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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

蛇ガ惚レタ、一輪ノネリネ

作者: 桜宮朧

桜宮です。


愛者永遠とは全く関係ない、私用で書いた作品です。

少し長いですが短編です。

胸くそ注意な部分はありますが、最後までお楽しみください。

【大正末期】

いつもの珈琲の匂いが漂う喫茶店。そろそろここの味にも飽きてきた。けど、外見がきれーだから女の子との待ち合わせはここって決めてる。慣れない味を舌に沁みつかせた後、胸ポッケに入れてあった手帳を手に取り開いた。

「きょーはこの子かぁ~。めっちゃ美人で財閥の一人娘、か。父親は会社のしゃちょーねぇ~」

抑えられない笑みを手帳で隠し、ただその子を待った。ちゃんと来るさ。一週間前に彼女の家のポストに見合いの申し込みの手紙や写真を入れた。俺らの界隈の人間曰く、来ると言う情報はばっちり得ている。約束の時間まで、もうすぐだ。俺はもう一口、珈琲を飲んだ。

「うげ…マスター!」

「はい。」

「もうちょっと角砂糖貰える?」

「失礼ながらこれで十一個目ですよ。いっそ、カフェオレを頼まれては?」

「いーの、いーの♪男って言うのは、ブラックがカッコいいでしょ?」

「…かしこまりました。」

初老のマスターは一礼し、しばらくして砂糖の入ったシュガーポットをコトンと置いた。俺は十一個目と言われた角砂糖をポトンと入れ飲んだ。うん、丁度いい甘さかもしれない。約束の時間まであと十分。外を眺めているとカランとドアの鈴が鳴り、パッと顔を上げると、そこにはモダンガールが立っていた。彼女の横顔を見て、手帳に貼ってあった写真と行ったり来たりした。日本人形のような顔立ちで、着物が似合うはずなのに実際に着用していたのは、襟元にフリルのついたタイトなワンピース、流行りに合わせたような耳隠し。これほど“違和感”という言葉が似合うだろうか。それより、声をかけなきゃ。

「君!こっちこっち!」

そう声をかけると、彼女は振り返った。これまた鮮やかな口紅だった。彼女はこちらに向かい、ちょこんと座った。

「初めまして。僕は紫雲 司です。確か名前って天方 京子ちゃん?」

「…初めまして。はい、天方京子です。ですが、ちゃん付けは止めてください。これでも二十代にございます。」

落ち着いた声音、初心な見た目。うんうん、今までの女の子の通りだ。いつも通りでいっか。

「まずは何か頼むかい?ここはね、珈琲が美味しいんだよ。」

「ありがとうございます。ですが、大丈夫ですのでお気になさらず。…外では、あまり食事をしないので。」

「…そっか。んじゃあ、早速本題なんだけどね。僕、君に惚れちゃったんだ。だから、是非♪見合いをしたくてね。」

彼女はゆっくりと瞬きをして、鋭い眼光で俺を見た。

「…このような女のどこに、惚れたのですか?」

「へ。」

「少なくとも、私は貴方様と出会ったことがございません。外出はあまりしませんから。」

「えっと…銀座!銀座とか…あと!あちこちとかですれ違ったことが…」

「あんなに人がいるのに、ですか?随分と貴方様は目が宜しいのですね。後、私はそのような場所に、行ったことがございません。」

この子、今までの女の子と違う…!まずい、どうしよう。俺は考えた結果、少し町を歩いて話をしようと思った。

「…ね!」

「何でしょうか。」

「デートしない?ちょっとだけ散歩…みたいな。」

「…それは私にどのような利益がございますか?先ほど初めてましての方に散歩に行きませぬかと言われ、頷く者がどこにいましょう。」

「ちゃ、ちゃんと楽しませるから!ね?お願い!」

「…分かりました。この一回きりですよ。」

「ありがとう~♪」

俺は会計を済まし、彼女と外に出た。まだまだ冬。当然寒い。

「お嬢様、ケープを。」

ドア横に突っ立っていた中年の男が彼女に防寒具を渡した。なるほど、やっぱり令嬢っていうのは執事がどこにでもついてくるんだな。

「じゃあ、行こっか。」

「はい。」

彼女は俺の後ろにくっついて歩いた。ちらっと見るとずっと俯き静々と歩いている。俺は体を彼女に向け、後ろ歩きしながら話しかけた。

「…ね、京子。」

「馴れ馴れしいです。」

「あ、ごめん。つい女の子呼ぶとき呼び捨てなんだよね~。」

「…それで、何でしょうか?」

「その、ワンピーズ。可愛いね。」

彼女は足を止め俺の目を見てゆっくり瞬きをした後、視線を逸らしため息を一つ吐いた。

「好きなんです、この格好が。可愛らしいでしょう。」

何の抑揚もなく、棒読みで彼女は言った。…やっぱりその服、嫌いなんだ。

「…そっか。うん、めっちゃ可愛い。」

「ありがとうございます。」

その後はただただ俺が話してるだけの状況になった。彼女は一点を見つめたまま歩いてる。少し、喋り疲れた。二人無言の状況、銀座を歩く。モダンガールのはしゃぐ声や、かつかつという軽やかな靴の音も聞こえる。と、ふと後ろの足音がなくなり、びっくりして振り返ると、宝石店のショーウィンドウを彼女は眺めていた。令嬢なんだから、何個でも持ってそうで、珍しくもないのに。そっか!買ってあげれば女の子は喜ぶ♪

「どーしたの?何か欲しい物でも?」

「…いえ、特に。」

「遠慮しないで~。何でも良いよ?」

彼女は俺の顔を見上げてから、もう一度ショーウィンドウを見た。

「宝石というのは、綺麗で高価なだけで、ただの石ころです。宝石ばかり与え、女が喜ぶとでも、思わないで頂きたいです。」

「……」

「申し訳ありません、歩を止めてしまい。次はどこに行くのですか?」

「え!あ、えっと…次はね」

微妙な距離。俺の足音に一拍遅れ鳴る彼女のハイヒールの音。信号で止まり、足音が同時に止まる。俺にとって、こんなのは初めてだ。最初の警戒は分かるけど、こういうとこに出て“あれを買ってほしい”って言われて、買い与えれば大体心を開いてくれるのに。

「…様…」

彼女が、心を開いてくれる方法…。いつも通りが駄目ならどうすれば。甘い物とか?

「司様。」

「へ⁉ど、どうしたの?」

ずっと彼女は俺に話しかけてらしい。考え事で気づかなかった…。

「背、高いのですね。見上げねば貴方様の顔が見れません。」

「……」

口を開いたと思えば、俺の背についてだった。確かに、平均的な身長より高いかもしれない。けど、それについて問うてきたのは彼女が初めてだった。

「僕も、君と視線を合わせるには猫背にならなきゃだ。」

「……」

あまり表情の変わらない彼女だけど、少し癪に障ったのか、微かに唇がムッとした。

「あ、信号が青になった。行こっか、京子さん。」

「はい。」

暗くなる前に、俺らは解散となった。今回は俺の想定外。もっと、彼女を落とせるシナリオを完成させてからもう一回会お。

「…ね。」

「何でしょうか。」

「また明日も会いたいな。」

「…どうしてですか。」

「え。えっと…普通に今日が楽しかったから明日も会いたいな♪なんて。」

「…あれが、楽しい、ですか。」

彼女はまた、ため息を一つ吐いた。そして俺を見上げた。

「きっと、明日も行くと思います。何時ごろが宜しいでしょうか。」

「あ!じゃあね、九時くらい。」

「…分かりました。」

くるっと振り返り、後ろにいたあの執事に彼女は声をかけた。明日、あの喫茶店に送るように、と。

「じゃあ、また明日ね。京子さん♪」

「はい、また明日。…司様。」

彼女はそう言い、馬車に乗り込んだ。ちらと俺の事を見て、馬車は出発した。

「さーて、俺も帰るか~。他に、女慣れしてる奴に聞こ。」

去ろうとしたその時、地面がキラッと光った。何だろ。近づいてみると、ピアス…ううん、イヤリングが落ちていた。手に取りまじまじと見た。…あぁ、彼女のだ。家は知ってる、調べたから。けど…

「俺は、行けない。明日渡そ。」

大事にハンカチに包み、ポッケに仕舞った。

  ◇

「ただいま戻りました。」

「おっかえり~!京ちゃ~ん!」

玄関の戸を開けた瞬間、継母(おかあ)(さま)が私を勢いよく抱きしめてきた。夜会巻きにいつものキラキラとしたドレス、ネックレス、ピアス。ぽてっとした唇に鮮やかな真っ赤な紅を引いている。今日も今日とて、香水の甘ったるい匂いがきつい。

「今日も香水をつけているのですね。」

「えぇ~!気づいたぁ?そぉなのよぉ~。新しいのを買ってもらちゃってぇ!」

「…そうですか。私は部屋に戻りますので。」

「もぉう、戻るのぉ?ねぇねぇ、今日会った人どぉなのよぉ?」

彼女は未だに私を離さず、質問を攻めて来る。

「良い方でしたよ。」

「良かったぁ!じゃあ、“結婚”は前提よね?」

私は、その単語にびくりとした。一番、聞きたくない単語。

「…結婚は、今のところ考えていませんし、するつもりもございません。」

「えぇ~まだぁあの事、引き摺ってるのぉ?もぉう、あの事は過去なんだからぁ新しい恋にとらいしなきゃ!」

「……」

言い返したところで、その倍になって返されるのは目に見えている。私は、言葉を返さず手を振りほどき、部屋に戻った。

「あ、お帰りなさいませ。京子様。」

「ただいま、湯に入りたい。頭のポマードが気持ち悪いわ。」

「かしこまりました。湯が沸くのには時間がかかりますので、その間に髪を梳きましょう。」

「そうね。」

固められた髪が、ゆっくりと花開く。ゆるりゆるりと髪が腰まで落ちた。

「あれ?京子様、イヤリングの片方どうなされたのですか?」

「え?」

メイドに言われ、鏡を見ると左の十字架のイヤリングがなくなっていた。

「奥方様の形見ですよね?私めが探してきましょうか?」

「……」

探しに行かせたい、けど…ふと脳裏に、司様が思い浮かんだ。どうして。

「京子様?」

「行かなくて良い。明日、戻ってくるだろうから。」

「で、ですが」

「もう、夜が更けてしまっているから大丈夫よ。」

「…京子様が、そう仰るなら。」

あの男を、信頼してるわけではないし、あの男が持っているとは限らない。されば、自分で探すだけ。

「…母上の記憶は、もう三つしか残っていないのね。この家さえ、建て替えねばずっと母上の記憶は、遺っていたのに。」

「京子様…」

「ねぇ。あんまり聞くのは嫌だけど、夕食は何かしら?」

「え!そ、それは…」

「…オムライスね。分かったわ。」

「申し訳ありません。私どももたまには別のものと作ろうとしているのですが、その…」

「良いのよ。私、オムライス好きなので。」

「京子様。」

寝間着だけは着物を許されてる。なので浴衣を着て湯へと向かった。メイドに髪、体を丁寧に洗ってもらった。

「…和心(わこ)。」

「何でしょうか」

「また、結婚してって…あの人がしつこい。」

「…まだ、言われてるのですか?」

私は、こくんと頷いた。…継母様は、毎日のように縁談を持ち掛けてきた。あの事を、知っているのに。何度も、何度も、断っているのに。一回、何も知らされずに見合いの席を用意された時もあった。けど、私の体質のお陰で、破談に出来たけど継母様はずっとうるさかった。

「誰かに愛を貰うのが、怖い。一人でいたい、夫も、子供も、いらない。」

「…私がいる限り、貴方様の事を守りますから。」

私は、自分の肩を抱いた。力強く。この身は穢れていない。穢れていない、けど、まだ見ぬ空へと旅立つための翼はもうない。私はずっと、この()()に居るんだ。

「和心。」

「何でしょうか?」

「私は、綺麗?」

「綺麗ですよ、京子様は。ずっと、ずっと。」

「そう。」

浴室を出て体と髪をよく拭き、大広間に向かった。食事をするため。

「あぁ~!やっと京ちゃん出てきたぁ!もうご飯出来てるわよぉ。」

「……」

食卓に並ぶは見慣れた黄色いもの。黄色、緑、赤。ため息が出てくる。

「外食よりよーーっぽど美味しいあたくしのオムライスお食べ!」

「いやぁ~今日もお前のオムライスを食べれるなんて、俺は幸せだ!」

「もぉう~嬉しいぃ~。」

眠りたい。二度と、目の覚まさない眠りへ。両親のいつもの光景を横目に、手作りのマヨネーズをたっぷりと乗せたサラダを口に運んだ。

「う…」

何をどうしたら、こんなに酸っぱくなるのだろうか。あぁ、和食が食べたい。母上の、肉じゃがが。一気にサラダを口に放り込み、えずきを抑えながらオムライスを食べた。もはや拷問ともいえる食事で最もましなのはデザートの苺のみ。

「…あら!今日もぉ食べるのぉ早いわねぇ。そぉーんなに美味しかったぁ?」

「……」

私は席を立ち、自室に戻った。彼女の質問にはいつも答えたくない。

「すまんな、京子が。あいつももう少しお前と仲良く出来ないものか…」

「良いのよぉ。あたくしは気にしてないからぁ。まだぁあたくしを母親だってぇ認めてないとぉ思うわぁ。」

「優しんだな、お前は。」

…僅かに開いた扉から、二人の会話と口づけを交わす姿を見てしまった。やっぱり、結婚はしたくないと、つくづく思う。

「眠ろう。それが私の娯楽。」

歯を磨き、髪を緩くまとめ、未だ慣れないベッドに横になった。重たくなった瞼に、彼が映った。

「…司様…」

オレンジのような明るい茶色の髪で、長めの前髪を左に流れるように七三分けし、肩甲骨辺りまでだと思う髪を束ねて、感情の読めない糸目で、緩く縛ったネクタイをつけたスーツの男。あ、左耳に蛇のような瞳のピアスをつけていた。スーツは安そうだったのに、それだけは高価そうで、誰かの形見のようだった。

〈初めまして、紫雲 司です〉

ほんの少しだけ高く甘く優しいその声が、耳に残響したまま忘れられない。

「…明日は少し、警戒しないようにしようかしら。今日の態度、あまりよくなかったと思うわ。」

少しだけ反省をし、すとんと眠りについた。

 ◇

【二日目】

今日も今日とて甘いブラック珈琲を飲みながら彼女を待つ。からんとドアの鈴が鳴った。彼女だった。やっぱり、モダンガールの姿で来た。

「こんにちは、京子さん♪」

「…こんにちは。」

「早速なんだけどね、これ。忘れってったでしょ?」

俺は、彼女が座ると同時にハンカチに包まれたそれを渡した。

「…ありがとうございます。やはり、司様が持っていましたか。」

「え?なんで。」

彼女は顔を上げ、小さく口を開けた。驚いた、という表情をしていた。

「いえ、何となく…そう思いまして。」

「…そっか。それ、大切なものでしょ?すごく綺麗だね。」

「ありがとうございます。」

「ね、京子さん。」

「何でしょうか。」

「何か悩み事でもある?少し目が腫れてるように見えるんだけど。」

「え。」

彼女はそっと、自分の下まぶたに触れた。化粧をした人、下手なのかなぁ。濃いピンクのチークをしたとこで泣き腫らした後は消えないのに。俺はそっと卓上のメニューを手にとった。

