第2話 どうやら私が浮気したらしい
あの悪夢の夜から数日後、私は再び夜会のために王城へとやって来ました。
前回は若手ばかりを集めた小規模なものだったのに対し、今夜は功績をあげた方を称える祝賀パーティーのようなもの。前回よりも多くの参加者がお喋りに花を咲かせています。
そんな中で私は、グラスのワインを煽って飲み干すとすぐ次のワインを手に取りました。
「――っていうわけだったの! 愛し合ってようが、婚約破棄の申し入れをしてようが、あの時点ではまだ私が婚約者だったわけじゃない? そうでしょ、ねぇ」
「それはそうね」
「なんというか……大変でしたね」
親友の侯爵令嬢モニカが頷きます。また、たまたま居合わせただけなのに私の愚痴を聞かされる可哀想な子爵令嬢レーアは、憐憫を乗せた瞳で不安そう。
私とキェル様の婚約は昨日までに全ての手続きを終え、きっちり解消されました。そう、昨日の今日なのです。だというのに私とキェル様の婚約解消については、すでに知らない人はいない状態。おかげであちらこちらから視線や噂話が飛んでくるわけで。
「みんな私のこと遠巻きにしてさ。まるで私が悪いみたいじゃない」
「表向きはこの婚約にメリットがなくなったからってことになってるのよね?」
「そう。婚約当時とは状況が変わったからって。それ自体はあながち嘘でもないんだけど」
キェル様は子爵家のご長男です。銀行の経営がうまくいき、なんやかんやで叙爵された新興の家門。最近はカジノ経営にまで手を広げているせいで、当家の考えと対立するようになっていたのでした。
「根掘り葉掘り問い質されるのが嫌だって、キェル様がよく言ってたの。そのせいかしら? アネリーンは聞くより話すほうが得意だから……。あ、もしかしたら豊かな胸部がよかったのかも……」
「ご自分に原因を求めないほうがよろしいかと思いますわ」
「だって、なんでも質問するのもバカみたいだって彼が言うのよ。この派手な赤毛やピンク目は頭が良くない象徴でしょ、だから余計に」
「ニナは頭悪くないでしょ! ちょっと飲みすぎよ?」
モニカが私の手からグラスを取り上げようとしますが、奪われる前にカパっと飲み干しました。喉元を甘酸っぱくて熱い液体が流れていきます。そして次のグラスへ。
「レーアさまはあんな男に捕まっちゃダメですからね。ねね、どんな殿方がお好きなの? やっぱりキェル様みたいなほっそりした殿方が今の流行りなのかしら」
「ニナ、酔っぱらってるでしょ」
「え……っと、わたしは熊さんみたいな」
「くまさん!」
「やだ恥ずかしい。ニナ様は本当に聞き上手で困ってしまいますわ。こんなこと言いたくなかったですのにぃ!」
言いたくないと言いながら、レーアさまはどんな熊さんがいいか事細かに教えてくれました。身体が大きくて包容力のある男性がいいみたいです。彼女と恋バナをするのは初めてだからちょっと新鮮だわ。
モニカは少し怖い顔を作って私のデコルテのあたりを人差し指でつつきます。
「ひとの心配してる場合じゃないんじゃないの?」
「私はどうせ半年間は壁の花だもの、他のご令嬢の応援をするしか」
我が国の慣例として、婚約解消後は一定の期間をおかなければ新たな婚約を結べません。多分へたな憶測を呼ばないように、ルールにしてしまったんだと思います。
でもいざ当事者になってみると、この半年ルールにはいろいろな意味で助けられている気がします。すぐに次の婚約者を探さなくていいというのが本当に精神衛生上とても良いのです。
「やっぱり知らないのね。半年どころか一生結婚できないかもしれないのに」
「どういうこと?」
「この婚約破棄、あなたが浮気したせいだって噂が流れてるの」
「えぇっ? なにそれ?」
ひどく調子ぱずれな声が出ました。いやびっくりした。そっとレーアさまを見れば、彼女も難しそうなお顔で頷きます。
「詳しくはわからないのですが、キェル様が周囲にそうおっしゃってるとか」
「えぇ……? 浮気したのアッチなのになんで私が!」
「自分たちの行いを隠すためかもね。問題なのは、向こうが言いふらしてるってことは沈静化が見込めないってことよ。これから先ずっと、ことあるごとにこの話を持ち出しそうじゃない?」
「しそう……すっごくしそう!」
「よし、こういうときはお肉よ、お肉」
「あぁん、私のお酒」
私の手からグラスを抜き取ったモニカは、代わりにお肉でできた薔薇が載ったお皿を持たせます。完全にただの現実逃避なのですが、うん、まぁ、お肉も美味しそう。
「特に今日は人も多いし、この刺すような視線はちょっと同情しちゃうわ」
「でしょう? ただの祝賀パーティーにしては……」
モニカは苦笑しながら私のお皿にお肉を追加しました。
「ただの、じゃないの。今夜はあの『仲人伯爵』が主役なのよ」
「仲人? なにそ……わわゎっ」
首を傾げたその瞬間、お皿を持つ私の腕が誰かに引っ張られて。待って、お肉が落ちる!
「ニナ、ごめんなさい!」
「アネリーン……」
まさかのアネリーンでした。
彼女の手から自分の腕を引き抜き、お皿を傾けて端に偏ったお肉を救助します。
アネリーンは胸の前で両手を組み、潤ませた瞳で上目遣いにこちらを見上げました。私より背が高いアネリーンから見上げられるこの違和感よ……。
「あのね、あたしはニナのこと傷つけたくないから諦めるって言ったの。だけどキェル様が、それは全員が悲しみに暮れるだけだよって。だから一緒にニナに謝ろうって言ってくれて、それで」
と小声ながら早口に訴えるのです。一緒に謝ろうって言ってたならどうぞ今すぐ謝って、と思うわけですが。
私たちがどんな話をしているか聞こえないせいでしょうか、周りから伝わる声や視線は「浮気者のニナにも変わらず接する優しくて可愛いアネリーン」を称えるものばかり。
「そのことはもういいの。アネリーンが気に病む必要はないわ」
そう、本当にもういいの。だってそもそも私とキェル様の婚約に歪みが生じてたのは確かだし、浮気男なんて願い下げだし。この狭い世界で今後もこのふたりと付き合っていかないといけないことのほうが苦痛だわ。
「ありがとう、ニナ! あたし、ニナとこれから先ずっとお話できないかもしれないって思ってたから嬉しい!」
アネリーンは涙を滲ませたままニコリと笑い、大きく腕を広げて私をハグしました。聖女のように優しい彼女を称賛する空気が醸成されていくのを感じます。さすが世渡り上手……。だけど。
私はパっと身体を離し、アネリーンの肩を両手で掴みます。
「ね、それより。婚約解消が私の浮気のせいだって噂が――」
「えっ! ニナが浮気してたのっ?」
アネリーンは今までと打って変わって、周囲にも聞こえるくらいのボリュームの声をあげました。