第41話 暗い路地に希望はありますか
ダノーギ子爵が部屋を出て行くと、護衛と思われた男性がそっと窓から離れ、私が入れられていた箱を片付け始めました。まずは蓋や抜いた釘を部屋の外へ。
この部屋は私が使っていいのでしょうか。やっぱり待遇は悪くない……。そう思いながら邪魔にならないよう窓辺へ向かいます。彼は何を見ていたのかしら、って。
「あれは……」
窓の下には洗濯物が干せるような小さな庭がありました。木陰になって見えづらいですが、奥には従業員が使うのであろう裏木戸も。逃げるならあの裏口かしら、とは思うのですが……木戸のそばには男がひとり立っています。彼は見張りでしょうか。そわそわと建物の中を気にしている様子で、見張りというには気もそぞろですが。
すぐそばに人の気配がしたかと思うと、微かに舌打ちの音が聞こえました。
「ちっ。あいつはほんとに……」
蓋をどこかに置いて来た男の人が、私の傍らから同じように窓の下を覗いていたのです。
直感という他ないですが、私はあのそわそわした男の人が警備の穴になるような気がして、様子を探ることにしました。
「彼は何を気にしているのでしょう?」
「え? ……ああ、下の飲み屋の姉ちゃんに惚れたんだと。メイディちゃんって言ったかな、一目惚れだとか言ってずっとあの調子なんだよ」
ほんのり魔力を乗せた私の言葉に、目の前の護衛さんは首を傾げつつ答えてくれます。
メイディちゃん。偏見ですけどすっごく胸元ふくよかそうな名前!
「メイディさんとお話ししたいでしょうに、彼は今夜中ずっとあそこに?」
「いや、あと二時間で交代だよ。その頃にメイディちゃんがいるかは知らないけど」
「会えるといいですね」
「どうだかな。じゃ、そういうことで。明日は朝イチで出発だ。部屋の前で見張ってるから逃げられると思うなよ」
護衛さんは軽く右手をあげて部屋を出て行こうとしました。
私は慌ててそれを呼び止めます。
「あの! その飲み屋さんのでもいいんですけど、着替えをお借りできませんか。このドレスでは寝られませんもの」
「あー。そうだな」
そう言って持って来てくれたのは、市井のお嬢さんたちがよく着ているごく普通のワンピースでした。丈はドレスよりわずかに短いけれど、くるぶしはギリギリ隠れそう。淑女としてそこは大事ですからね!
問題は胸元が少し、そうほんの少しばかりゆとりがあること! グギギ。
着替えてドレスの腰ひもで髪を結び、ベッドシーツを裂いて結んで準備は万端です。もうすぐ交代の時間ですから、その前に動き出さないと。
音を立てないように棚をドアの前に移動させてからそっと窓を開け、ベッドにくくりつけたシーツの一端を下げます。この部屋は二階だし、怪我しない程度の高さまで降りられればそれでよし。
木陰を利用して静かにゆっくり下りました。といっても多少の物音は防ぎようがありません。耳を澄ませてみれば部屋の外が少し騒がしい気がします。もう気付かれたかもしれない。急がなくちゃ。深呼吸して、木戸のほうへ。
「今夜、ここは出入り禁止だ」
「あなたがメイディのいい人?」
「え、メイディちゃんが? いいひとって……?」
「メイディが『かわいい人がいるの』って言ってたわ。もうすぐ仕事が終わるから、あっちで待っててほしいって言ってたけど」
「ほ、ほんとかいっ」
箱入り娘の状態で運ばれていた私の顔を、彼は覚えていないはずです。
見張りの彼はそんな適当な言葉に顔を赤くさせ、踊るように私の指が示す方向へと駆け出して行きました。一瞬だけ私の部屋の方向へ視線を巡らせたけれど、お花畑状態の彼には全開の窓もそこから垂れ下がるロープ状のシーツにも気付かなかったみたい。
もし尻尾があれば大きくブンブン振ってそうな後ろ姿に小さく舌を出して、私は木戸に手を掛けました。そのとき。
「いたぞ! 裏だ、裏にまわれ!」
やば。もう見つかってしまいました。
慌てて木戸を開けて外へと出ます。土地鑑のない場所で、周囲はすっかり暗くて。月明かりとまばらな街灯を頼りに走りました。
誰かに助けを求めようと人がたくさんいるところを目指して走ったつもりが、誰もいないんですけど?
や、いるにはいるっぽいんですけど、店の中っていうか外を歩いてる人がいなくて。さらにお店も少なくて、次にお店を見つけたら飛び込むぞって思いながら走ってるのに、お店はどこですか!
私を追う男たちの声はすぐ背後にまで迫っています。
けれど前方からも複数の足音が聞こえて、つい走る足を止めてしまいました。だって、これから食事を楽しもうとか楽しんできたばかりとか、そういう朗らかな雰囲気ではないんです。急ぐような足音に、誰かを捜すような声。どう考えても後ろの人たちの仲間じゃないですか!
右を見て左を見て、とても狭い路地を発見しました。狭すぎて月明かりさえ届かないけれど、路地を抜ければきっと民家の明かりくらいはあるはず。なんなら暗がりに身を隠しながら逃げればいいし、暗いところは危険だと聞くけれど逃げるならこちらに行くしかありません。
「きゃぁ!」
ええい、ままよ! と路地に飛び込もうとした私の手を、追っ手の誰かが掴もうとしました。触れはしたけれど運良くそれを回避し、細く暗い道へ。
左手側、つまり先ほどまで私の前方にあった方角では私の叫び声を聞きつけて、にわかにざわつき始めました。
「あっちだ!」
「回り込めるか?」
そんな不穏な声が聞こえてきますが、もう後戻りはできません。背後の追っ手は道の狭さに四苦八苦してペースを落としてはいるものの、きっちりついて来ています。
もう本当にいつ捕まってもおかしくない状況で、路地の終わりは目の前で。
「このあたりだ!」
路地の先から聞こえる声に泣きそうになりながら、僅かな希望に手をのばすがごとく路地を飛び出したとき。今度こそ確実にしっかりと、私の手は背後の男に捕らえられたのでした。