「何か、頼んだらどう?甘い飲み物もあるんだよ。」

「…しかし、外であまり…」

「いいじゃん、別に。君は君なんだから。好きなことをすればいーの。気にならないの?外での飲食。」

彼女は俺の顔を見て、メニューに視線を落とし恐る恐る手に取り開いた。

「たくさん、ありますね。軽食もあります。」

「でしょでしょ~。」

彼女はじっくりとそれを眺め、あっというように口が小さく開いた。

「これ、で…いいでしょうか?」

「これで?」

「えっと…」

「その言い方だと、望んでいないように聞こえるなぁ。」

「…これが、良いです。」

「オッケ~。」

指を指した商品を見るとそれはミルクセーキだった。夏場とかが合いそうな冷たい飲み物を。けど、OKって言った手前、他のはどう?と聞けなかったからそれを頼んであげた。

「ミルクセーキ、好きなの?」

彼女は目をぱちくりさせ、初めて、微かに微笑んだ。

「はい、好きです。ミルクセーキ。よく母上が作ってくれたんです。」

「へぇ~。」

…あぁ、今のは本当の言葉だ。彼女の情報通り、母親は亡くなってる。いわゆる、想い出の味の一つなんだろう。暫くして、まったりとしたクリーム色の上に真っ赤なさくらんぼが乗っかったミルクセーキがやってきた。彼女はストローを加え、一口飲んだ。

「…美味、しい。美味しいです…母上の味に、似ています…」

人の目も気にせず、彼女は泣き出してしまった。俺はぎょっとしてハンカチを渡した。泣いて、美味しいと言いながら、ミルクセーキを飲んだ。飲み切って、まださくらんぼを残したまま、彼女は言葉を紡いだ。

「ごめんなさい、当然泣いてしまい。」

「ううん、気にしないよぉ。美味しかった?ミルクセーキ。」

「はい。…母は、私が喉が渇いたと言うとよくこれを作ってくれました。大和撫子のような母が、西洋のものを作るのは意外でしたが…本当に、好きだったんです。」

「…そっかぁ。」

彼女はぽつりぽつりと話し始めた、身の上を。

「…母上の記憶を大切にしているのは、私だけになってしまいました。」

「じゃあ、今のお母さんとは馬が合わないんだ。」

「はい。あの人のせいで、殆ど母上のものは捨てられました。」

「……」

「着物も数着ありましたが、全部…」

彼女は俯き、唇を噛んだ。聞かされた話は絶句するものだった。

  ◆

「あらぁ!おかえりぃ~。京ちゃん。」

「…私の部屋で、何をなさってるんですか?」

「何ってぇ、見ればわかるじゃない!貴方のぉ部屋の掃除よぉ。」

「私の部屋はいつもメイドにやってもらってるので大丈夫です。出て行って下さ…」

「ん?どぉーしたのぉ?」

「その布は…?」

「あ!これぇ?もぉう、京ちゃんったらこんなに古臭い物を残しておくなんてぇ。なんせんすよぉ、なんせんす♪」

「それは母の遺品なんです!勝手なことをしないでください‼」

「えぇ~そぉんなことぉ言われてもぉ、もぉうほとんど切っちゃったわよぉ。」

「……」

「ねぇ、京ちゃん?ずぅっと遺品を残しておいたらぁ、お母さん、いつまでもぉ成仏出来ないんじゃないのぉ?」

「…母は、母は遺言で自分の着物を全て私に譲ると言ってました。それは私の物なんです!」

「…今の時代はぁ、洋服が一番かわいいのよぉ?だから、譲ってもっらたとかよくわかんないことぉ言ってないでぇばっさり捨てちゃいましょぉよぉ。ね?きっとお母さんもぉ…」

「消えて。

「へ?」

「もう貴方と口を聞きたくない!」

「どぉしてよぉ、京ちゃ~ん。私、良いことしたでしょぉう?」

「……」

私は無言でその人をお部屋から追い出した。原形の亡くなった母の着物を抱き締め、その日は泣いた。

  ◆

「うわぁ~…それ、人としてどーなんだよ。辛かったね、京子さん。」

「…父上にも、報告しましたがすっかりあの人に骨抜きされていたので、聞く耳を持ってくれませんでした。」

「もう、遺ってないの?」

「いえ、一着だけ奇跡的に遺ってました。もし私が遅く帰ってきたら、もう燃やされていたと思います。」

「わぁ!良かったね、京子さん。ねね、それってどんな着物なの?」

「…とても綺麗ですよ。下地は、紅の八塩色で真っ白な胡蝶蘭が描かれているのです。」

「君が着たら、さぞ綺麗なんだろうね。」

「え」

俺はにこっと彼女に微笑みかけた。彼女は、頬を赤らめるでもなく、ふいっとそっぽを向いてしまった。だが彼女の横顔は微かに微笑んでいた。

「ね。他にも聞きたいな♪君の話。」

「…話しても、面白いことはございませんよ。私の話より、司様の話のほうが、よっぽど面白いです。」

「え~そうかなぁ~。」

今日は、外を出歩かず喫茶店でずっと話した。日本人形のような無表情さは変わらないけど、微かに唇が動くのが、可愛らしかった。

「…あの。」

「なーに?」

「ミルクセーキ、もう一回…頼みたいです。」

「いーよ。」

…何だろう、今まで、女性を守りたいとか、ぜーんぜん思ったことないのに。君だけは、守りたいなんて思ってる。

「…京子さん。」

「何でしょうか?」

「明日も、会ってくれる?」

彼女は、悩む仕草を見せた。初対面の時、見せなかったのに。

「…私は、行きたいです。」

「そっか。じゃあ、また九時。」

「はい、九時ですね。」

「京子さん。」

「はい?」

「…君のホントが見たいな♪」

「本、当?」

「京子さん、着物が好きなんじゃないの?お母さんの形見の話の時、少し…楽しそうだったよ?」

「…着物…はい、好きです。しかし…着物はもう、形見の一着しかないのです。何度も購入しました。そして何度も、あの人に捨てられました。」

彼女は机に右腕を投げ出しながら、掌を仰向けにして親指を折り残りの指全てを折った。ごく自然に行った。いや、無意識なのかな。けど…なるほどね。

「今度、買ってあげよ―か?」

「…お気持ちだけ、受け取っておきます。あの人が、勘違いを起こすと思うので。」

「勘違い?」

彼女は右手を引っ込め、左手で包みぎゅっと胸元で握りしめた。彼女は、目に見えて震え始めた。ぱくぱくと口を動かし、言いたくても言えないようだった。

「ううん、やっぱり大丈夫だよ。ごめんね、京子さん。」

「すみ、ません。」

…馬鹿だな、その人。本当に人間なのかな。彼女の過去を見れば、そのくらいのこと分かるのに。結婚をしたくない理由が。

「今日はもう解散しようか。京子さん、早めに帰って休んでください。」

「でも…」

「久々のミルクセーキで、体を冷やしたんじゃない?だってまだ冬だもん。そんな中で二杯飲んだらお腹くらい壊すよ。」

彼女は、僅かに寂しそうな表情を見せたがすぐにこくんと頷いた。会計を済まし、彼女の執事に説明をし、家に帰すようお願いした。

「さ、京子さん。」

乗るのを手伝うため手を差し伸べた。彼女はその手を取り乗るのかと思ったら、ぎゅっと握ってきた。…勘違い、してるのか?

「…司様。」

「何?」

「明日、九時ですよ?」

「……」

黒曜石によく似た瞳が俺の目を見た。自分は、必ず来ると言っているのかもね。

「うん、九時。また、お話をしよう、」

「はい。」

ぐっと俺の手に体重を乗せ、馬車に乗り込んだ。…軽いなぁ、この子。ちゃんと食べてるのかなぁ。

「…じゃあね、京子さん。あ、イヤリングは大丈夫かい?」

「ちゃんと、つけましたよ。」

「うん、良かった。」

「…また、明日。」

「うん。」

静かに馬車は出発し、少しの砂埃をあげた。俺も、帰るとするか。馬車に背を向け歩き出そうとした時、ふと自分の手のひらを見つめた。…とても小さく冷たい手だった。そう簡単には折れないと思うけど、ぐっと力を込めて握ったら折れてしまいそうだった。

「…京子さん。」

…ヤバいな、調子が狂ってる。冷静にならなきゃ。大丈夫、明日はちゃんとやるんだ。そう決心して、アジトに帰った。

  ◇

「ふぅぅ…」

煙草に点いた火が仄暗いこの場所を照らす。やっぱ現実とーひしたいときはこれに限る。座ってぼーっとしてると、頭上から低く渋い声が降ってきた。

「…よぉ。今日の仕事終わったんか?」

「ん、おっちゃん!」

無精ひげで、目元まで隠れた前髪にぼさぼさの短髪。それでもきっちりとしたスーツを着こなすんだから凄い。

「なぁ、今狙ってる子からはもう金を貰ったんか?」

「え…っと、」

おっちゃんは俺の横に座り込んだ。

「てめぇにしちゃあ、手こずってるじゃねぇか。二日で終わらせちまうくせに。」

「…今までと違くて、やり方が分からなくなっちゃって…」

「我なんかいつもそうだぞ?だから、お前のその苦手な臨機応変に慣れろって言ったじゃねぇか。」

「それでも、苦手だよぉ。一応、モソンジュにも聞いたけどその子の特徴からして、自分は君を守ってあげる、というような姿勢でいたら?って言われた。」

「…あぁ、フランス人のあいつか。あいつも手練れだよなぁ。」

「同期に女慣れしてる奴がいてラッキーですよ。」

「ははは。…な、我にも煙草くれ。」

「どーぞ。」

「…ライターは?」

「持ってないんですか?」

「生憎、燃料切れ。」

「そっすか。…どうぞ。」

「ありがと。」

俺が点けてあげ、おっちゃんは旨そうに吸い始めた。俺は疲れからなのか分からないけど、おっちゃんに何故か京子さんの事を話していた。

「京子さん、めっちゃ可愛いんすよ。表情ぜんっぜん変わんないのに、口だけ動かして。」

「そっか。」

「あんなに日本人形みたいなのに、好物がミルクセーキなんですよ。」

「うん。」

「…あぁいう人が、俺の妻だったらなぁ。毎日が、幸せなんだろうな。」

「…なぁ」

「何ですか?」

「情は移んなよ。我らはそんな恋や愛なんぞ捨てた者。お前はまだ、人間らしいな。」

おっちゃんの藤黄色の瞳が鋭く俺を捕らえる。情が移ったら殺すと言わんばかりに。

「わ、分かってますよ。」

おっちゃんは地面に煙草を置いた後、立ち上がりぐりぐりと火を消した。

「んじゃ、我は次の仕事に行ってくる。お前は、少なくとも一週間内で終わらせろよ?仕事はたくさんあんだからよぉ。」

「…はい。」

おっちゃんはにやっと笑った後、俺の頭をぽんぽんとまるで幼子をなだめるように触ってきた。

「止めてくださいよ、これでも三十ですよ?」

「我にとっちゃあまだまだ子供だ。それに、てめぇの設定だと二十七、だろ?」

「う…」

「見た目が若ぇから通る嘘だけど、我じゃあ無理だな。ははは。」

「も、もう仕事に行ってくださいよ!」

「ん。わあったよ。行ってくる。」

俺に背を向け、手をひらひらさせながら去っていった。まるで、ボスみたいだなぁ…。

「…仮眠とって、明日のこと考えよ。」

俺も煙草の火を消し、仮眠できるとこを探した。

  ◇

【三日目】

今日も、喫茶店で普通を過ごす。他愛もない話をする。切り出さなきゃ、駄目なのに。手汗が、ヤバい。外は雪が降るほど寒いのに。

「…司様。」

「な、何?」

「今日は少々、煙草の匂いがしますね。吸われるのですか?」

「・・・あ!」

俺は思わず大きな声を出してしまった。そうだ、ジャケット変えるの忘れてた…。

「どうか、なされたのですか?」

「あ…ごめんね。昨日一日中同僚にジャケット貸しててさ、その同僚が愛煙家でね。うっかりそれを着てきちゃって。」

「そうだったですね。」

「ごめん、嫌だった?」

「いえ、父も吸われるため慣れてます。」

「…そっか。」

「そういえば、ご職業がサラリーマンとのことですが、私とこうしていても大丈夫なのですか?あんまりそれについては分かりませんが…。」

言われてみれば、毎日会ってる。ヤバ、そこまでの嘘考えてなかった。

「君に会いたくて、少し出社の時間を遅らせてもらってるんだよ。僕が働いてるとこのしゃちょーが伯父さんでね、許してもらえてるんだ。」

「…そうなんですか。」

…やっぱり、この子に口説き文句は効かないか。現に今も、顔を赤らめるとかせずにミルクセーキを飲んでいる。この子が俺に惚れるのは、いつなんだろう。…ううん、いつなんだろうじゃない。いつまでも、俺に惚れないで欲しい。だって、こんなに穏やかな時間が…終わっちゃうんだもん。

「…終わり、たくない?」

「司様?」

「ううん、何でもないよ。そうだ、ミルクセーキ飲み終わったらちょっと連れて行きたいとこがあるんだ。」

「分かりました。」

飲み切り、さくらんぼを食べたのを確認し、外へ出た。

「京子さんは馬車で行くよね。僕は歩いて行くよ。」

「遠くなら、乗りますか?行先を御者に伝えれば大丈夫ですよ。」

「え!い、いいよ。大丈夫、僕は。」

「どの辺まで行かれるのですか?」

「えっと…新宿。」

「でしたら乗ってください。少しばかり遠いでしょう?それに、馬車に一人でいるのは少し、寂しいですもの。」

「……」

彼女は初めて願望を言葉にした。俺は少し頬を掻き、言葉に甘え、乗車した。御者の人が声をかけてくれた。

「行き先は?」

「新宿御苑で。」

久々に馬車に乗った。ガタンガタンと揺れる感じ、久々だ。外を眺めた後、ふいっと彼女を見た。今日も相変わらず耳隠しに、真っ赤なワンピース。こんな派手な赤は彼女に似合わない。もう少し、落ち着いた赤ならきっと似合うんだろうな。

