第42話 路地の向こうで
路地を飛び出そうとした私の勢いは、手を掴まれたことですっかり背中側に向いてしまいました。ぐんと引っ張られてバランスを崩し、視界がぐるりと回転します。
「きゃ……っ」
「ニナッ!」
私の名を呼ぶのはドリス様の声です。まだ頭打ってないのに幻聴が聞こえるなんて。
けれど倒れかけた身体は温かい腕に支えられ、さらにふわりと抱え上げられたのでした。
「無事でよかった、ニナ」
「ドリス様……?」
腕の中で顔を上げると、ブロンドが月明かりを受けてキラキラ輝いていました。エメラルドの瞳は少しだけ悲しそう。でも、幻聴じゃない。幻覚じゃない。
「ドリス様、ドリス様!」
「ああ、怖かったね。もう大丈夫だから」
力の限り彼に抱き着いて、幻じゃないことを確かめます。ドリス様は子どもをあやすように私の背を軽く叩きながら「大丈夫」と繰り返しました。
路地に入り込んでいた追っ手の人たちは「戻れ」とか「逃げろ」とか言いながら、元来たほうへと走って行きます。が、向こう側にもドリス様のお仲間が待ち構えていたみたいで、怒号や戦闘音などが響き渡りました。
「少しここで待っていて」
ドリス様は私を下ろし、騎士をふたり残して路地へと入って行きます。誰ひとり逃がすつもりはないということですね。
でもこれでひと安心でしょうか。ここが片付いたら、宿屋へ戻ってダノーギ子爵を捕縛して……と考えていた矢先。私の左手側にいた騎士さんが突然後方へと吹き飛んだのです。
「え……っ?」
「あなたはわたしの交渉カードだと言ったろうに。どこへ行こうと言うのかね」
「ダノーギ子爵……」
護衛を連れて悠然と歩く彼は、自分に危機が迫っているとは微塵も感じていないようでした。いえ、実際脅威だとは思っていないのかも。だって――。
「ドリス様……っ、ドリス様っ!」
私が助けを求めて声をあげるのと、ダノーギ子爵の連れていた護衛のひとりが一気に距離を縮めるのとは同時で。しかも私の右手側にいた騎士さんも後方へと吹き飛んでしまったのです。
やはり魔術師を多く擁するヤクサナは強い。このまま私が敵の手に落ちたら、ドリス様の足を引っ張ってしまうわ……! ってわかっていても身体が動くはずもなく。
すぐそばに来た男……あ、この黒髪の人はさっき私の部屋にいた人です。その黒髪の彼は、私を捕まえようと手を伸ばし、しかしすぐに引っ込めました。そのまま飛ぶように大きく一歩後退したとき、私と彼の間を炎の塊が走り抜けたのです。
「ニナにはもう指一本触れさせませんよ、ダノーギ子爵」
「ドリス様……!」
路地から出て来たドリス様が私を背に隠しました。
先ほど吹き飛ばされた騎士ふたりも起き上がって私を守るように立ちます。
「誰かと思えば君か、ドリス・リッダー。列車はもう動いていないはずだ。それになぜ我々がここにとどまっているとわかった?」
「ニナを守るのに列車ひとつ動かせずにどうします。我が国の列車乗務員は優秀で怪しい荷物はチェックしているし、今のご時世そういう情報は秘匿できないんですよ」
「ふん。それで勝ったつもりかね? 魔術もろくに使えん騎士では守り切れんよ」
「ええ、勝ったつもり……いえ、つもりですらなく、勝ちですね」
そう言いながら、彼は背後を顎で指し示しました。ダノーギ子爵は片方の眉をあげ、黒髪の護衛さんが勢いよく後方を振り返ります。
なんと、いつの間にかダノーギ子爵たちの後方に、我が国の騎士隊の制服を着た一団が待ち構えていたのです。一団の中心で馬にまたがる人物が声をあげました。
「よぉ、久しいなダノーギ! すっかり悪い顔になっちまって」
「……ノヒト殿下。裏切り者がよくもまぁのこのこと」
「あははは! 国を裏切ったのはお前だろ」
「国は裏切ったかもしれないが、あなた様を裏切ってはいないんですよ。ああ、よければ一緒にシカードへ行きませんか、我々の悲願を叶えるために」
「悲願……?」
ノヒト殿下の声が探るように低くなります。
ドリス様や我が国の騎士たちは警戒しながらも、ふたりのやり取りを見守っているようです。あのふたりには共通の願いがあったのでしょうか。だから手を組んでいた? 以前ノヒト殿下の取り調べをした際にそんな話はなかったけれど、質問の仕方が悪かったのかしら。
「そうです。強く、何度も、祈り願ったのではないですか? 魔力が欲しいと」
驚いて言葉を失くしてしまった様子のノヒト殿下。
でもダノーギ子爵の言葉にハッとしたのは彼だけではありません。宿で聞いたダノーギ子爵のお話を思い返せば、つまり――。
「非魔術師に魔力を与える研究、ですか……?」
「そうだ。どこかの劣等国が己の利益を追求するばかりで顧みもしなかった、真に人々の幸福を追求する研究だよ」
口をついて出た私の言葉に、ダノーギ子爵が大きく頷きます。
「まさかシカードがその研究を進めると? あなたはそのために彼らと手を結んだのですか」
「その通り。これ以上のいい話はないだろう? ……いかがですかな、殿下?」
言いながら、ダノーギ子爵はノヒト殿下を振り返りました。
確かにノヒト殿下は魔力がないことで、辛い思いをしたこともあったと聞いています。後天的に魔力が得られるのなら、それは彼にとってとても魅力的な誘いかもしれません。
だけど、ここでノヒト殿下に寝返られると困ってしまいます! よく見ればヤクサナの制服をまとった騎士の姿もありますし、彼らがダノーギ子爵側につくと戦力は互角か……どんな理由であれノヒト殿下は死なせるわけにいかない以上、こちらが不利ですもの。
「俺さ、目の色が王族らしくねぇことはもう受け入れてんだ。まぁこの青い目は気に入ってるしな。ただ、魔力はなぁ。ヤクサナにいる限りずっと劣等感がついてまわるんだよな」
おっと。雲行きがあやしくなってきましたね?




