第4話 二度目まして、結婚してください
モニカが婚約者とダンスを始め、レーアさまがご両親に呼ばれて。ひとりぼっちになった私は壁の花どころか目立たない壁の染みを目指したのですが、だめでした。こちらをチラチラ見ては扇でお顔を隠す人や、聞こえよがしに悪口を言う人までいるのです。
その上キェル様の姿まで見えたため、そそくさと休憩室に逃げたのが少し前のこと。大体ダンス三曲分くらいかしら。
お茶を飲んで、気持ちを落ち着けてから休憩室を出たものの本当に気が重い。だってできれば会場に戻りたくないし、とはいえ両親に黙って帰るわけにもいきませんし。
脚をひきずるように会場へ続く廊下を進むと、曲がり角の向こうから女性の声が聞こえてきました。
「アプシル伯爵はどちらに行かれたのかしら、身上書を受け取っていただきたかったのに」
「あたくしもですわ。でもお相手をご紹介いただくのではなくて、その場でアプシル伯爵に見初められでもしたらどんなに素敵かしらと」
「ふふっ、もしそうなったら運命的ですわね」
「でしょう? ……両親に言われて身上書を持って来たのはいいけれど、政略結婚だなんていつ浮気されるかわからないではありませんか。できればやっぱり愛のある結婚を――」
彼女たちの言う「浮気」が私のことを指しているような気がして、あまりの居心地の悪さに首の後ろがモゾモゾします。
私は彼女たちから逃げるようにして反対方向、つまり会場から遠ざかる方へと走りました。ひとまず庭に避難するしかなさそうです。
王城の庭はまだあの日の記憶が生々しく、奥へ進むほどに胃を締め付けます。お酒を飲みすぎたせいだと言い聞かせつつも、せめてあの日とは違う方へ行こうと薔薇園を目指して歩き出しましたら。
「そちらには行かないほうがいい」
「え」
暗がりから突然男性の声が。声の主を探してみれば、戦神の像のそばに背の高い男性がいました。どこかで聞いたことのある声だと思ったけれど、案の定それはアプシル伯爵で。
「うわぁ」
「覗きの趣味があるのなら止めないけれど」
「な、ありませんわ! 貴方じゃあるまいし――」
私がそう答えるのと、進行方向から「んっ」と甘い声が聞こえて来たのはほとんど同時でした。アネリーンの声のような気がするし、そうじゃないような気もする。どちらにせよ、私の頭にはあの夜の一部始終が浮かび上がって来ます。
喉の奥からヒュッと変な音が漏れて、急に息ができなくなって。まるで呼吸の仕方を忘れてしまったみたいに苦しい……!
「落ち着いて!」
カハッと喘ぐ私をアプシル伯爵が抱きしめました。
ただただ空気がほしくて彼のジャケットを強く握りしめます。
「大丈夫だから。ゆっくり吸って、そう、その後はもっとゆーっくり吐くんだ」
耳元で低い声がしました。ふわっと香るムスクと心地よい声、それに背中を撫でる温かな手が私の心を次第に落ち着けていきます。
彼の言葉に従って息を吸ったり吐いたりする中、ヒッと引きつる回数も少しずつ減って。
「……少しは落ち着いた?」
頷きながら彼の腕から出ると、彼のジャケットは涙と白粉で少し汚れていました。
「あっ、その、ごめんなさい!」
汚れを指さしながらハンカチを差し出すと、彼は受け取ったハンカチで私の目元を慎重に拭います。
「過呼吸だ。まだ苦しいでしょう」
「……少しだけ」
言われてみれば確かにまだどこか苦しい。まるで激しいダンスを踊った直後のように荒いし、呼吸を整えようと深く吸えば苦しくなって咳き込んで。
さらに庭の奥からは甘い声が再び聞こえてきて、アプシル伯爵は目にも留まらぬ早さで私の手を掴み歩き出しました。
「ひとまず場所を移動しようか」
そう言って彼に連れて来られたのは王城の一角にある落ち着いた雰囲気のお部屋でした。誰かの執務室といった風情ですが、アプシル伯爵は勝手知ったる様子で内扉から隣室へと向かいます。
直後、ノックと同時にメイドがふたりほど入って来て、乱れた私の髪やドレスを手早く直してくれました。
アプシル伯爵が隣室から戻って来たのは、メイドが部屋を出て行って少ししてから。先ほどとは違った装いですので着替えをしたのは一目瞭然です。
「着替えの用意があったのですか」
「少しだけ。この部屋は陛下に用意してもらった僕の私室なので」
「なるほど……」
思っていた以上に重用されていました。びっくり。本当に「買い」なんですね、この人。……悪趣味な変態でなければ。そうだ、変態だった。
……変態だけど、でも。
「ありがとうございました。何から何までお世話になって……あ、あれ? ごめんなさい、私」
言いながら、急にボロボロと涙が。
強がりにも限界ってあるんですね。婚約を解消され、あらぬ噂を流されて。酷く取り乱したあげくに見知らぬ人に多大な迷惑をかけて。こんなにみじめなことってありますか。
「好きなだけ泣いていいですよ。ここには誰もいないから」
アプシル伯爵の声が静かで優しくて、私は思うままにたくさん泣きました。
それからどれほどの時間が経ったでしょう。そんなに長くはないと思うけれど。自分のハンカチだけでは足りなくて、彼にハンカチをお借りした頃になってやっとおさまりました。先ほど香ったのと同じムスクが私を落ち着けてくれたのです。
「ありがとうございました……」
「落ち着いたようでよかった。二度目ましてですね、ボガート伯爵令嬢」
「あっ――」
名前を知られていたことに驚くのと同時に、これだけ失礼なことをしておきながらご挨拶さえまともにしていないことを思い出したのです。
慌てて席を立ち、淑女の礼をとりました。
「し、失礼いたしました! ボガート伯爵が次子ニナでございます。本日は度重なる無礼を働いたにもかかわらず――」
「あはは、丁寧にありがとう。もう知ってるみたいだけど僕はドリス・リッダーです。そうかしこまらないで、できれば自然にしてほしい」
「恐れ入ります」
などと言われて、はいそうですかというわけにいかないのが貴族社会です。
が、ひとまずは彼に促されるままソファーへと座り直しました。
「貴女を取り巻く状況については承知しているよ。大変でしたね」
「お耳が早いですね……」
「それも仕事のうちだからね。それで提案なのですが」
一度言葉をきったアプシル伯爵はゆったりと紅茶を飲み、もったいつけているのか言葉を選んでいるのか、たっぷりと時間をかけてから口を開きます。
「僕と結婚してほしい。結婚を前提に今この瞬間から恋人になっていただきたいのです」
「は?」
窓の外ではあの夜と同様花火が打ちあがりました。明滅する部屋の中で、ドリス様は妖艶な笑みを浮かべていらっしゃったのでした。