「…京子さん。」

「はい?」

「もしかして、髪の毛…すごく長い?」

「…どうして、そう思われるのですか?」

「お団子が少し、ボリューミーだなって思って。髪が長いなら三つ編みとかしないの?」

「……」

彼女は口をきゅっと結んだ。これは聞いちゃいけなかったかもな。

「ごめん、何でもないや。」

「…いえ。」

首を横に振った後、彼女は外を眺めた。

「母が、この髪型以外…許してくれないのです。三つ編みしようものなら金切り声をあげて断固拒否します。」

ぽつりと呟いた、その髪型の理由。彼女の母親は、まぁ…西洋かぶれと言ったほうが良い人間だ。なのに、彼女に強いる髪型は、古いんだなと呆れた。

「…髪、綺麗なのにポマードで髪が傷むでしょ?」

「ちゃんと洗えばそこまでは。ですが少々きしきしはします。」

「綺麗な髪なんだから、大切にしてよね。」

「…ありがとうございます。初めて、言われました。」

彼女はほんの少し微笑んだ。本当に、嬉しい言葉だったんだ。…暫くして、新宿御苑に着いた。

「寒くない?」

「防寒具があるので、大丈夫です。」

そうは言っても、鼻や頬、指先が真っ赤だった。

「寒かったらいつでも言ってね。僕のマフラー貸すから。」

「ありがとうございます。」

新宿御苑はなかなかに広かった。雪も十分積もってきて、キュッキュッという音が静かに鳴った。色んな花が咲いており、彼女はどことなく楽しそうだった。暫く歩き、俺は段々と疲れてしまった。

「ごめん、京子さん。そこのベンチで少し休んでていいかな?」

「あ、分かりました。私はまだ、眺めていますね。」

「うん。」

俺は屋根のついたベンチに座った。お陰で椅子には雪が積もっていなかった。目の前には、池とそれを眺める彼女。ふわりふわりと、ワンピースの裾が広がってすぼんでを繰り返す。さながら、赤いワンピースも相まって、椿のようだ。

「…綺麗だな、京子さん。」

うっとりと眺めていると、彼女がくるっと振り返った。

「司様。」

「ん?どうしたの?」

「…私の、昔の話を…聞いてくださいませんか?今まで、話さなかったことを。」

俺は目を見開いた。彼女の過去は、もちろん知っている。決して、話したくないだろうと思うこともたくさんあって、俺も深堀りするつもりはなかった、のに…どうしたんだろ。

「別に、いいよ。ほら、隣。おいで。」

俺が声をかけると、彼女はちょこんと横に座り俺を見ず遠くを眺めながら、それを語った。

「…私は、十六のとき錦戸家へ嫁ぎました。いわゆる、政略結婚を。愛も、何もない、淡々とした日々でした。」

  ◆

「行ってらっしゃいませ、旦那様」

見送りの時は、床にひれ伏せお辞儀をする。だけど、彼からの言葉は一切としてない。…ぱたんと玄関の扉が閉まった後に、ゆっくりと立ち上がり家事をする。掃除に、洗濯、食事の支度。…旦那様は基本的に寡黙な人だと思った、この日までは。夕方。今日は、魚の煮つけを作ってみた。母直伝の調理法で。

「うん、美味しい。旦那様が帰ってきたら、魚を入れましょう。」

丁度出来上がった頃、旦那様は帰ってきた。見送り時と同じ体制に間に合った。

「お帰りなさいませ、食事はもう出来ています。」

「……」

顔を上げ、旦那様の鞄を受け取り居間に向かいながら上着などを受け取る。旦那様が入った後、部屋に行き荷物を畳んでおく。終わったら居間へ。と、いつもと空気が違うことを感じ取った。

「…旦那様?」

旦那様は私を見ると、ずいっと魚の煮つけを差し出した。そして、口を開いた。

「俺、これ嫌いなんだけど。嫁なんだからそのくらい把握してくれ。」

「……」

“そんなこと言われても”と口から漏れそうだった。だって、貴方とは一昨日祝言を挙げたばかりなのに、貴方の好みを知ってるわけではない。

「申し訳、ありませんでした。…まだ、魚が残っていますので焼きますね。」

「うん」

皿を受け取り、台所へ向かった。

「これは、私のおかずにしよう。」

本当は私のおかずにと残しておいた魚を塩焼きにして旦那様に渡した。彼は、無言で食べ始めた。旦那様が就寝した後、冷めきった煮つけを食べる。“限界”その二文字がよぎる。まだ三日目なのに。大好きな母の煮つけの味も、分からない。

「…大丈夫、まだお互いを知らないから。大丈夫。」

そう自分にずっと言い聞かせた。けど、状況は悪くなる一方。旦那様の機嫌を損ねてばかり。だけど、唯一の救いは旦那様の義母だった。

「え!あの子、煮つけ嫌いなの⁉」

「…はい。」

「ヤダわぁ~…あの子!あんなに母さんの煮つけは旨いって食べてたのに。」

「そうなんですね。…あの日、初めて作ったのですが…一口も食べず好きではないと。」

「我が息子ながら最悪だわ~。京子さん、あたしががつんと言ってあげるわ。」

「ありがとうございます。」

義母は、たまに顔を出してくれて相談にも乗ってくれた。これが初めての結婚だったので不安もあるだろうという理由。相談したこの日の夕方、うっかり出迎えに遅れてしまった。肉じゃがを作っていたので、目を離せなかったから。…荒々しい足音が台所で止まった。

「あ。申し訳ありません、出迎…」

そう、言った瞬間。手を大きく振り上げる、旦那様の姿が刹那…私の視界一杯に広がり、次の瞬間には、バチンという大きな音と、頬に強烈な熱さが宿った。

「俺の事を母さんに告げ口しただろ!俺が何を食べようと!勝手だろ‼」

現役の軍人に、平手打ちを食らったものだからその場に倒れ、口の中も金臭さが広がった。頭も、ぐわんぐわんする。

「…申し、訳…」

「それもうるさいんだよ!いちいち謝りやがって!てめぇは俺の機嫌を損ねんな‼」

…分からない、もの。貴方が怒るときが。私は、土下座をして、謝って、貴方に蹴られるのを、堪えるしか、答えが分からない。

「しかも、今日も俺の嫌いなものを作りやがって。全部一からやり直せ!」

ここから、何を作れと?また、買い直さなきゃ…駄目かも。彼が、立ち去った後ふらふらと立ち上がり、せめて髪で、赤くなった頬を隠し、近くの商店街へ行った。何を作れば良いのか、分からない。あれも駄目、これも駄目。

「ヤダ!京子さん!なーに?その頬!こちらにいらっしゃい!」

「……」

八百屋の奥さんに、話しかけられた。心配、してくれて家にあげようとしてくれた。

「大丈夫です。このくらい。」

「でも…今までで一番大きな怪我よ?」

「いつもの事なので。私が…もう少しうまくやれれば、彼の機嫌も損ねずにいられます。」

「おばちゃん、心配だわぁ。ここに来るたんびに怪我を増やして来るんだもの。」

「…そう、ですね。あの、ここに、あまり長くいると怒られるので野菜…買っちゃいます」

「分かったわ。」

その内…。その内、夫婦らしくいられると信じる。きっと、彼も仕事で疲れているのよ。うん、そうに違いない。…もちろん、帰ったら烈火のごとく怒られた。お前は俺の信用をどのくらい奪ったら、気が済むのかって。いつも、怪我のまま行くせいで。やっぱり私は、謝るしかない。…もうこれが、幸せでも、良いのかな。段々と、そう思う他…心を保つ方法が分からなかった。それから、二年後。いつも通り、夏らしい暑い日々。彼を見送り家事をした。商店街に行って、おばちゃんと会話して…お昼くらいにいつも通り、帰った。

「今日のお昼、うどんにしようかしら。私一人だけだし。」

そう呟きながら家につき、戸に手をかけガラッと開けると。真っ赤なピンヒールが置いてあった。私が、履いてるものじゃない。ふらっと寝室に、何故か向かった。きゃいきゃいと、はしゃぐ声が、何故か聞こえた。襖が開いてたから覗き込むと、布団の中に旦那様と知らない女性がいた。

「……」

心臓が激しく鳴る音、セミが鳴く音。私は、何が起きているのか分からなかった。

「お前、出掛けたんじゃないのか⁉」

「ただの…買い、物です。貴方、こそ…なんで。」

その女性は、誰なの。私は、裏切られたの?分からなくて、自然とふらっと台所へ向かうと、良い匂いがした。料理なんてしていない。そっと近づくと、肉じゃがと魚の煮つけだった。彼が、嫌いだと、言ってたのに。ふいに流し台を見ると、食べた痕跡が。朝ごはんに使った皿はもう、洗い終わってるから。その場にへたり込んだ。

「…疲れたわ、もう…」

私は、どうすればいいのか、分からなくて…あるだけの荷物をまとめ、夜逃げ同然に実家に帰った。二人は、心配するでもなく、何でもなかった。…慰めて、ほしい。泣き明かした、翌日。話し合いが行われた。開始早々、義父が彼の頭を掴み、土下座させた。

「この度は!我が馬鹿息子が申し訳なかった‼」

「……」

ちらと、父様を見た。父様は、私を庇ってくれると…思った。けど、違った。

「いやぁ~娘にも非があったかもしれません。妻は夫の言うことを聞くべきですよなぁ~。けれど、何度も彼の嫌いなものを出されると、浮気にも走りたくなりますわな~。」

私は、絶句した。継母は味方じゃなくていいから、父だけは、味方してほしかった。なのに、私に…非がある?私は、何もしていないし、嫌いなものは大体把握した。なのに、まだ…私が駄目なの?

「そぉーよぉ。京ちゃんも、洋食くらい覚えたらぁこんなことにぃならなかったんじゃぁないのぉ?」

「……」

駄目、吐き気が…してきた。眩暈と、吐き気と、もうぐるぐると感情が分からない。

「そんなの、あんまりじゃないですか。」

と、義母が口を開いた。

「何が、ですか?」

「京子さんには何も非はございません。全て、私共の息子が悪うございます。なのに、どこをどう受け取って京子さんが悪いのですか?」

「……」

暫くの沈黙があったが、ずっと頭を掴まれ土下座をした彼が破った。義父の手を払いのけ、顔を上げた

「…そもそも、そんな地味な女と結婚するつもりはなかった。一緒に暮らしていても、謝るばっかりで、笑顔なんか見たことねぇよ。」

「もう黙れ!貴様は!錦戸家の名を汚すつもりか!」

「あんたが無茶な要求して!それに応じるよう京子さんが頑張ったのに否定ばっかりするからでしょう!」

「うるせぇ!」

話し合いが一転、親子喧嘩になってしまったのでお開きになった。後日、決まったことは、私と彼の離婚、天方家と錦戸家は今後一切関わらないことが決定した。

「どうか、元気でね。京子さん。」

「…はい。義母様も、どうか。」

「京子さん」

「何でしょうか?」

「きっと、もう治らない傷を貴方に負わせてしまったわ。その傷は、一生をかけても治らない傷かもしれない。けどね…必ず癒してくれる相手は現れるから。ゆっくり、ゆっくりと、時を紡いで。」

最後の、最後まで義母も、義父も、優しい人だった。母から貰った、優しさと温もりによく似ていた。初めて、人前でぼろぼろと泣いてしまった。けど、義母は優しく、抱きしめてくれた。…それから、三年の時を過ごす間にも継母はしつこく縁談を持ち掛けてきた。“縁談”“男性”という言葉を聞くだけで吐き気がして、何度もお手洗いで吐いた。その度に和心が背中をさすってくれた。…初めての結婚が、あんな感じだったから…私は、トラウマになっていたのだ。自室から出るだけで、縁談、縁談、縁談だったから、暫く引き篭った。どうして、あの人達は分かってくれないの。継母にも言った。今は控えたいと。なのに、勝手に見合いの席を組んだ。私は、男性が来ただけでお手洗いに籠り、吐き気が治まらなかった。

「…消えたい。母様に、逢いたい。貴方の元に行ったら、楽になれるのかな…」

味方は、使用人だけの日々でいつごろか“自殺”の二文字もよぎったけど、死にたいでもなく、生きたいでもない、狭間で揺蕩っていた。そんなある日、とうとう継母はノックをしてきて、私の部屋に入ってまでも、縁談を持ってきた。

「ねぇねぇ!見て!ポスを見たらこんなのが入っていたのよぉ!明日の一時くらいに喫茶店に行ってきてよぉ。」

「……」

「あ!でも、喫茶店に行っても何も食べちゃダメだからねぇ?お父様に怒られるからぁ。」

何故、もう行く前提なんだろう。でも、何を言ってもこの人の耳には届かない。…行くしかないわ。…当日、継母の着せ替え人形の如く、苦手な服にメイクを施された。そしてぐいぐいと馬車に乗せられ、揺られ、喫茶店に着いた。…そして…

   ◆

「…そして、貴方様がいました。」

彼女はゆっくり瞬きをして、俺をちらっと見た。そしてまた、景色を眺めた。

「貴方様と、出会ったあの日…初めてトラウマの症状が出てこなかったのです。不思議でした。私にも、よう分かりません。」

彼女の事を調べてるときに、既に知っている情報なのに…やっぱり、耳を塞ぎたくなる。“辛かったね”“その旦那、サイテーだね”なんて言ってあげたいけど俺の職業柄、どうも自分自身…嘘のように聞こえてしまう。

「…司様、長々とすみません。随分と…」

俺は、グイっと引き寄せ抱きしめていた。細くて、これ以上力を込めて抱きしめたら、折れてしまいそうな体を。

「…ごめん。君の過去を聞いて、僕が出来るのは…これくらいなんだ。」

彼女がどんな表情をしてるのか、分からない。けど、許してね。僕の言葉が、嘘のように聞こえてしまうから、自分自身の言葉が嫌なんだ。

「温かい、ですね。司様。」

「……」

「久しぶりに、誰かに抱きしめられました。…今日は寒いので一層、温かいです。」

「良かった。」

暫く彼女を抱き締めもう一回、御苑を回ってから解散となった。俺はまた、馬車に乗ってカフェ前までお願いした。

「…ほんに、今日は楽しかったです。あんなに散歩をしたのは、久々です。」

「久々?」

「実母がまだ傍に居てくれたときは、よく散歩をしたものです。今よりも、外出も許されていて、色んな所を歩いて回りました。」

「そーなんだ。」

「…母に、逢いたいです。私が、小学校を卒業する手前で、亡くなってしまいました。今の継母が来たのは、それからすぐでした。」

「え、すぐ?」

「はい。…まるで、母が亡くなるのを事前に知っていたような。今の継母は、私の母の友達だったそうです。なので、父も顔なじみだと。」

…あー…嫌な想像しちゃった。完全な憶測だから、言葉には紡がないけど…元から継母は京子さんのお父さんを狙っていたんだろうな。…なんて、まさかね。

「京子さん。」

「何でしょうか?」

「幸せ?君は。やりたいこととか、やったことないんじゃないの?」

彼女は、俺の事を見て正解だと言わんばかりに目を丸くした、が、すぐに俯きキュッと唇を結んだ。

「…私がこれを不幸せだと言っても、周りは首を振り、誰かがこれを、幸せだと言うなら。周りは幸せだと頷きます。私も頷きます。…そうしなければ…生きづらいので。」

「…僕、前にも言ったよね。君は、君らしくで良いんだよ。好きな物を食べて、好きな服を着て、好きなように生きて、それを誰かが駄目だって怒ったら、僕がぶっ飛ばすから。」

