第34話 初めてのあれ
小さなお茶会を終えて出て行こうとしたローザが、ニッコニコの笑顔で戻って来ました。しかも背後にドリス様を引き連れて!
今はまだ彼にお会いする心の準備ができてないのに……。
「お嬢様、アプシル卿がいらっしゃいました。すぐにお茶を淹れ直し――」
「いや、お茶はあとにしよう。ニナ、少し出られるかい?」
「え? あ、はい。もちろんです。ローザ、ショールを準備してもらえる?」
少し急いだ様子のドリス様。もしかしてまだ私の魔法が必要だったでしょうか。最初にリストアップした質問事項は概ね聞き終えたと思うのだけど。
石造りの城塞は部屋を一歩出るだけでとても寒くて、殿下のお部屋にたどり着く前に凍えてしまいますからね。ぶ厚いショールをぐるぐるに巻かれて外へとでました。
ドリス様は私の手を引いて急ぎ足で歩を進めます。でもなんだか様子がおかしい。
「あの、殿下のお部屋はこちらでは――」
「殿下? ハハ、目的地は上だよ」
「上……?」
少しだけ首を傾げたドリス様が、真上を指差して笑いました。
彼に導かれるままについて行って、階段をぐんぐん上る頃になって少しわかった気がします。屋上に向かってるんだわ……!
「屋上、に、何が、あるんです、か」
昨夜も同じように上ったはずだけれど、今日は急ぎ足だからか息切れが激しいです。何をそんなに急いでいるのかしら。
予想通りに最上階からさらに細い階段で上へ。ドリス様が重たい鉄扉を開けて屋上へと導きます。
「わぁ……っ!」
西の空に太陽が沈んでいくところでした。赤い水平線に紫色の空と雪原、振り返って東側は濃紺の空に宝石のような星々が輝いています。
「綺麗」
そうとしか言いようがなくて、ボキャブラリーの貧困を嘆きつつも夜が浸食する様子を食い入るように見つめました。
「さっきはもっと真っ赤だったんだ」
「それを見せてくれようと? すごく急いでいらしたから大変なことが起きたのかと。ふふ、でもこれが見られてよかった」
お礼を言おうとドリス様を仰ぐと、彼は夕日なんてまるで見ていなくて。
「あ、と、ドリス様……? 」
「綺麗だ」
「そ、そうですね?」
「ニナが、だよ。この夕日を見たらどんな反応をするか考えてた。君はすごく素直で思ったままを口にするから」
「えっ、突然の悪口」
びっくりした。まさかこのシチュエーションで悪口が出て来ることあります?
でもドリス様は「クハハ」と吹き出すように笑って首を横に振ります。
「違う、そこが好きなんだよ。君の発言はいつだって自由で、時として身分さえ飛び越えてしまう」
「やっぱ悪口だ」
「褒めてるんだよ。言ったろ、僕は自分の言葉が形も意味も変えてしまう社会に嫌気がさしたって」
今日は大変なことがあったから遠い記憶になりつつあるけれど、昨夜のことですね。
人々の口を渡るたびに形と意味を変えた彼の言葉が、ついに大切な人を傷つけてしまったと……そう言って彼は人前では無口でいることを選んだのだと言っていました。
ちゃんと覚えているよという意味をこめて頷くと、彼は紫色の雪原に視線を走らせながら話を続けます。
「君の言葉は真っ直ぐだから、そのままの形を保つらしい。勘違いされることはあっても、裏の意味を邪推されることはない。最初、僕はそれに憧れたんだ」
「あこがれ」
「アネリーン嬢にブレスレットを盗まれたときから君を見ていたと言ったよね」
「観察しろと陛下から言われたとか」
十年は経たないと思いますが、当時の私はまだ成人さえ迎えない子どもで、ドリス様は注目の若手実業家だった頃ですね。裏ではすでに陛下の影として動いていらしたそうですが。
「君は最近まで自分が魔術師であることに気付いていなかった。つまり言い換えれば君は周囲の人間に、正直であることを強要していたんだよね」
「トラウマです……本当に申し訳ないことをしてきたと」
「人々に言いたくないことさえ言わせていたのに、君は愛され続けていた。君と君の周りには嘘も虚栄もなくて……僕がそれにどれだけ焦がれたかわかるかな」
風が吹いて雪原の雪が舞います。冷たい風が首筋のわずかな隙間から入り込む気がして、ショールをむぎゅっと締め付けるように引っ張りました。
太陽はすっかりその姿を隠し、地平線がわずかに温もりを残すばかり。夜はもうすぐそこにあって、私たちは惜しむように地平線を見つめます。
「いつの間にか任務なんか関係なく君を目で追うようになっていた。キェルがやらかしたときには拳を振り上げて喜んだくらいだ」
「そんな姿、全然想像がつかないですね」
「実は君が僕を信じてないことには気付いてた」
「えぇ……?」
「無条件に人を信じていた君は、真実を知る術を得て逆に疑うことを覚えてしまったよね。ほぼ同時期に友人や婚約者に裏切られたんだからそれも仕方のないことだけど」
彼はまだ地平線を見つめたまま。なんだかそれが寂しくて、こっちを見てほしくて、ほんの少し大きな声で彼を呼びました。
「ド、ドリス様は! 結婚が絶望的だった私に伯爵夫人の地位を与える代わりに、能力を活用してほしいって、そう言いましたよね。私、それはちゃんと信じてましたし」
こちらを向いた彼の髪が風にさらわれて、ブロンドが沈みきった太陽の代わりみたいに光ります。
「ニナを好きだと言ったはずなのに、そっちは信じてくれてない」
「そ、れは……。だったらもっとなんかこう、ほら!」
「なに?」
口にキスしてくれたっていいじゃないですかって、もっとたくさん好きって言ってくれてもいいじゃないですかって、言えるわけないじゃないですか!
恥ずかしくってどんどんと顔が熱くなって。夜が私の顔色を隠してくれることに感謝です。
「だから、その、もっと、こう」
「もっと?」
「なんでもないです!」
恥ずかしすぎて背を向けてしまった私を、彼は昨日と同じように背後からぎゅっと抱きしめてくれました。昨日と同じはずなのに、昨日とは比べものにならないほど緊張していて。心臓が痛いくらいに早鐘を打っています。
「もっと頻繁に気持ちを伝えるべきだったとは反省してる」
「そ、ですか」
「疑っている人間には言葉で何を言っても意味がないから……と思っていたんだけど。さっき叱られてしまってね」
「だれに――わっ、えっ?」
一体誰がドリス様を叱るっていうのか、と問いたかったのに彼は腕の中で私を振り向かせてしまいました。エメラルドの瞳が真っ直ぐに私を見てる。
「改めて言うからよく聞いて。愛してるよ、ニナ。能力も任務も関係なく、君と一緒に生きていきたい」
「わ、私も愛してます……っ!」
「あはは、初めて言ってもらった」
嬉しそうに笑ったドリス様は私を抱き上げ、その場でくるっと回ったのです。空がキラキラで風が冷たくて、なのに心はポカポカで。
そっと降ろされて、見つめ合った私たちはどちらからともなく顔を近づけました。初めてのキスはすっごく……冷たかった。




