語弊があったな。僕の意に沿わない女性、と言い換えさせてください。最近、陛下が僕を結婚させようと躍起になっていて困っていたんだ」
「でもなぜ私なんです?」
王様が貴族の婚姻に口を出すなんて聞いたことがないけれど、重用されるアプシル伯爵ならばそういうこともあるのでしょう。
彼はしばし考える素振りを見せ、深く息を吐いてから困ったように眉を下げました。
「それについては、今は聞かないでください。いずれ必ずご説明しますから」
「むむ……。承知いたしました」
これ以上は強く出られないのが貴族の力関係というもの。
それに打算的なことを言えば、アプシル伯爵は性格などはさておき、結婚相手として考え得る最高の人物でもあります。性格などはさておき。
結婚できないかも、という立場の私からすればこれ以上ないお話ですから、なんでもかんでも質問攻めにしないで大人しくしておきましょう。
「これより半年間は恋人、さらに半年から一年ほどの婚約期間を挟んで準備が整い次第、結婚という流れがいいな」
「どんどん決まっていく」
「結婚後の生活で苦労はさせません。ボガート領の収益などを見直すのであれば手伝います」
「至れり尽くせりだ……。え、というか、私の噂もご存じなんですよね? アプシル伯爵の評判を傷つけませんか?」
私の浮気が原因で婚約を解消された、ということになっているわけで。そんな私と結婚なんてしたらアプシル伯爵まで悪く言われてしまいます。
なんなら貞操観念壊滅夫婦とか言われる可能性もあるわけで。
「実のところ婚約の仲介は本業ではないし、幻滅してもらったほうが依頼者が減って助かるくらいですよ。ただ」
「ただ?」
「貴女には女性除けとして社交の場に同行してもらうほか、僕の仕事を手伝ってもらいたい。なに、難しいことではありません。書類の整理と身の回りの整頓、それに僕の話し相手を」
婚約していずれ夫婦となるなら特別おかしな条件ではありませんし、ここまで彼は何も変なことを言っていません。だというのに、なんでしょう、この違和感。
まだ少数とはいえ秘書官など女性の活躍も華々しい昨今、私に仕事を手伝わせるのが目的なら「雇用」という手があります。あえて結婚を選ぶ理由は一体……? アプシル伯爵なら引く手あまたでしょうに。
と、考えたところでハッとしました。そういえば、モニカが何か言っていたような。身分違いの恋か、人妻に懸想しているか。
「……なるほど」
そうでしょう、きっとそうに違いないです。愛していながら、そうと悟られず身を引くだなんて素敵では? どこかの元婚約者とは大違いだわ。
いわゆる政略結婚ではなく、白い結婚を求めるのであれば、私みたいに行くあてのない人間でなくてはなりませんものね。なるほどなるほど。
うんうん、と頷く私にアプシル伯爵はぎゅっと眉根を寄せました。
「何か勘違いしている気がする」
「いいえ、何もおっしゃらないでください。私は誠心誠意、恋人役も妻役も演じ切ってみせますわ!」
「や、普通に恋人であり妻であってくれ」
「そうですね、それくらいの心意気でいないといけませんね!」
両手の拳を力強く握って気合だけは十分にあることをアピールします。
これからずっとヒソヒソされながら一人で生きていくことを思えば、カモフラージュのための偽装結婚であってもありがたいことですから。
「ええ、もういいです、それで」
「差し当たって、私たちが恋仲であると公表する方法を考えないと」
私がそう言うと彼はすらりと長い人差し指を立て、手首を倒して私の背後の扉を指します。
「今頃はもう、お喋りなメイドたちが噂をしているはずだ」
「えっ……!」
「一度『そう』だと判断され、拡散されれば否定も訂正もできない。それが情報化社会ってやつだよ」
「じょうほうかしゃかい」
そっとテーブルの上に置かれたのは、複数の新聞でした。お父様が愛読する堅苦しいものから、貴族の醜聞を好むゴシップ新聞まであります。
「新聞の大衆化は目覚ましいし、鉄道の路線は張り巡らされ、電報事業まで始まった。国家機密などは魔術師の手でより早くより安全にやり取りされるとか。僕たちの熱愛事情も一両日中には誰もが知るところとなるでしょうね」
ラフな言葉と敬語とが混ざるアプシル伯爵の言葉は、私との距離感を測りかねているように感じられます。だけど彼のエメラルドの瞳は柔和な中にもどこか鋭さがあって。……あ、これ、獲物を見つけた捕食者の目だ。
「つまり、もう無かったことにはできないのですね」
「引き返したい?」
扇の裏の嘲笑、アネリーンの狐みたいな目、キェル様のむすっとした口元。どれもこれも、忘れてしまいたいものばかりです。
「……いいえ。私は前を向いていたい」
たとえそれが、妥協の上に立つお飾り婚であっても。
本日はここまで!
続きは明日から1話ずつ更新予定です
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