「そう、ですね。…司様の言葉は、重々承知してます。ですが…それらをするための、翼はもう、ないんです。」

彼女はぎゅっとワンピースの裾を握った。継母が、彼女の翼に鎖をつけている、もしくは奪ったか。俺は、そっと彼女の手を握った。

「自由へ羽ばたく翼がなくても、地面を走ればどこへでも行ける。確かに、翼があったほうが、何の障害もなく行ける。けど…ちょっとの障害があったほうが、何倍も楽しくない?」

「…司、様。」

「もっと、遠くに行きたいね。二人で。汽車とか乗ってみようよ。」

「は、い。…はい。」

…胸が、痛い。遠くに行きたい、彼女と。だけどこれは、叶わない。叶えてはいけない。ごめん、俺も君を裏切るかもしれない。…ごめん?胸が痛い?どうして、こんな気持ちが湧くんだろう。俺は、詐欺師だ。湧くはずのない感情。なのに、なんで。

「着きました。紫雲殿。」

「あ、ありがとうございました。」

いつものカフェ前。降りた後、馬車を見た。窓から彼女は顔を出してる。

「…また、明日も会えますか?」

「うん、きっと。」

「明日、楽しみです。…それでは。」

「またね。」

走り出す馬車に手を振って、俺は帰った。胸の内が、温かくて冷たかった。痛くて柔らかかった。…俺は、彼女を…

「京子さん。」

脳裏に、微かに笑う彼女が写った。君のせいで、眠れないよ。

  ◇

〈アジトにて〉

カツンカツンとボールがキューに当たる音が響く暗い部屋。我らのボスがビリヤードの楽しんでいる。扉の前でボスに報告を色々としていた。

「…またあいつは失敗したんか?」

「はい。」

「やっぱまだ日ぃ浅いから、人間の心を忘れてへんのやな。」

「そのようです。」

またカツンとキューがボールを打った。

「人間の心を忘れてへん言うたら、自分もせやなぁ?えっとぉ…名前、なんて言うたかぁ?」

「…今は(たけ)(ふみ)と名乗っています。」

「おぉ、今そんな名前にしとったのかぁ。ま、そんなん興味なかってんがな。」

「申し訳ありません。」

「…なぁ、あいつに言うとかんかい。あんまり仕事が遅いと、体とおさらばすることになる」

「しかしながら、まだ彼も新人です。仕事が遅いのは…」

と、我の顔面すれっすれでボールが飛んできた。少し頬を掠め、血が頬を伝った。

「てめぇらはただの駒や!イエスかはいを言うてりゃあええで‼この俺様に口答えは許さん!口答えをしてる暇があるやったら、もっと金を搾取してこい!」

「…Yes my lord」

一礼をし、部屋を出て行った。いつもんととこに行くと、やっぱりいた。

「よぉ。」

「…おっちゃん。」

「どうした?てめぇにしちゃあ、元気がないじゃないか。」

「うん、ちょっとね。」

「…なぁ。」

「はい。」

「ちょっと飲みに行かねぇか?」

「え、良いんですか?」

「おう。ま、我らには似合わないような場所だが、たまにはいいだろ。」

不思議そうな顔をしていたが、グイっと立たせ外へ連れ出した。

「…おっちゃん、頬どうした?」

「ん?あぁ、これか。ちょっとボスの機嫌を損ねちまった。」

「え⁉大丈夫なんですか?」

「大丈夫だ。たんまり金を捧げれば機嫌をなおしてくれるだろ。」

「……」

話の話題を逸らし、他愛もない話をしていたら目的地に着いた。浅草にある昔っからあるバー。我もたまに来てる。

「入るぞ。」

「は、はい!」

中に入って、カウンターに座った。

「いらっしゃませ。いつものですか?」

「いや、今日はピニャコラーダを頼む。…お前はどうする?」

「色んなのがあって迷います。」

「どれもおすすめだよ。」

「…じゃあ、カーディナル。これにします。」

「ん。」

小僧はマスターが作る様子を、ずぅっと見ていた。…我の相棒に、似ているなぁ。あいつも、ここに連れてきたことがあった。

「…見ていて、楽しいか?」

「バーは初めてなんで。全部にワクワクします。」

「そうなのか。」

暫くして、完成し小僧は一口飲んだ。

「!…おっちゃん、これ旨いよ!」

「良かった。」

お酒だって言うのに、こくこくと凄い勢いで飲んでいた。…こいつは、何でこうもあいつと似てんだろ。我も一口、酒を飲んだ。そして、本題を切り出した。

「…なぁ、小僧。」

「はい?」

「今の仕事、一体いつ終わるんだ?」

「っ…」

「もうすぐ、一週間経っちまうよ。ボスも、お怒りだ。」

「……」

「なぁ、小僧。」

「は、い。」

コトっとコップを置き、小僧を見た。

「単刀直入に言う、てめぇは天方京子に惚れてんだろ。」

「……」

「騙す相手に、惚れるなんぞ前代未聞だ。それに、情は移るなつっただろ。」

「俺!惚れて、なんか…」

「じゃあ、さっさと金を取ってこいや。」

「…っ。」

「司。」

「はい…」

「人の心が残ってんなら、社会に戻ったほうが良い。さもなくば…我みたいに、なる。」

「おっちゃん、みたいに?」

我は、もう一度酒を飲んだ。一気に、グイっと。

「…人ってぇのはな、誰かを大切に思ったり気遣ったり時点で人間なんだよ。我にも、いたよ。愛する人や、大切な人が。…未だに、忘れられねぇよ。」

「……」

小僧が黙った。少し、考えてるんだろ。我はその間、さっきピニャコラーダを飲み切っちまったから、ニコラシカを頼んだ。

「んで、お前が選ばなきゃいけない道は二つある。」

「二つ…?」

「…一つは、詐欺師(これ)の世界から足を洗って平凡に生きる。もう一つは、全部捨てて詐欺師(これ)の世界を歩み続けるか。」

「全部、捨てて?」

「天方京子への、愛情も捨てることになる。簡単に言っちまえば、人間になるか傀儡になるかだ。…どっちが良い。」

小僧は、口を開けたり閉じたりを繰り返し悩んでいた。予想通りの反応だった。

「ほんとに、どっちかですか?」

「あぁ。」

詐欺師(これ)の道を歩むと決めたら、京子さんには会えないんすか。」

「そうに決まってる。」

「そう、すか。」

「…司。悩むってこったぁ、やっぱりお前はここに居ないほうが良い。即断即決、それがこの世界で生き抜く重要なことだ。」

「う…」

「…ホントだったら、我もてめぇにきょーみ持っちゃいけねぇんだ。言ったろ。誰かを気遣った時点で人間だと。我もまだ、人間の心を持ってる。さっさと捨てなきゃいけねぇんだがな。」

司は、ギュッと唇を噛み悩んでいた。気持ちを落ち着かせるためか、カーディナルを一気に仰いだ。飲み切ってグラスを置いた後、言葉を紡いだ。

「どっちかを選ばなきゃいけないんだったら、俺はどっちも諦めます。なんか、後悔が残りそうなんで。もう、後悔はしたくないんです。」

「…そっか。」

「京子さんの出会えて、幸せでした。けど、彼女から金を取ることは出来ないです。もう少し会って、それから…」

「それから?」

「…さよならとごめんなさいを、伝えます。」

…ごめんな、司。それが詐欺師(これ)の世界なんだ。何かを得るには全部を捨てる。前より、柔和な表情になった司を見るのが、癒しだった。完全にいかれちまう前に、人間に戻ってくれ。我も、どんな自分で居れば良いのか、分からなくなっちまってる。久々に、情が湧いたよ。

「んじゃ、そろそろ帰るか。」

「はい。あ!金…。」

「いーよ、我が払う。」

「あ、ありがとうございます。」

「ん。」

店を出て、煙草とライターを懐から取り出した。

「あ、つけますか?」

「お、ありがと。」

「…またこれ、火がつかないですよ。」

「マジか…。てめぇ、持ってる?ライター。」

「持ってますよ。」

「貸してくれ。」

「了解です。」

煙草を吸って吐いた息は白く、寒さによるものか煙草の煙か分からない。

「のんびり帰るとするか。」

「はい。」

司は俺の後について歩いていたが、突然足音がしなくなった。振り返るとおもちゃ屋のショーウィンドウを両親とはしゃぐ子供を見ていた。

「どうした?」

「…楽しそうだなって、思いまして。幼い頃、俺もあんな感じでした。」

「……」

「すみません、足を止めてしまい。なんか、懐かしいなぁって思っちゃって。」

「いや。…お前は親がいた組か。すまねぇな。孤児院で育った我はその感覚分かんねぇ。」

「立ち止まってても、寂しいだけなんで行きましょか。」

「ん。」

降りしきる雪の中、特に何も喋らず帰路についた。

  ◇

夜、父さんと、母さんの夢を見た。酷く汗をかき、ボーっといつもの天井を見つめる。床で寝るとやっぱ体痛った。。…目が覚めたな。水、飲も。俺は台所に向かった。皆寝てるから、静かにしなきゃ。

「…なんで、二人の夢を見んだろ。ショーウィンドウのせい?」

最近は、見てなかったのに。…頭痛い。酒は一気に飲むもんじゃないね。グイっと水を飲んで、近くにあったぼろぼろのソファにどかっと座り、夢のせいで忘れてた昔を思い出した。

   ◆

俺の親父は、銀行の社長だった。それなりに有名で業績も良かった。羽振りも良くて、幼い頃から苦労を知らなかった。仕事も、父の跡を継ぐことになっていた。が、俺が十四の時に全ては壊れた。社員の一人が、着服事件を起こし一気に転落人生。信頼と業績がガタ落ちで、支店も本店も倒産して、住んでいた家も維持費を払えなくなって、泣く泣く今にも壊れそうな借家に引っ越した。親父は頑張って職を探そうとしたけど、駄目で俺も俺で探したけど、どこも駄目だった。

「…ごめんな、職のない父親で。」

「そんなことありませんよ、貴方。」

威厳があって、ずっとついて行きたいと思えた父の面影も、温かくて、優しく全てを包み込んでくれるとこに憧れを抱いた母の姿も、もうなかった。着服した奴が悪いのに、まるで自分たちが悪いかのように振舞うのに、嫌気が差した。

「…父さん、母さん。」

「どうした。」

「なに?」

「ちょっと、出掛けてくる。」

「…行ってらっしゃい。」

出掛けたとこで、職は見つからない。そこら辺に転がってるわけない。慣れない生活にも、嫌でも慣れる。月日は流れ、ある日。俺が十九の時…父と母が、離婚した。理由は、母の病。迷惑と苦労を掛けたくないと言い、その運びとなった。出ていく日、母さんは、迎えに来た使用人に支えられ馬車に向かった。振り返り、俺を見た。

「元気でね。」

そっと俺の頬に触れた手は、熱を帯びず冷たかった。…大好きだった母の温もりは、もうないんだな。馬車が去った後に残された腰の曲がった男と俺、二人。

「…二人ぼっちだな。」

「ね。」

「ごめんな。」

「…俺、職探すからさ♪安心してよ。」

「そうか。」

父さん、俺に希望を持ってないんだろうね。そりゃそうだ。産まれたときから働き方も苦労も分かんない俺だもんね。そりゃたくさん苦労を知ってる父さんには負けるよ。俺はそれからも、仕事を探して一年。全く成果なし。いつも通りの日々のある日。この日も、仕事を探して家に帰った。

「ただいま~。」

静まり返った家。父さん、寝てんのかな。この時間は起きてるはず…

「・・・え。」

父さんの部屋を覗くと、倒れた小さな椅子、机に置かれた文、梁にぶら下がった、父。信じられない光景だった。

「おい!父さん‼」

外そうとした瞬間に、重さに耐えきれなかった梁が音を立て折れた。咄嗟に父を受け止めた。…あぁ、冷たい。どのくらい苦しんだだろ。

「…父さん…」

何で、俺たちがこんな目に合わなきゃいけないんだろ。何で、何で…。ひとしきり泣いた後、近所にたまたま住んでた父さんの姉の元へ行き、一連を伝えた。そしてあれよあれよと、葬式が終わりそれから三日後、母が亡くなった事も文で来た。…あーあ、独りぼっちだ。借家は俺には広すぎて、修正費とか諸々渡して立ち退いた。父さんのお姉さんの養子になっても良かったんだけど、どうも旦那さんが子供嫌いみたいで、駄目だった。…俺は路頭に迷う生活をスタートした。三年くらいかな。…やっぱり職が見つからない。もう、野垂れ死ぬのかって思いながら今日も固い地面の上でボーっと微睡んだその時。一人、話しかけてきた。

「あれぇ?こんなとこでどーしたのぉ?」

「……」

垂れ目で、生気が宿ってない瞳。右目を隠す前髪。長い後ろ髪をポニテでまとめピアスを耳や唇につけてる…男?女?どっちか分かんない。声もハスキーだし。その人はずっと俺に話しかけてきて、一人とお腹が空いてると伝えると、にこっと微笑み、俺を担ぎ上げスタスタと歩き始めた。

「ちょ!」

「僕の家へご招待~。」

抵抗しても意味があるのか分かんなくて、とりあえず大人しく担がれ続けた。俺が着いたのは、ほぼ廃墟。飯なんてあるはずない。と、持ってたのにその人は懐からかおにぎりを取り出し、渡してくれた。何でも非常食だったらしい。けど、食べての圧が凄くて、俺は平らげた。そして質問攻めにあったのでポツリと語った。

「…じゃあ、ここに居ればいい!衣食住、与えてあげるよ。あ!もちろんタダだよ。」

「え?」

「だって君、居場所ある?吾輩は正直、君には興味がないけど可哀そうに見えるから保護するだけ。ここでは自由にしてくれたまえ。」

それから俺はそこで暮らした。その人は紫黒さんという名前。…ちなみに男だった。結構、長く住まわせてもらい、俺が二十九くらいのとき突然、仕事の話をされた。

「ねぇ、働いてみない?吾輩が紹介してあげるよ~。ま、紹介すると言うより吾輩と働いてみない?」

「…何を、やってるんすか?」

「詐欺だよ。」

にやっと、紫黒さんは笑った。“詐欺”つまり“一緒に犯罪をしよう”ということだ。

「それは、流石に…」

「う~ん、やっぱり乗り気じゃないかぁ。吾輩の、代わりが欲しかったんだけど。」

「代わり?」

「実はね~心臓病を患ってて、そろそろ辞めようと思うんだけどぉ、代わりを用意しなきゃ辞められないんだ。だから、ね?」

この人の職業が分かってしまった以上、その言葉が嘘なのか本当なのか分からなかった。仕事は欲しいけど、人を騙す仕事か…。でも、この人には凄くお世話になった。恩を仇で返すわけにはいかない。

