第25話 ひりつく時間
間違いなく犬でした。いえ、狼でしょうか。どちらにせよ信じられない大きさです。だって体高が私の身長くらいありそうなんですから。人間の子どもなら一飲みにできてしまいそう。
護衛たちの叫びでそれがシルバードッグであると理解するのと、そのシルバードッグと目が合ってしまうのが同時で。ほんの一瞬、姿勢を低くしたかと思うと巨体が大きく跳躍したのです。
動けない。まるで固まってしまったみたいに私の足は動きません。魔獣の大きな口はパッカリと開いて鋭い牙が見えています。でろでろの涎が糸を引きながらこぼれ落ちて。ああ、私はここで死んでしまうんだわ、って――。
「ニナ!」
私の視界はすべてがゆっくりに見えました。護衛がひとり走って来て、隣にいたはずのノヒト殿下に覆い被さります。兵士たちは他にも何人か走りながら、シルバードッグの前に立ちふさがろうとしている。そこで私の視界は塞がれ、巨大な魔獣の一連の動きを見ることはできませんでした。
最後に見えたのはシルバードッグを指差すドリス様の姿。直後に指を鳴らす乾いた音がして、私は「ギャンッ」というシルバードッグの悲鳴を聞きながらドリス様に抱きかかえられたのです。
「ド、ドリス様」
「大丈夫、怖くない……よっと!」
彼は私を抱えたまま大きく飛んで走ります。必死に掴まりながら後方を見れば、小型のシルバードッグが私たちの元いた場所で歯を剝き出しにして唸っていました。兵士数人がそれを囲み、さらにその脇をノヒト殿下が護衛とともに通り抜けようとしています。
私はドリス様に抱えられたまま火のそばへとやって来ました。
その間にもキャンプの準備をしていた兵たちが、それぞれに武器をとって応戦。魔法を使う者、剣を振る者いろいろですが……。
「ていうか、いま魔法使っ――」
「シッ。気づかれてないから問題ない」
イタズラっ子みたいな顔で片目をパチっとつぶって見せた彼。それでも何かあればすぐに対応できるようにか、私を抱えたままで常に周囲を警戒しています。
離れた場所にいくつも赤い目が光っていますし、群れは森に帰らず機を窺っていたのでしょう。あの大型の出没地点からして、怪我をしたバイソン、つまり獲物を取り返そうとしのたかもしれません。
じゃあどうして私が狙われたのかしら、と思ったら急に恐ろしくなって、私の身体がガチガチと震え始めました。
「怖い? 僕にしっかり掴まっておいて」
「はい……っ」
震えを止めようと思ったわけではないけれど、彼の身体にしがみつく手は自然と力んでしまいます。そこへノヒト殿下が護衛を数人連れてやってきて、私たちはまとめて警護されることとなりました。
「まさかお前が身体を張ってニナを助けるとは思わなかった」
「愛する婚約者ひとり守れなくてどうします」
本当になんでこの人たちはいつもこんなにけんか腰なんでしょうか。
ノヒト殿下はつまらなさそうに護衛たちの動きを見て肩をすくめます。
「ヤクサナの兵はあんなに弱かったか? シルバードッグごときに時間をかけ過ぎだ」
「こんなにも雪深いのでは大変でしょう、ままならないのも致し方無いことかと」
「雪国の兵が雪で動けねぇとは笑わせる」
「ヤクサナの中でもここまでの積雪があるのは珍しいほうでございましょう。しかもあのシルバードッグ、あれほどの大きさは過去にないのではないですか?」
「……お前、無口だと聞いていたがよく喋る」
言われてみれば、と私もハッとしました。出会ってから半年と少しが経ちますが、人前でこれだけ饒舌になったドリス様は見たことがありません。
返事をしないドリス様に、ノヒト殿下が続けます。
「隠し事があるヤツはよく喋るって言うけどなぁ」
「ご自身のことです?」
「言ってろ」
そんな二人のひりつくような会話も、シルバードッグの断末魔の叫びによって掻き消され辺りがシンと静かになりました。
「本物のボスがアレだったわけだ。今度こそ終わりだな」
そう呟くノヒト殿下の元に、応戦していた兵のひとりが駆け寄って事態の収束を告げます。
「シルバードッグの討伐を確認、生存個体もすべて森へ退避したことを確認しました」
「一歩間違えば俺もニナも死ぬところだったんだぞ。ったく、言いてぇことはいろいろあるが……まぁいい。まずは被害状況を確認しつつ休め」
消えろと言わんばかりにノヒト殿下が手を振ると、兵は拳を胸にあてるヤクサナ風の敬礼をしてまたシルバードッグの死骸へと戻って行きました。
その後ローザの無事も確認し、温かなお茶を飲みながら替えのバイソンが到着するのを待ちます。結局、城塞へと再出発したのはすっかり日が落ちてしまってからでした。
それぞれの客室に案内してもらい、旅の疲れを癒すべく暖炉の前でのんびりしているとドリス様がいらっしゃいました。
「今から施設内を見て回ろうかと思うんだけど、一緒にどうかな。疲れてるなら――」
「行きます!」
「元気だね。天気がいいと屋上からの見晴らしが最高だそうだよ」
「雪が降ってますから眺望は期待薄ですね。夜だし」
建物の外に出ることも考慮してコートを羽織ると、早速探検に出発です。
と言っても部外者の入れる部分というのはそう多くありません。バイソンの牧場を見つけてはしゃいだり、プレイルームでカードゲームに興じたり、あるいは食事の用意に忙しくするメイドたちを眺めたり……。
最後に私たちは屋上へとやって来ました。いつの間にか雪がやみ、雲もすっかりなくなっています。澄んだ空に浮かぶ無数の星は眩いばかりです。
「綺麗!」
「そうだね、夜には夜の楽しみ方があるようだ」
いくつかある物見塔には監視の兵が立っていますが、屋上には私たちのほかに誰もいません。交互に吐き出される白い息がなんだか味わいがあって、いつまでも見ていたいような気にさせます。
ずっとこうしていられたらいいのに、なんて考えていたらドリス様がおもむろに口を開きました。
「さっき……」
「はい?」
「いや、ノヒト殿下とどんな話をしていたのかと思ってね」
これが嫉妬から来る言葉だったらどんなにか良かったでしょう。
だけど、彼の鋭い視線はそんなに可愛らしいものでは全然なくて。
「嫉妬ですか」
あ。出ちゃった。