第45話 一線を飛び越えた代償
沈黙はほんの一瞬。調書を取るペンの音が途切れたそのとき、アネリーンが唇を震わせながら首を横に振りました。
「知らな――わかってた。いえ知らないわ、わかってたけど、違うの、知らない」
私とドリス様、それにノヒト殿下が同時に顔を見合わせます。
どういうことだ、とお互いに表情で問いかけたけれど、答えは出なくて。
「ニナ、もう少し」
もう少し魔力を強く、ということでしょう。
私も首肯してアネリーンへ向き直りました。深呼吸して、魔力をもう少しだけ上乗せして。
「もう一度聞くわ。アネリーンは、広場へ連れて行ったあとに私がどうなるか知ってたの?」
「知らないって、言ってるでしょ。わかってた、違う、知らないんだってば!」
頭を抱えて首を横に振り続ける姿は恐怖さえ覚えるほどで。ただ、魔力を強くしたところで彼女の供述に変化はありません。
ドリス様が私を庇うように身を乗り出しました。
「質問を変えようか。君は依頼者から、ニナの扱いについては聞かされなかった、ということだね?」
「ええ。ええ、そうよ。あたしは何も言われなかった」
「だけど、どうなるのかはわかっていた?」
「他人を使って貴族令嬢をおびき寄せる人間の考えることなんてわかるでしょ……!」
「そりゃそうだわな」
乱暴に立ち上がったノヒト殿下が、やっぱり乱暴に椅子をどかして私たちに背を向けます。
「つまんねぇクソ女だな」
「ひ、ひどいわ!」
「うるせぇな。ヤクサナだったら首吊り刑だぞ、お前」
顔だけで振り返った彼は表情の抜け落ちた、けれど瞳だけは凍えそうなほどの冷たさで、それだけ言って尋問室を出て行きました。
アネリーンは自分の身体を搔き抱くようにして、ガタガタと震え始めました。
「こ、この国はそんな、そんな野蛮なことしない、しませんよねぇっ?」
「靴磨きの少年が同じ立場に立ったなら、死刑とまではいかなかっただろうね」
「あた、あたしも靴磨きの子どもと同じ平民ですっ!」
「いいや、未必の故意だ」
「みひ……?」
「靴磨きの少年は貴族令嬢を呼び出したからと言って、その令嬢がどうなるかを知りはしないだろうね。だけど君は理解していた。理解した上で実行に移した。ニナが酷い目に遭うことを理解し、そうなっても構わないと思って彼女を広場へ連れ出した、という意味だ」
知らない、とでも言いたげにアネリーンが首を横に振りますが……もう自供してしまっていますからね。
「いやよ、あたし、そんなつもりじゃ」
「ではどんなつもりで――いや、聞く意味もないか。貴族なら斬首だったろうけど、平民なら我が国でも首吊りだよ。野蛮な、ね。さあ行こう、ニナ」
ドリス様はそう言いながら立ち上がって、さらに私に手を差し伸べました。私はその大きく力強い手をとり、静かに席を立ちます。
「私ね、アネリーンにずっと……なぜ私の嫌がることをするのって聞いてみたかったの。何か誤解があって嫌われているんじゃないかと思って。話せばもう少しだけでも仲良くなれるかもしれないから」
「え? ええ、そうよ仲良くなりましょう、ニナ!」
「いいえ、もう遅いの。アネリーン、あなたは一線を軽々と踏み越えてしまったのよ」
貴族令嬢が誘拐されたらどうなるか、彼女はちゃんと理解していたのだものね。
純潔を汚されたり、あるいは娼館などに売られたりすると聞きます。私の場合は、ダノーギ子爵がそんな浅ましい考えを持っていなかったことや、すぐに助けてもらえたことなど幸運が重なったから無事だったけれど。それは結果論にすぎませんから。
ドリス様に促され、尋問室を出ようとアネリーンに背を向けます。
「ニナ待って、あたしを助けて、助けなさいよ!」
「行こう、ニナ」
金切り声をあげるアネリーンを振り返らないよう、ドリス様がそっと背中を押してくれました。
背後で扉の閉まる音がして、彼女の叫び声が小さくなります。
「これで……よかったんですよね」
「ああ。立派だったよ。でも結局ニナに悲しい思いをさせることになって申し訳ない」
「いいえ、ドリス様が謝るようなことではありません」
ドリス様は客室まで送ると申し出てくれたけれど、私はそれを固辞してひとり客室へと向かいました。
ダノーギ子爵の残党がいたら狙われかねないという理由から、私は数日の間だけこの城で過ごすことになっています。そろそろローザが来てくれる頃だと思うのですが――。
私がお借りしている客室の前に背の高い男性が立っていて、私は足を止めました。
「よぉ」
「ノヒト殿下、どうなさいましたか」
「腹が立って途中で出ちまったから、大丈夫だったかなと思って」
「ふふ、大丈夫です。ありがとうございます」
ばつが悪そうに頬をポリポリと掻く彼に、私は思わず笑ってしまって。というか、きっと少しだけホッとしたんだと思います。私よりも静かにアネリーンを突き放すドリス様と、私よりも激しく怒ってくれるノヒト殿下の存在が、私の心を保ってくれるんだなと。
「少し話せるか」
「ええ。それではメイドを呼んで――」
「お嬢様ぁっ!」
「ぐぇ。 ちょ、と。ローザ、苦しい」
後ろからぎゅっと締め付けるのはローザでした。
「ご無事でよかったぁー!」
「いま無事じゃなくなりそうなのだけど!」
私の声が届いていないローザをノヒト殿下に引き剝がしてもらい、私たちは客室へと入ります。室内には数日分の私の荷物が運び込まれていましたが、片付けるのは後回しですね。
ローザにお茶を用意してもらいながら、私とノヒト殿下は向かい合ってソファーへ腰掛けたのでした。