「分かり、ました。やってみます。」

「わぁ!ほんと?じゃあ、早速明日アジトに行こっか♪」

「……」

次の日、本当にアジトに行くと、色んな人がいてほぼヤクザの事務所と変わんないと思った。そして初めて来たのに一つ仕事してこいと言われて驚いたけど、やるしかなくって指定の喫茶店に行くと女性が座ってた。今から、この人を騙す。罪悪感、不安、恐怖。色んな気持ちが織り交ざった。説明が下手かもしれない、騙せないかもしれない、そう思ってたのに…

「まぁ…そんな大変なことが。分かりましたわ。この銀行に振り込みます。」

…騙せた。いとも簡単に。精一杯の笑みで「ありがとうございます」と言ってその日は終了した。「終わった」と紫黒さんに報告すると「お疲れ」と抱きしめてくれた。ホント怖い、この人。今更遅いけど、ヤバい人と関わったかもしれない。…それから一ヶ月後、紫黒さんは亡くなった。ホントに心臓病だった。路面電車で倒れてそのまま帰らぬ人となった。遺言は、俺のコードネーム。俺が二番目に慕ってたおっちゃんから聞いた。

(師範…あの子の、コードネーム。つけるの忘れてた。吾輩のコードネームから紫を取って…“紫雲 司”そう、名付けて…)

そう言って息を引き取ったみたい。昨日まで、元気だったのに…。父さんと、同じ。

「…紫黒さん…」

もう、帰る場所もないから貴方がいなくなってもここに居るしかない。それから俺は、とにかく人を騙していった。慣れないこともいずれ慣れると思って。…そんな日々のある日、京子さんに俺は出会った。

  ◆

「最近、墓参り行けてない…。」

「よ。」

「…おっちゃん。起こしちゃいましたか?」

「いや、たまたま。隣いい?」

「はい。」

おっちゃんは隣にどかっと座り、よく見ると右手にウィスキーを持ってた。

「まだ、飲むんですか?」

「飲み足りなくてなぁ。」

「え~…」

開けるや否や、そのまま飲み始めた。割らなくていいのかよ…。ドン引きしてる俺の横で水の様に勢いよく飲んだ。そして半分まで飲み、一回口を離した。

「…昔の事でも、思い出したのか?」

「え?」

「地味に泣いてるからよぉ。」

「泣いてなんかないですよ。…思い出してたのは、正解ですが。」

じっと俺を見つめた後、もう一度ウィスキーを飲んで前かがみに体制を変えた。

「…我はぁ、酔っぱらってるから、酔っぱらいの小言だと思って聞いてくれ。」

「は、はぁ。」

「…我さ、愛する人と別れたときすげー後悔した。地獄とも言える孤児院からやっと抜け出せて、掴めた幸せなのに…自分から捨てた。」

「……」

「今のお前らみたいに、我らも体格差があって我が屈んでも身長ちっせーから、つま先立ちして、我の頬に触れながら“武ちゃん、武ちゃん”って呼ぶの可愛かった。恥ずかしいから、毎回やめろって言ってたな。」

長い前髪から覗くおっちゃんの目には、光が宿ってて少し涙を浮かべてるようだった。

「えっと…何を、俺に伝えたいんですか?」

「……」

グイっと飲んで、台所へおっちゃんは向い水を茶のみに入れながら口を開いた。

「少なくともさ、天方さんはてめぇの名前を呼んでるだろ?その時、お前はどう思った?」

「っ……」

「全部を諦めるっててめぇは言ったけど、本当にどうしたいか考えろ。…お前はお前らしく生きろ、紫黒の口癖。忘れてねぇだろうなぁ。」

「覚えて、ますよ。」

「…囚われの姫さんを助けるのは、別の男か。てめぇじゃなかったんだな。そこまで、おとぎ話にならねぇか。」

「……」

囚われの、姫。…京子さん…。ぽつりと彼女が呟いた言葉が脳裏に響く。

(遠くへ、遠くへ…私を知らない場所へ、行ってみたいです。もう一度、自由に…なってみたいです。それが、私が死ぬまでの願いにございます。)

本当は、全部を諦めたくない。けど、けど…“俺じゃなくても、きっと誰かが彼女を救う”と、思ってしまう。

「我はもう一度寝る。お前も眠れなくとも寝とけ。明日も仕事だろ?」

「あ、はい。」

「おやすみ。」

おっちゃんが出て行った後、もう少しだけボーっとした。

〈ね。吾輩がこの道を無理やり歩かせちゃったけど…君は、せめて君らしく生きて。〉

紫黒さんが初めて笑った瞬間。憂いを帯びた笑みだった。…後、四日。短いこの期間で覚悟を決めよう。そう心に近い、俺も眠りについた。

  ◇

【四日目】

「ねぇ、どこか行きたいとこある?」

「…特に。」

「ホントに?」

彼女は少し、悩んでぽつりと呟いた。

「電気館…映画を見てみたいです。いかがでしょう?」

「良いね。」

俺らは馬車に乗って、電気館まで向かった。その間も話をした。

「映画は耳にしたことありますが、行ったことないのです。」

「僕も何気に初めてだよ~。」

「…楽しみです。」

やがて着き、端っこのほうに座った。…永遠と、無音の時間が流れる。映画ってこんなもんなんだ。足を組んで、ボーっと眺め、ふと彼女を見た。本当に人形になっちゃったのかと思うほど。微動だにしなかった。無音だから、話しかけたら他の人に迷惑になるだろう。にしても、光になぞられてる横顔…綺麗だな。うっかり、じっと見つめていたら視線に気づいたのか、彼女が俺を見た。ばっちりと目が合い、そして、彼女は微かに微笑んだ。

「っ⁉」

滅多に見せないから、不意打ちはずるい。暗い中で良かった。顔が、真っ赤だ。それでも俺は、彼女から顔を逸らした。そして、微睡んで寝落ちしかけたとこで館内が明るくなった。

「もう終わったの?早いような、丁度いいような…。」

「そうですね。あっという間でした。」

「…楽しかった?」

「あまり…。」

「やっぱ?」

俺があっけらかんと笑いながらそういうと、「ふっ」と言い、彼女は初めて、コロコロと笑い始めた。微笑むだけだったのに。…あぁ、少女だ。本当に。可愛い。うん、可愛い。おっちゃん、俺は認める。俺は、京子さんに…惚れている。

「…映画、初めてだったのであんな感じだと思いませんでした。どこか、もう少し面白い場所に行きません?」

「いいね。君が行きたい場所、全部連れてくよ。」

「ありがとうございます。しかしながら、あまり私は分からないので司様は何か提案ありますか?」

「ん~…あ!じゃあさ、ここの近くなら花やしきに行かない?」

「何でしょうか、そこは。」

「楽しーとこ♪」

「行ってみたいです。」

「徒歩で行けるから、歩こっか。」

「はい。」

それから、花やしきに着き色々楽しんだ。彼女も、楽しそうで何よりだ。明日も、彼女が望む場所へ連れて行こう。せめて、今ある幸せを噛みしめたい。

「…京子さん。」

「はい?」

「明日は、どこに行きたい?」

そう聞くと、瞬きをし、少し悩んだ。

「司様とならば、どこでも楽しいです。誰かと一緒に行けば、どこも楽しいのは…司様が、初めてです。」

「そっか。…僕も…」

”僕も楽しい”そう言いかけた言葉を、飲み込んだ。言ってはいけない気がした。それを言ってしまったら本格的に、超えてはいけないラインを越えてしまいそう。

「司様?」

「…ううん、何でもない。今日も、ありがと。京子さん。」

「こちらこそ。また、カフェ前まで?」

「うん、お願い。」

馬車に揺られ、カフェと向かう。また、今日という日が終わった。それと同時に、俺の穏やかな日が終わる。終わらせたいけど、終わりたくない。前かがみ座り、彼女の横顔をまた覗いた。…あぁ、愛おしい。やはり、ぱっちりと彼女と目が合った。

「司様?」

「何?」

「先ほどから私の顔を見ていますが、何かついていますか?」

「…何もついてないよ。ただ、綺麗だなって。正面で見ても、横から見ても。」

「っ!」

夕日のせいか、はたまた照れたのか、彼女の顔は赤かった。暫くして、カラカラと馬車は、東京駅前を通った。

「何の建物ですか?とても素敵な建物です。」

「東京駅だよ。」

「駅。もしかして汽車とかありますか?」

「うん、あるよ。」

「…そうなんですね。」

オレンジのような赤のような、目の前を通り過ぎるまで彼女は眺めていた。

「あ。そうだ。明日は芝居を見に行きません?芝居というか、演劇を。」

「演劇。それも久々です。はい、見に行きたいです。」

「OK」

やがて、いつものカフェ前。俺が降りた後、彼女は小さな小窓からひょっこり顔を出した。

「…では、いつものカフェ前で。」

「うん。」

場所に顔を引っ込めると、馬車は去っていく。馬車に手を振り、俺も帰宅する。冬の冷たい匂いが、相変わる鼻腔を抜ける。たっぷりと吸い、また白い息を吐く。肺が空っぽになるほど。

「帰ろ。」

金は、おっちゃんにねだればいっか。

  ◇

【五日目】

帝国劇場。意外とでかくてびっくりした。この日はシェイクスピアの“ロミオとジュリエット”を公演していた。約三時間で終える。それを見た後は、のんびりと散歩。今までで一番高いデート。けど、君のためならいくらでも払う。

「私も、半分払いましょうか?」

「ううん、いいよ。僕が払う。」

「…ありがとうございます。」

ほんの少し端っこの席。通路側に彼女。俺の席に座らせても良かったけど、俺の隣があいにく小太りのおっさん。彼女がトラウマの症状を引き起こしてしまうから。「大丈夫?」そう声をかけると、こくんと頷いた。…何気に演劇は初めてだ。歌舞伎や能は、父が勉強のためとよく一緒に見に行った。

「…演劇も、初めてです。なので、とても楽しみです。」

「そっか。奇遇だね。僕も何気に初めてだ。」

「そうなんですね。意外です。」

「意外?」

「司様のような方なら、見に行くような雰囲気がございましたので。勝手な想像、申し訳ありません。」

「ううん。謝らなくていいよ。確かにそうだね。僕もそう思ってるから。」

そう言った次の瞬間、始まりを告げるブザーが鳴った。そして幕が開き、劇が始まった。昨日とは打って変わって賑やかで派手、されど何処か寂し気な世界。…こうしていると、自分は普通の男と錯覚する。いや、錯覚ではない。俺は元々普通の男だった。この世界に踏み込んだばかり…。俺は、はっとし、首を横に振った。君と会うと、いつもこんなだ。後悔、罪悪感、自責の念。負の感情が胸の内に生まれる。紫黒さんの恩返しって言って、自分から踏み込んだじゃないか。

「…様…司様…?」

「っ」

彼女が、俺の顔を覗き込んでいた。そしてこそっと声をかけてくれた。

「具合が悪いのですか?一旦、出ましょう?」

「…平気、だよ。せっかくの演劇だ。楽しまなきゃ。」

俺は心配させないように微笑んだが、彼女はキュッと唇を結び次の瞬間、グイっと俺を立たせた。

「京子さん?」

「司様と一緒でなければ、楽しくないと申したでしょう?」

「……」

「気分が優れないなら、無理せず外に出ましょう。」

彼女は扉近くにいた警備員に事情を話して俺らは外に出た。近くのベンチに座り、深呼吸をした。冷たく爽やかな空気が俺の肺を満たした。

「ごめんね、京子さん。」

「謝らないでください。無理して見続けるほうが、私は心苦しいので。」

「…京子さん。」

「はい?」

「ほんの少しの間、抱きしめても良いですか?」

「え…?」

彼女は玉響に悩んだ素振りを見せたが、ギュッと抱きしめてくれた。ほんの少し温かく、柔らかい甘い匂い。

「…落ち着く。」

「そうですか?」

パッと顔を上げたが俺とばっちり目が合ってしまった。その瞬間、彼女の頬はぶわっと赤くなり、俺から離れそっぽを向いた。

「京子、さん?」

「い、今は一旦…私を見ないでください…。」

そうは言われても、初めての反応が可愛かったからついじっと後ろ姿を眺めてしまった。耳まで赤く、火照った頬を冷ますようにパタパタと手で仰いでいた。ずっと見てたい…。

「…ね。京子さん。」

「は、はい。」

「途中で戻っても、内容分かるかな?」

「…あ。」

「だったらさ、このまま散歩しない?別のカフェにも行こ?」

「そうですね。ごめんなさい、後先考えず。」

「ううん。僕のせいでもあるからさ。」

彼女は、シュンとした表情を見せた。俺の事を考えて行動したのに、裏目に出てショックだったのだろう。俺は、そっと手を差し伸べた。

「行こ、京子さん。演劇はまた見に行けばいい。」

「ですが…」

「僕と居れば、楽しいんでしょ?」

「……」

自然と出た、口説き文句。彼女は、顔を赤くしなかったのに今は、乙女のように顔をほんのり顔を染めていた。俺に落ちた証で、喜んでいいのに…喜べない。そうだ。彼女の顔が赤いのは、さっきの出来事のせいだ。そう、思っとこう。ぶらぶらと町中を歩き、お昼は蕎麦屋で食べた。両親に怒られても、食べたいと彼女は言った。蕎麦屋には似合わない、綺麗で凛とした彼女だが、美味しそうに蕎麦を食した。

「…美味しい?」

「蕎麦、久々です。とっても美味しいですよ。」

「良かった。」

「…フゥー…フゥー…」

食べる姿も、美しくて、見惚れてしまう。自分の蕎麦が伸びるのも厭わない。僕に、“時を扱える魔法”があれば時を止めたり、戻せたり出来るのになぁ…。

「司様?」

「!何?どーしたの?」

「冷めちゃいますよ。」

「冷めても美味しいし、へーきだよ。」

「…食べてください。じっと見られてると食べにくいです。」

「あ、気づいてた?」

「気づきます。…どうして、私をじっと見るのです?」

「…綺麗だから。それ以外、理由はない。」

「司様は、本当に私を褒めてくださりますね。久々の感覚で、くすぐったいです。」

彼女はクスっと笑ってそう言ったが、自然と、毒を吐いてしまった。

「…嘘かもしれない、って言ったら?」

「……」

瞬きをし、また、微笑んだ。

「まさか。司様の言葉全部、本物ですよ。」

ちくっと、胸にほんの少しの痛みが宿った。純粋無垢なその言葉が、俺の心に染み渡る。

「うん、そっか。…そっか。」

俺も、一口蕎麦をすすった。ほんの少し生温くなった蕎麦を。蕎麦屋の後も散歩を続けた。と、後ろを歩いていた彼女の足音が消えた。振り返ると、ぽつんと建った花屋をじっと見ていた。

「…どうしたの?」

「え。あ…。あの、少し…花屋を見ても良いですか?」

「うん。良いよ。」

彼女の表情はどこか嬉しそうだった。あぁ、花も好きだったな。メモ帳に書いた記憶がある。店に入り、彼女はキョロキョロと眺めた。

「いらっしゃいせ。」

「…司様、どれも素敵ですね。」

「色んな花があるね。」

「あ、あの赤い薔薇。綺麗…。」

「買う?」

「いえ、それは大丈夫です。花瓶に挿して愛でたいだけでも、生け花と決めつけられて、飾れないのです…。最近もじいやに頼んで花瓶に挿したのですが…。」

「行動するだけで偉いよ。せいちょーしたね、京子さん。」

「ありがとうございます。…花屋さんで、こうして見るだけで幸せなので、購入するのは大丈夫です。」

彼女はそう言ってはにかんだ。そろそろ馬車に戻ると彼女は言ったが、俺はもう少し見ると伝えた。彼女が馬車に乗るのを確認し、店員に声をかけた。暫くして、馬車へと戻った。

「ごめん、遅くなっちゃった。」

「構いませんよ。」

「…はい、これ。」

「え…」

「誰かの贈り物って言ったら、だいじょーぶだよ。きっと。」

僕は、そう言って五本の薔薇の花束を渡した。彼女は驚きながらも受け取り、そっと抱きしめた。

「ありがとうございます。大切にします。」

「喜んでもらって、嬉しいよ。」

いつものところまで、彼女はずっと嬉しそうだった。俺はその光景を眺め、幸せに浸った。あっという間についてしまい、彼女はまた小窓から、別れを告げた。

「また、明日。ここで。」

「うん。」

馬車に手を振り、俺も帰る。演劇、いつか見に行けるといいな。

  ◇

「…ただいま戻りました。」

「おかぁえりぃ~…ってぇ、なぁーに?またぁ、花を買ってきてぇ。」

継母は案の定、私から奪おうとした。けど、私は学んだ。ひらっと交わし、背を向けながら言った。

「贈り物で貰いました。これは私のものでございます。」

「生け花なんてぇなんせんすなんだからぁ!」

「…私はただ、花瓶に挿し愛でたいだけなのです。私の部屋に入ってまで、奪うなら一生貴方と口を聞きません。」

「ぐぬぬぬ…」

継母は何か言いたげだった。…初めて、継母に口答えをした。何だろう。達成感が胸に満ちてる。いそいそと部屋に戻り、花束をベッドに置いてから花瓶を探した。丁度いいのがあり、そっと挿した。夕陽に照らされる薔薇は、何とも綺麗だった。司様からの、初めての贈り物。私は、この上なく、幸せだった。異性から初めて貰った幸せ。

「司様…。」

貴方が、私の伴侶であれば、なんとも幸せだったのでしょう。私はいつの日からか、そんな事ばかりを考えていた。貴方との時間が、永遠に終わってほしくない。貴方が、私をここから助け出してくれる、なんて想像もしている。目を伏せ、外を見た。青と紫とオレンジの空。明日は、一体…何色の空何でしょう。

  ◇

【六日目】

「……」

目に見えて、彼は元気がなかった。だけど、心配したら、貴方は作り笑顔をする。私にとってそれは辛い事。だけど、声をかけたい。

「司様?」

「へ!な、何?」

「何か、悩み事でもあるのですか?」

「ううん、大丈夫だよ。」

やっぱり作り笑顔をした。どうして、作り笑顔を見せるのでしょう。

「本当に、大丈夫ですか?司様、最近ずいぶんと顔色が悪いですよ?」

「…ありがと。心配してくれて。優しいね、やっぱ京子さんは。」

「心配しますよ。そんなに元気がないのなら。」

「…疲れた。最近、寝れてなくて。」

ぽつりと彼は呟いた。よく見れば、クマが酷い。私はふとメニュー表を見た。目的の飲み物があるか。

「あ、ありました。」

「何が?」

「カモミールティーです。紅茶なんですが、眠れないときはこちらを飲むと良いんですよ。頼みますか?」

「…お願い。」

暫くして、林檎のような甘い匂いを漂わせたカモミールティーが届いた。

「お砂糖は?」

「じゃあ、ミルクと一緒にお願い。」

マスターに声をかけ、ミルクと何故かシュガ―ポットごと置かれた。小皿に何個かではないのでしょうか。彼は二つだけ砂糖を入れ、クルクルとかき混ぜた。そして一口、飲んだ。

「…いかがでしょう?」

「うん、美味しい。確かに落ち着くね。」

「良かったです。」

「…京子さん。」

「はい。」

「今日は、どこにも出掛けなくていい?ずっと、君とお話していたい。君の声を、聞いていたい。途中で眠ったらごめんね、君の声…すごく心地いいんだ。」

「い、良いですよ。」

「ありがと。」

…司様は、本当に私の隅々まで褒めてくださる。何か些細な失敗でも、怒られない。一緒に居て、やっぱり安心する。いつか、いつかありのままの姿で、貴方の傍に居たい。

「そういえば、初めて継母に反抗しました。やはり花束を没収しようとしていましたので。」

「スゴいじゃん。偉いね…成長して。」

「あの薔薇に、いつも起きた時と寝る前に挨拶をしているんです。後、色んな世間話を。使用人も話し相手なので、忙しい時がありますので。」

「…そうなんだ。ちょーいいじゃん。」

「私の部屋、これと言ったものがなかったのですが、薔薇のお陰で明るくなった気がします。」

「花があるだけで、雰囲気変わるよね。僕も、一番好きな花があったら手折りたい。」

「司様の好きな花は、何ですの?」

「…そうだね…。トリトマとコルチカム、それからネリネ。」

「まぁ!奇遇です。私もネリネが好きです。それからペチュニア、アスチルベ。どれも母が教えてくださった花なんです。」

というと、彼はふっと微笑み一口カモミールティーを飲んだ後、口を開いた。

「…どれも、君らしいや。」

「え?」

「何でもない、独り言。」

彼はまた笑った。作り笑いではない、本当の笑顔を。

「…やはり、司様といると心が温かいです。いつまでも、お話をしていたいような。」

「……」

「私は…司様といると、幸せです。貴方様に出逢えて、嬉しいです。」

「京子さん。」

「はい。」

「手、握らせて。」

「?…どうぞ。」

私はそっとテーブルに両手を置いた。すると彼がギュッと包み込み、引き寄せ、トンっと握った手に額を当てた。

「司様?」

「…僕も、幸せだ。この上なく、幸せだ…。もう少し、早く…京子さんに出逢いたかった。」


「司、様。」

と、私の指先に温かい何かが弾けた。…泣いている。司様が。ちょうど今日は、お客様が少なかった。私は、司様の手をほどき立ち上がり、司様の横に立ち、抱きしめた。頭を抱え込む様に。

「京子、さん…?」

「辛いときは、泣いたり誰かに頼るのが一番です。私も誰かに、してほしかったことです。」

「……」

そっと頭を撫でた。司様は背が高くて、正面から抱きしめた場合、私のほうが抱きしめられてしまうけど、こうしてなら、抱きしめたという感覚が確かにある。

「涙は弱さではありません。明日の自分を、勇気づけるための涙です。今日はたくさん泣いて、また明日お話しましょう。私はいつでも貴方を待っていますから。」

「…京子さん…」

「何でしょうか。」

「…明日、一時にこの前に…集合でも良い?」

「カフェに、入らないのですか?」

「うん。」

「分かりました。」

暫くして、彼は泣き止み濡れてしまった部分を拭いてくれた。…会計をして、私を馬車まで届けてくれた。

「…迷惑かけちゃったね。」

「いえ。私は気にしておりません。」

「拭いたとしても、汚れたら…あ。」

「…そういうことです。」

私は彼の手を借り、馬車に乗った。いつも通り、窓から顔を出し彼を見て挨拶をしようと口を開いた瞬間、彼のほうが言葉を紡いだ。

「京子さん」

「はい。」

「ごめんね。」

「…?先ほどの、ことですか?」

「ううん、違う。違う、けど…それでいっか。」

「司様、泣くことは良いこともありますから。自分を責めないでくださいまし。」

「…ありがと。」

「では、また明日。」

「また明日。」

窓から覗くと、彼は見えなくなるまでいつも手を振ってくれる。…また明日、彼とお話が出来る。司様に出逢えてから、明日を生きるのが楽しい。

  ◇

彼女を見届けた。もう、見ることのない光景。俺はその場にしゃがみ込んだ。ずっと言わないようにしていた“ごめんなさい”“幸せだ”“もっと早く君に出逢いたかった”ついに零れてしまった。俺は、人間の心が残ってるんだな。おっちゃんの言う通り。…辛い、苦しい。君へ愛を憶えてしまったからもう誰かを騙す道を歩けない。ごめんなさい、紫黒さん。俺はもう、駄目です。…心を落ち着かせた後、アジトに戻った。丁度よく、おっちゃんがいた。

「…どした。朝っぱらから元気ねーけど、更に悪化したな。」

「おっちゃん。」

「何だ?」

「今までお世話になりました。」

「……」

「明日、紫黒さんの墓と両親の墓に行ってきます。それで、その…」

と言い淀んでいると、おっちゃんが無言で一本の煙草を差し出した。

「…吸えよ、煙草。ライター持ってんだろ。」

「あ、はい。」

煙草を受け取り、おっちゃんの隣で吸った。

「結局、諦めんのか。」

「…彼女は、俺の傍にいると安心すると言ってくれて、俺も安心できますが…自分の立場が闇へと引き摺り戻す感覚に苛まれるんです。」

「そっか。」

「もう後悔はないです。明日で最後です。」

「…お前が選んだ道だから、咎めねぇよ。普通に生きろ。」

おっちゃんは煙草を地面に落とし、ぐりぐりと消した。「仕事に行ってくる」と言い、背を向けた。

「…武文さん!」

おっちゃんは、くるっと振り返った。俺は深々と頭を下げた。

「本当に、ありがとうございました。武文さんの言葉、全部教訓としてこの胸に刻み込みます。」

「…優介」

俺ははっとし、顔を上げた。俺の本当の名前を、呼ばれたような気がしたから。

「元気でな。」

「…はい。」

おっちゃんは穏やかな笑みを浮かべ、ひらひらと手を振って去っていった。もうあの笑みを見ることも、この場所に戻ることも、ないだろう。

  ◇

【七日目】

朝、最初に両親の墓へと行った。ガザニアの花があったので購入し、そっと供えた。もうここには戻らないこと、初めて心から好きだと思えた人に出逢えたことを報告した。次に路面電車で移動し、紫黒さんのお墓に向かった。途中で買った赤いポピーとゼラニウムの花束を抱えて。暫くして着き、墓を目指し歩いた。到着すると、すっかり汚れ蜘蛛の巣が酷い紫黒さんの墓があった。俺は一旦、桶と柄杓を取ってきて一生懸命洗い流した。見違えるほど綺麗になり、しゃがみ込んで話しかけた。

「…お久しぶりです、紫黒さん。なかなか来れず、すみません。」

そう言い、何もない花立に持ってきた花を挿した。…俺は両親に話した内容とそっくりそのまま紫黒さんに報告した。プラス詐欺師を辞めることと、この町を出ていくことを伝えた。

「やっぱり、人に触れることは温かったです。知ってしまった以上、誰かを騙す仕事は向いてません。恩を仇で返してしまい…申し訳ないです。」

その時、ふわっと風が吹き紫黒さんが好きだった煙草のフレーバーの匂いがした。

〈恩を仇でなんか返してないよぉ。辛かったね、ごめん。まともな仕事を紹介すれば良かった。〉

つむじに、感じるはずのない温もりを感じた。“頑張ったね”そう褒めてるときに俺の頭を撫でたような。また俺は、じわっと涙を浮かべたけどグイっと拭った。

「…罪の影は、決して消えませんよね。それでも、反省して、醜い生き方でも、生き続けます。」

俺は立ち上がり、深々と長くお辞儀をした。ここに居ると、紫黒さんがそこいる感覚がして、ずっといたくなってしまう。背を向けたら、振り返らない。決して。路面電車に乗って、いつもの所…の前に花屋に俺は向かった。

「すみません、この花。女性でも抱えるくらいの大きさの花束にしてください。」

今は十時半。十二時くらいに出来ると言われたから近場で昼ご飯を済ましブラブラしてから花屋に戻った。丁度出来上がったから受け取って、約束の場所へ歩いて向かう。…俺は…俺は、京子さんが好きだ。穢れの無い、純粋な気持ち。多分、彼女が初めて微笑んだ日から、芽生えたのだろう。あまりにも、愛らしくて、穏やかで、誰もが一目見れば、惚れてしまうような笑み。俺もその虜に、なっちゃった。今、君に逢いに行くけど、またその笑みで俺を迎えるのだろうと容易に、想像できる。

「…愛してるの言葉は、ストレートすぎるか。」

自然と、口から零れた言の葉を君にあげよう。この花束と共に。…気づけば十二時前にいつものとこに着きそう。と、カフェ前にモダンガールが一人、立っていた。今日の服は、初めて君に出逢ったときに、来ていたワンピース。真っ赤な口紅に耳隠し。伏し目がちで切なげな瞳。いつまでも、見てても、飽きが来ない。と、パチッと彼女と目が合った。その瞬間、彼女の瞳が輝いた。早歩きでちょこちょこと俺の傍に寄ってきた。

「司様。」

「…京子さん。待たせちゃった、かな?」

「いえ、今来たところにございます。」

「そっか。」

「…その花束、どうなされたのですか?」

答えるより前に、俺はそっと彼女の髪に触れた。

「今日も、モダンガールなんだね。」

「えっと…今日も、というより毎日ですが…。継母が有無を言う前に着せてしまうので。」

髪の毛から、頬に触れ、顎を少し持ち上げた。

「…一度でも良いから、君の着物姿が見たかった。」

「……」

「今日は、月が綺麗らしいよ。京子さん。」

触れてた手を退け、花束を渡しながらそう言った。京子さんは終始キョトンとしていた。またそれが、愛おしい。じっと、花束を見つめてる間に俺は、雑踏へと姿を消した。

「…ありがとう、ございます。司様。こんな素敵な花束を。私の好きな花…」

そっと陰から彼女を見る。辺りを探す彼女。ごめん、京子さん。本当は抱きしめたい、キスもしたい。路地裏で、声を殺しただ泣いた。彼女が俺の名を呼ばなくなる、その時まで。

  ◇

「司様!司様!」

貴方から貰った二度目の宝物が嬉しくて、夢中になって眺め、ふと顔を上げたら貴方はもういなかった。私の声が小さすぎて、雑踏へと霧散していく。探したいけど、この宝物が潰れてしまうかもしれない。どうしていなくなったのか分からない。分からないけど、また明日。このカフェに来れば、貴方はいるかもしれない。いつもの笑みを湛えて。じいやに、屋敷へ帰るよう伝えた。

「…お嬢様。」

「何?」

「ハンカチ、いりますか?」

「…いらないです。」

「かしこまりました。」

…ギュッと花束を抱き締めた。あぁ、寂しくて、胸が押しつぶされそうなときの涙、久しぶり。私は、本当に貴方に恋をしていたんですね。初めて、誰かを愛せました。

「…司様…」

気づいたその時から、素直に伝えれば良かった。けど、過去の事を思い出してしまい、なかなか言い出せなかった。…気づけば、家に着いて、自室に向かった。花束を抱きしめたままベッドにごろ寝した。花束だけは花瓶に挿さなきゃいけないのは分かっている、けど、今は何もしたくない。

「ネリネ…の、花束」

私が、一番好きな花。十五本の花束。そっと抱きしめ、微睡みかけたその時、自室のドアを思い切り叩く音がし、目が冴えてしまった。予想はついていたけど、開けなきゃしつこく鳴らすから、渋々開けるとムワッとした香水の匂いが鼻腔を突き抜けた。隙間だけ開けて話をした。

「もぉう!どぉしたのぉ?帰ってくるなりぃ部屋に籠っちゃってぇ。」

「…そっとしておいてください…」

「どぉしてぇ?あたくしは貴方のぉ母親なのぉ?」

「…母親と名乗るなら、空気を呼んで…話しかけてこないでください。」

「母親だからこそぉ心配するのよぉ?」

「今は本当に、そっとしておいてください。」

「何でよぉ!…あ!」

女性と思えない力強さで扉を押しのけ、私はよろめいてその場に尻もちをついた。

「京子様!」

和心が駆け寄ってくれた。扉の向こうには使用人が何名かいた。そんな事よりも、継母…

「っ‼」

私の宝物に許可なく触れ、まじまじと見ていた。

「まぁーた花束ぁ?男の人から貰うならぁもっとせんすのあるものぉ貰いなさいよぉ。」

「その花束!そこに、置いてください!」

「だぁーめ、これはあたくしが許可してないでしょぉ?この薔薇も嫌だったのにぃあんたが反抗するからぁ。」

「私の物に、触れないで!」

衝動的に、継母に掴みかかり花を取り返そうとした。

「ちょっと!何よぉ!これは没収ですぅ!」

「もうこれ以上、私から大切なものを奪わないで!」

「貴方からぁ奪ったものなんてぇないじゃない!全部ぅ母親としてのぉ!」

「貴方は母親ではありません!私の母は、貴方に殺されました!」

「「え…」」

使用人がざわめきだした。

「っ!なぁんてぇことをぉ言うのぉ?あの子はびょーきで死んだのぉ!」

「では、葬式での笑みは何だったのですか?」

「……」

「何だったのですか?」

「…な、何かのぉ見間違いじゃなぁい?あ!あたくし用事を思い出したわぁ。」

継母はそう言い、花束をポイっとベッドに投げそそくさと逃げた。私は窓を開けた後、花束をそっと抱きしめた。

「…申し訳ありません。私たちも止めたのですが、母親の役目と聞いてくださらず…。」

「良いのよ。…和心。」

「はい。」

「七時、十二時、十九時半に扉横の棚の上に食事を置いて。あの人達にはもう、関わりたくないの。」

「かしこまりました。」

「朝ごはんの後は着物に着替えさせて。」

「え。あ、かしこまりました。」

「…今更になって、吹っ切れたわ。私はもうあの人のビスクドールにならない。着物も何着かお願い。何か言ってきたら無視しなさい。」

「分かりました。」

和心含め、使用人たちは退散した。部屋の中はなかなか香水の匂いが抜けなかった。暫く、窓を開けましょう。…司様…明日、着物姿であのカフェに行きます。きっと貴方がいると信じて。その夜、五本の薔薇と十五本のネリネを眺めながら一人食事をとった。久々の料理長の料理は絶品だった。

  ◇

【八日目】

「いらっしゃいませ」

いつも約束している時間にいつものカフェ。じいやからお金を貰った。

「ミルクセーキ、一つ。ホットで。」

今日は雪も降らず、ただただ寒い。暫くしてコトっとミルクセーキが来た。少し冷まし一口飲んで、外を見た。寝ても覚めて貴方を想う。十代の娘が抱えるようなドキドキする恋心、初めて。私は、夕方までカフェにいた。ミルクセーキを飲み終えても。

「…来なかったわ。」

初めて、自分で払う。じいやがくれたお金で足りた。カランと外に出るとじいやが待ってくれていた。

「明日は?」

「…来るわ。明日も、お願い。」

「かしこまりました。」

馬車に乗り、屋敷へと帰った。その間もずっと外を眺めた。あの方の髪色は特徴的で憶えてる。けど、やっぱり、いない。家に着き、昨日の事を忘れたかのように継母が迎えにひょっこり現れ、「どうして着物なの」と騒いでるが、無視を決め込み、自室へ籠った。

「…ただいま。」

花瓶に挿した花に話しかけ、机前のソファーに座った。明日も、あのカフェへ行く。…貴方の声が聞きたいから。

「司様。」

愛おしい人の名を呟く。絶対に、貴方に逢えたら伝えます。

  ◇

〈同刻〉

「…フゥゥ…」

誰もいない路地裏で煙草を一服。・・・あの後、自然と俺の足はアジトに向かってて、入り口んとこでハッとなった。まずいと思って引き返そうと踵を返すとおっちゃんがアタッシュケースを持って立っていた。

「おっちゃん?」

「……」

無言で近づいてきたから、怒られると身構えたらずいっと持っていたそれを俺に渡した。

「おっちゃん?」

「戻ってくると思った。癖がついちまってるからな。でも、良かった。」

「良かっ、た?」

「…これ、やる。持ったらさっさと行きやがれ。ここに居たら、頭と胴体がさよならする。」

「…あり、がとうございます…」

受け取り、ずっしりしたそれを抱え、お辞儀してから走り去った。そして、今に至る。

「ふらふらと歩いたけど、まだこの町からは離れてないんだろうな。」

…自分で決めたことなのに、未だに君を想う。今何しているのか、元気なのか。君を忘れたいけど、忘れたくない。後悔したくないのに、後悔してんじゃん。自分。

「…どうせ気づかないよね。あの紙切れに。」

明後日には東京駅に着くようにしよう。俺はアタッシュケースを持ち上げ、歩き始めた。

  ◇

【九日目】

私は今日もいつも通りを過ごす。…心のどこかで、来ないと知っても。

「…お客様。」

「はい。」

「こちら、サービスです。」

「サービス?どうして。」

マスターはにこりと微笑み、去ってしまった。…このホットケーキは、好意として受け取ることにした。ふわっとした感触と柔らかい蜂蜜の甘さが絶品。美味しい、けど、何故か美味しくないと思ってしまう。ふと、前を見た。…貴方が、“美味しい?”なんて話しかけてくれるから、何倍も美味しく感じるのね。いつも強がって、“別に”と言ってたけど、本当はうんと美味しく感じていた。食べ終わり、そっと窓を見た。

「…司様…今日ね、」

彼に話しかけるように、独り言のように、ぽつりぽつりと呟いた。それからしばらくして、また夕方に席を立った。会計時、マスターに話しかけられた。

「あの人を、待っておられるのですか?」

「え。あ…そうですね。」

「…運命の赤い糸、信じてますか?」

「赤い、糸?」

「運命の人には、繋がってるみたいですよ。なので、信じていれば再会できるんじゃないでしょうか。…まぁ、爺の独り言ですので。」

「…ありがとうございます。あ、ホットケーキのお金も。」

「いえいえ、言った通りサービスですので。」

「ですが…」

「あれ、実は今日入った新人が初めて成功したものでして。それで我々で食べるのも、となった時、お客様は貴方一人だったので。」

「本当に、良いのですか?」

「はい。」

言葉に甘え、ミルクセーキだけ払い馬車に向かった。明日は、どうしよう。…もう少し、遠くへ、行こうかしら。

  ◇

まだ、閉店じゃないと信じて、いつもんとこにまずは向かった。まだ、電気がついてた。良かった。カランと開けるとマスターと目が合った。

「おや。」

「…久しぶり、マスター。」

「もう少し、早く来ていればいいものを。」

「ん?なんで?」

「…来てたんですよ、彼女。」

「……」

「他人の私が、口出しするようなことではございませんが…寂しそうでしたよ。」

「……」

来てたんだ、京子さん。もう俺はここに来ないのに…。俺はギュッと胸の辺りのシャツを握った。痛くて、切なくて、申し訳ない気持ちがぶわっと湧いた。

「…いつもの、モダンガールだったんですか?あの…ワンピース。」

「いいえ。…着物姿でしたよ。桔梗紫の素敵な着物でした。」

「!」

俺と、いつでも再会できるように、着物姿でいてくれるの?…まさか、ね。

「何か、飲みますか?」

「え!で、でももう閉店でしょ?」

「大丈夫ですよ。貴方は常連ですし、私はここのオーナーです。新人君はもう上がらせるから。」

マスターは穏やかに微笑み、奥にいた従業員を帰らせた後、飲み物を作ってくれた。暫くして、珈琲の良い匂いが店に漂った。

「…はい、珈琲。砂糖は十二個入ってるよ。」

「ありがと、マスター。」

久々の甘ったるいブラック珈琲。何とも美味しかった。

「はい、これも。」

「え!良いんですか!甘い物、ちょー好きなんです。」

「良かった。」

ほかほかのホットケーキ。何気に初めて食べる。

「うんま~。最後の食事がこれなんて幸せ。」

「最後?」

「…うん。この町から、出ていくつもり。誰も知らない土地で更生する。」

「何か、悪事でも働いたのですか?」

「んぐっ⁉」

「おや、水水。」

うっかりしてた。俺の職業は誰にも知られちゃダメなんだ。マスターが持ってきてくれた水を一気に飲み干した。

「ありがと。」

「いえ。それにしても、貴方の旅路に彼女は連れて行かないんですか?」

「…うん、そのつもり。」

「私めの独り言ですが、女性というのは一度憶えた愛情を忘れない生き物だと思いますよ。」

「……あ。」

そういう、ことか。…理解しても、今更遅い。俺はもう君に触れる権利は、ない。

「こちらの料金は結構です。サービスとして、私が提供しましたから。」

「え、良いの?」

「はい。」

「でも、少しだけ払うよ。」

「…お気持ちだけ。それに、レジはもう締めてしまったのです。だから、大丈夫ですよ。」

「…ありがと、マスター。」

俺は食べ終わった後、マスターに深々とお辞儀をして店を後にした。…明日、東京駅に行って、汽車に乗る。結局彼女は、気づかなかったで良いかな。

「さようなら、この町。さようなら、京子さん。」

雪の心地よい音を鳴らしながら、東京系方面へと歩き出す。口の中にまだ、蜂蜜の甘さが残る。

  ◇

【十日目】

今日は何とく母の形見を着た。久々でも、鏡に映し見るととても綺麗だ。

「…京子様。」

「何?」

「奥方様に、そっくりですよ、イヤリングをつけたら、まさしく奥方様です。」

「ありがとう、和心。そう言ってくれて嬉しいわ。」

そう言いながら、和心から受け取ったイヤリングをつけた。もう一度鏡を見ると、母そっくりな私がいた。…あぁ、母上だ。

「…母上…」

ふと瞼を閉じ、昔を思い出した。まだ母が生きてる頃を。このイヤリングをくれた時を。

 ◆

「じゃーん!今日はね、お母さんのこれを上げちゃいます!」

「それは何ですか?ピアスだったらまだつけれないよ?」

「ふっふっふ。実はこれ、ピアスじゃなくてイヤリングなんだ~。京ちゃんもつけれるでしょ?」

そう言って、母がつけてくれたイヤリング。私にはまだ大きかった。

「可愛い。」

「良かった。…何時しか、これが似合う女性になるわ。私が約束する。あ!そうだ。今日ね、ネリネの花を買ったの。ほら。」

和室には似合わない、西洋の花が九本、花瓶に飾られていた。

  ◆

「…ネリネ。」

私は、ドレッサーから立ち上がり机の前にあるソファーに座り、司様から貰ったネリネを見た。今日も、綺麗。…と、ずっと気づかなかったけど、葉っぱの隙間、すごく見えにくいところに何か挟まっていた。降りて、しゃがんですっと取った。半分に折られたそれをそっと開くと、“京子さんへ”という文字が見えた。私宛の小さなメッセージ。

「和心。」

「はい。」

「少し…一人にしてもらえるかな?あ、髪。ありがとう。また何かあったら呼ぶわ。」

「かしこまりました。」

和心が出ていくのを確認し、もう一度ソファーに座り直し、それを開いた。

 “京子さんへ

何書くか悩んだけど、これだけ書きたかった。今までありがとう、さようなら。俺も約束を破るようなクズでごめん。“

たったそれだけ、書かれていた。…さよう、なら?ということはもう、司様はこの町に居ないってこと…?

「…司、様…」

ギュッとメッセージカードを握ったその時、端っこのほうが破れているのに気が付いた。ここにも、何か書いてあったのかしら…?私は、ふともう少しだけネリネの中を探した。すると、クシャッと小さく丸められた紙が出てきた。きっとこれ。開くとそこには、今日の十五時に東京駅にて、汽車に乗るという内容だった。…ここで、絶望していられない。私はがドアを開け、辺りを見渡した。

「あ、和心!」

「はい!」

「今何時?」

「え…?えっと、九時四十五分くらいです。」

「じいやと御者に馬車を出すようお願いして!」

「か、かしこまりました!」

私は和心来るまで部屋に戻り、見渡した。

「…花、持っていきたいけど駄目よね。…さようなら、花たち。」

大切なものは、もう身に着けている。暫くして和心が呼びに来てくれた。私は玄関に急いで向かった。小町下駄を履き、馬車に向かってる途中、後ろから大声で、私の名前を呼ばれた。…継母だ。

「ちょっとぉ!どこに行くのぉ!そんなみっともない姿で…」

くるりと振り返ると、今まで見たことない驚いたような怯えたような表情をした継母がいた。すると次の瞬間、ぺたんと座り込んだ。

「…(きょう)()?」

母の名前を呟いた。そうだ、今の姿は母そっくりだけど、口元に黒子がないし、髪も結っていない。だけど、今の継母には、母にしか見えてない見えてないようで、突然顔を真っ青にし、泣きわめきながら、懺悔の言葉を口にした。

「ごめんなさい!ごめんなさい‼わざとじゃないの…わざとじゃないのぉ!」

…過去(この人たち)とも、さよならしなきゃ前を進めない。私は継母に近づき、しゃがみもせずそのまま話しかけた。

「…今まで、ありがとうございます。なんて、思っていません。私は、貴方達がこの世界でもっと、大嫌いです。」

「……」

踵を返し、馬車に乗り込んだ。それでもなお、後ろではあの人がまだ泣き叫んでいた。今更後悔しても、遅いのに。

「和心。」

「何でしょうか、お嬢様。」

「ずっと私の傍に居てくれて、支えてくれて、ありがとう。貴方はこの先も私の親友よ。」

「…そ!そんな、私と貴方は…身分が…」

私は、そっと和心の手を両手で包んだ。

「身分なんて関係ないです。幼い頃から一緒にいたんですもの。もう、親友よ。」

「嬉しいお言葉です。京子様。」

「…どうか、元気でね。和心。」

「京子様…。…はい、京子様もお元気で。」

和心は多分、分かってくれたと思う。穏やかな笑みで私を見送ってくれた。馬車は久しぶりの屋根のない馬車。母上が亡くなった後、使わなくなって以来。

「…じいや。東京駅の中ってどんな感じなの?十五時に、彼を見つけられるかしら。」

「東京駅は、とても広い場所にございます。このじいやも、共に探しましょうか?されば見つけられるかと。」

「…私一人で見つけたいの。」

「左様にございますか。しかしながら、広く人も多いので…じいやは心配にございます。」

「じいや。私はもう子供じゃないの。だから、きっと大丈夫よ。」

自然に、じいやに、微笑みかけた。すると、一瞬驚いた表情を見せたけどすぐに緩やかな笑みへと変わった。

「…久々に、その笑顔を見せてくれましたね。ずっと、見ていなかったので驚きました。」

「本当、ですか?」

「ええそうじゃないですか。あの件があった以来、あまり笑みを浮かべてなかったですか。」

私はそっと自分の頬に触れた。…私、司様に出逢ってからずっと笑っているような。

「…逢いたい、司様。」

ただ、ただ、それだけを願った。やっと掴めた幸せ。決して、手放したくない。…暫くして、東京駅に着いた。じいやの手を借り、急いで降りて、駅に向かおうと思った。けど、「あっ」と小さく声を漏らし、じいやを見た。

「いかがなされましたか?」

深々と、じいやにお辞儀をした。今までのお礼を込めて。顔を上げて、じいやに微笑みかけた。

「今まで、ありがとうございました。そして、お世話になりました。」

「…お嬢様…」

「私の部屋は、全部片づけちゃっていいわ。」

じいやは目を細め、そのまま目を伏せ頷いた。

「私めが思うより、成長をなさっていたのですね。しかしながら、このじいやの心内では、ずっと、幼い貴方様ですよ。」

「そうなの。」

こくんともう一度頷いた後、にっこりと微笑んだ。

「どうか、お幸せに」

私は頷き、東京駅へ入った。踏み入れると想像以上に、人が多かった。…この中から、司様を探す。いるかも分からないけど。…オレンジのような茶髪、他の人より高い背丈。

「…見つけよう。」

周りの人より背が低いことは自覚してるから、混雑している中をすり抜けられるのは利点だけど、どうしても人の波に押し負けてしまう。何度もよろけた。それでも、何度も名前を呼びながら探し続けた。

「司様…」

虚しく、人ごみの中へと声は霧散される。歩いていると、ぽんっと人気の無い場所に出た。一旦休憩しましょう。…ボーっと辺りを見渡し、やはり貴方を探す。それから一時間くらい。ちらと近くの時計を見ると、十一時半になりかけていた。十二時、過ぎなきゃ貴方はいないのかしら…。

「…本当に、さようなら…なのかしら。」

俯き、ギュッと手を包み握った。ふっと顔を上げると、人ごみの中に一つ頭がとびぬけた男性がいた。オレンジに近い茶髪の男性。眼鏡をかけてたり、髪を下ろしてたりと容姿は違う、けど、あの人は…

「司様!」

私でも驚くほど、大きな声が出た。そしてその人は振り返ってくれた。私は早歩きで近寄った。…あぁ、司様だ。紛れもない、司様。

「…お逢い、したかったです…司様。」

「何で、いるの?」

「ネリネのメッセージを、見ました。」

そう言うと、司様は俯いて、あからさまに表情を曇らせた。

「見つかっちゃったか、あれ。」

私は、司様の手を取った。そっと包み込み、今まで貯めてた思いを、吐き出した。

「貴方のお陰で、幸せがやっと分かりました。私には、貴方しか…いないのです。ずっと、ずっと…私の最初の夫が、貴方ならばと考えた日は何度もあります。だから…」

さっと司様は私の手を振りほどき、背を向けてしまった。

「司、様?」

「…俺さ、詐欺師なんだよね。」

「……」

私は、驚いて、言葉が上手く出てこなかった。司様は言葉を続ける。

「俺の言葉、全部嘘だよ。」

「う、そ?」

「うん。嘘。ぜーんぶ嘘。…ずっと。伝えたかった。じゃあね、天方さん。」

去ろうとする彼、やっと逢えたのに、また私は手放すの…?そんなの、嫌。気づけば私は彼の背に駆け寄り、抱き着いていた。

「きょ!…天方さん!」

「貴方の言葉は嘘じゃない。全部、本当で、全部、温かった。天方さんなんて呼ばないで…。京子さんって、いつものように…呼ん、で。」

「……」

涙と言葉が溢れて止まらない。貴方が好きで、行ってほしくないから。

「司様が、詐欺師だと仰るなら…何故、私を騙しきらなかったの?どうして、穏やかな時間を、私にくれたの?」

「…どうしてだろうね。騙そうと思ったよ。君を。だって、資産家の娘だし、たんまり金を、とれると思ったから。」

「なら、次に会った時、私を騙してお金を取ればよかったじゃない。…金以外に…欲しいものでも、あるのですか?地位ですか?名誉ですか?居場所ですか?」

彼は少し躊躇うように、間があった。

「…地位も、名誉も、別に要らない。居場所だって、ないよ。」

「それ、嘘じゃないですか?」

「なんで?」

「だって、冷たいもの。貴方が先ほどから言ってる言葉、全部が冷たい。貴方は、本当にここから思っているのですか?」

「詐欺師に、心は無いよ。」

「…あるじゃないですか。私を、思ってくれる気持ち。なければ、今頃…私は騙されてますよ。貴方は、詐欺師失格ですね。」

そう言うと、彼はぐるっと振り返った。そして私の肩を掴み、叫ぶように、言葉を吐いた。

「いい加減にしてくれ!黙って聞いていれば、俺を知ったような口できいて!」

「…確かに、私は…貴方を知りません。ですが…」

「もう苦しいんだ!君といるのが…。どんなに愛おしくて堪らなくても…俺の立場が、引き留めて、だったら…君といないほうが俺は…幸せだと…思って…」

彼はぺたんと肩から腕をに滑り落ち、掴んだまま、その場にしゃがみ込んだ。俯いて、少し嗚咽が聞こえる。…私はギュッと、そっと、彼を抱き締めた。

「…私は、どんな司様でも好きですよ。だから、一人で勘違いをしないでください。私は貴方がいないと、苦しくて、不幸せです。」

「……」

「これから、貴方を知っていきます…なので、私を、貴方の傍に置いていただけないでしょうか。」

司様は私を見上げ、立ち上がった。ギュゥっと私の手を握って。

「本当に、どんな俺でも愛してくれる?」

「はい。…司様も、私を、愛してくれますか?」

「もちろん!ずっと君を大切にするし、手放さないし、愛し続けるよ。」

「…初めて、“愛してる”と言われました。本当に、貴方の言葉は全部、温かいです。」

司様は、濡れた私の頬にそっと触れた後、顎をくいっと持ち上げた。

「君を幸せにする。絶対に。」

「…貴方に、ずっと添い遂げます。」

…人が多いのも、憚らず、唇を重ねた。少しつま先立ちをして。永遠にも刹那にも感じる時間を過ごした後、見つめ合った。…私は、この人となら幸せになれる。

  ◇

【十一日目】

始発の汽車に揺られ私たちは今日も旅をする。誰も私たちを知らない地を目指すため。今日の格好は泊まった場所の近くのデパートで買った着物。母の形見は鞄に仕舞った。…今横では、私の肩にもたれ眠ってる夫がいる。

「司様、かなり山間部に入ってきましたよ。」

「ん…。んぅ…本当?」

「はい。」

「わ、本当だ。雪ヤバ。」

「…どこら辺で下車します?」

「もう少し、先で良いんじゃない?」

「その時にまた起こしますか?」

「いや、起きてるよ。」

「分かりました。」

「…ね、京子…さん。」

「まださん付けなんですね。」

「慣れない。呼び捨ては。」

「構いませんよ。それで、何ですか?」

「本当に、後悔がないで良いんだよね。」

「ありませんよ。大切なものは全部ここにあるので。母の形見、着物とイヤリング。それに、司様。」

「…住む場所決まったら、買い物しなきゃね。」

「そうですね。」

「…京子。」

「はい?」

「やっぱ着物が日本一似合うよ。」

「っ!」

「顔真っ赤」

突然の呼び捨てと似合うと言う言葉に驚き、気恥ずかしさで頬が熱い私に対し、司様はケラケラと笑っていた。暫くして、何駅か止まったけど、降りなかった。結局終点まで乗った。

「とても空気が澄んでますね。帝都とは大違いです。」

「…ここにする?それとももう少し、旅する?」

司様がそう聞いてきたけど、私は首を横に振った。

「もう、十分遠くの地に来ました。良いんじゃないですか。ここでも。」

「そうだね。」

「住む場所を探しましょう。司様。」

「うん。」

白い息を弾ませながら、その地に踏み入る。真っ白で、まだ誰の足跡もない、雪の上を歩く。

  ◇

冬が過ぎ、春が来て、夏なんてあっという間。何度も来る四季を貴方と歩み、数年後。日が照る夏の日、買い物をして、家に向かう途中、たばこ屋のおばちゃんに声をかけられた。

「あらぁ~京子ぢゃん。暑いのにお買い物お疲れ様。旦那様はなじょしたの?」

「何でも客人が来るそうで、何時に来るか分からないので家に居ます。本当は買い物止められました。」

「まぁそうよねぇ~。んだ!今日の新聞見だ?」

「いえ、見てませんが。」

「こごで立ぢ話も悪いし、上がって。麦茶出すから。」

「ありがとうございます。」

お言葉に甘え、家に上がった。おばちゃんは麦茶をいそいそと注ぎに行った。胡坐を掻いて待つと、暫くしてお盆を持って現れた。

「はい、麦茶。それに水ようがん。父っつぁまとじゃ食べぎれなぐでねぇ。」

「すみません、新聞を読むだけなのに。」

「いいよ、いいよ。…はい、これ。もぉうびっくりしちまったわよ。こごってうんと有名よね?」

渡された新聞に、大きな見出しで“天方病院、廃業”という文字だった。内容に目を移すと、“天方病院 事態が明るみに。大正十年から長らく信頼されていたが、今月をもって閉業。事態が明るみになったのは、一人の女性の証言。その中には薬品管理の杜撰さや適切な受診が行われていなかった。しかし、事態は急変。昨日病院から内部告発がされ、証言者の女性と病院の最高責任者を逮捕。最高責任者と証言者は夫婦で、天方葵竺(そうちく)天方京依(けい)である。”

「…葵竺、京依…。つくづく馬鹿な人たち、因果応報とでも言うべきかしら。」

「ん?何が言った?京子さん。」

「何も。…世の中大変ですね。」

「そうねぇ。でももう少し前がら潰れるんでねえがどは噂されだのよぉ。」

「…そうなんですね。」

少しだけ、世間話をして、飲み切り食べ終わり、たばこ屋を後にした。家に戻ると、玄関先で彼が待っていた。私を見るなり、満面の笑みで駆け寄ってきた。

「京子さん!もーう遅くて心配したぁ!どこかで倒れてるんじゃないか、はたまた可愛すぎるから誰かにナンパされてんじゃないかって、本当に心配で!」

「申し訳ありません、たばこやでお暇させてもらっていたんです。」

「・・・良かったぁ。」

家に入りながら、たばこ屋での事を話した。

「へぇ…潰れたんだ。」

「私には関係ない事です。」

「だったらもう深堀しない♪」

彼が荷物を台所に置いてくれると言い、私は居間でゆるりとした。ふと庭を見ると小さな池に西瓜がプカプカと浮いていた。

「わぁ、西瓜。」

「夕飯ごろには冷えると思うよ~。」

「…もしかして、客人様って…」

「そ、おっちゃん♪」

「私も挨拶したかったです。なんで教えてくださらなかったのですか。」

「ごめん、ごめん。」

「相変わらずお元気でしたか?」

「うん。まぁ、びっくりしたよね、おっちゃんも詐欺師を辞めて農家になってるって。」

司様曰く、おっちゃんもとい、武文様も詐欺師で司様が辞めた数か月後に辞めて山形に逃げて農家を始めたらしい。奥様もそこで出逢い彼同様、普通に幸せに生きているそう。

「毎年、何か獲れると持ってきてくださるわね。何かお礼がしたいわ。」

「おっちゃんは別に良いって言ってるけどねぇ。それに、今は山形いけないし。」

「…そうですね、この子が産まれて涼しい季節になったら行きましょうか。」

そう言って私は、自分のお腹を撫でた。司様も、私の目の前に座り、そっと撫でた。

「早く産まれないかなぁ~♪もう名前、何百も考えちゃったよ。」

「まだ性別は分かりませんよ。」

「それでも考えたよ、どっちも。」

彼は瞳を閉じながら、お腹に耳を当てた。

「あ、今動いた。」

「まぁ。」

実に穏やかで、幸せなとき。挙式はあげないけど、私たちはもう夫婦。病めるときも、健やかなるときも、どんなときも、貴方に添い遂げます。

  ◇

「ねね」

「何でしょう?」

「おっちゃん、初めてここに来た時、俺らの苗字に驚いてたね。すごい迷ったって言ってた。」

「…あぁ。ここに来た時、苗字を変えましたもんね。」

「うん。白鳥の姓に」

「良かったのですか?大切なお師匠様から貰った苗字でしたのに。」

「…良いんだよ。俺は生まれ変わるんだ。心機一転して。だから、師匠にはごめんだけど、“紫雲”の姓は捨てる。京子さんだって、“天方”を捨てたかったでしょ?」

「そうですね。…本当は、母上の苗字にしても良かったのですが、父上が頑なに天方の姓を譲らなかったそうです。母上の旧姓でしたら、この先も名乗りたかったです。」

「…元から貰った苗字も良いけど、新しい苗字で、一から生きよう。俺たちは、自由に生きて行こう。」

「はい。」

  ◇

野原で伸び伸び育った一輪の花。だが自分の意志に関係なく植木鉢へと移された。そして温室に閉じ込められ、青空を恋しく思う。…やっと誰かの手に渡り空を見れたけど、気いられなくて捨てられた。あれほど恋しく思った青空も曇り空に見えてしまって、陰で散っていくのだと覚悟した。その時、一匹の蛇が私を見つけてくれた。何日も、貴方は傍に居てくれた。失ったはずの愛も、甦る。…貴方に手折られるなら本望。

〈僕ハ、君ニ惚レタ〉

あの日、貴方が呟いたその言葉が何よりも宝物。貴方は私を手折ると、青空の元へと連れ出してれた。もう一度見た青空は、雲一つない、晴天だ。あぁ、綺麗。貴方と見てるから、物凄く。…私も、貴方に愛の言葉を告げさせて。

〈愛シテマス、貴方ヲ〉

貴方と世界を見てみたい。どこでも、どこまでも。この命が、咲き続ける限り。


                                    (完)

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