第93話 『漁夫の利』
エミルの体は足の力を失ってよろめき、転倒するように茂みの中に突っ込んだ。
そのすぐ先は斜面になっており、勢いが止まらないままエミルは転げ落ちていく。
だが徐々に斜面は緩やかになっていき、ようやくその中腹でエミルの体は止まった。
その腕や足からは血が流れている。
【……ここまでね】
筋肉で膨張していたエミルの腕や足は元の細いそれに戻っていく。
右腕は骨折しているようで紫に変色して腫れ、左足も同様に折れてしまっていた。
そしてエミルは完全に意識を失い、力なく地面に横たわっている。
そこに……音もなく現れた者たちがいた。
真っ白な頭髪を持つ2人の若い男らだ。
「運が向いてきたね。ヒバリ」
「うん。千載一遇の好機だよ。キツツキ」
白髪の男たちはエミルの体を抱え上げると、持っていた大きな麻袋をその頭の上からスッポリと被せる。
エミルの小さな体は、完全に麻袋に包まれた。
それを2人で抱え上げると、白髪の男たちはやはり音もなくその場を立ち去っていく。
2人は足早に移動しながら表情を変えずに声を掛け合った。
「姉上様。お喜びになるね。ヒバリ」
「うん。合図をしないとね。キツツキ」
そう言うとヒバリはピーチュルチュルと野鳥そっくりな鳴き声を口で真似て見せる。
それは大きな音であり、谷間に反響するのだった。
☆☆☆☆☆☆
オニユリは鈍く痛む右肩を左手で押さえながら山道を小走りに進んでいた。
前には兄のシジマが大きな袋を抱えて進んでいる。
死んだ部下たちの銃火器を回収した袋だ。
敵国に銃火器を出来る限り渡したくない。
王国の優位性を保つために。
そんな思惑から戦場において銃火器は出来る限り残さず回収するよう徹底されている。
それを守るシジマをオニユリは冷めた目で見つめていた。
(フン。兄様は職務に忠実ね。そんなにあの小娘将軍がいいのかしら)
ここから抜け道を通り、チェルシーのいる本隊と合流することになるだろう。
オニユリは不機嫌さを隠そうともしない仏頂面で進み続ける。
(最悪よ。坊やは手に入らないし、右肩はこのザマだし、何もかも最悪)
オニユリがそう内心で悪態をついていたその時、谷間に特徴的な鳥の声が響き渡った。
ピーチュルチュルというそれは野鳥の鳴き声だ。
だがその独特さはオニユリのよく知るものだった。
シジマはそれがただの鳥の鳴き声だとしか思わなかったが、オニユリはすぐ気付く。
それが彼女の私兵たちの発する成功の合図だと。
(ヒバリ、キツツキ。あの子たち、うまくやれたのね)
オニユリは兄に勘付かれぬよう必死に表情を抑えた。
だが、抑えきれない喜びの感情が彼女の口の端を吊り上げて歪ませるのだった。
☆☆☆☆☆☆
「エミル!」
プリシラは躊躇せずに茂みに踏み入り、その先に続く急勾配の斜面を慎重に降りていく。
そこにはエミルが斜面を滑落した痕が残されていた。
(エミル……エミル……)
ジャスティーナが岩橋の上から落下してしまった光景が頭をよぎり、プリシラは恐慌状態で斜面を駆け下りる。
エミルが滑落し続けてどこかで死んでしまっているのではないかと思うと怖くてたまらなかった。
だがすぐに斜面が緩やかになり始め、滑落の痕跡は斜面の中腹にある比較的平らな場所で止まっていた。
ここまで落ちてきたエミルがその場所で止まったのだとすぐに分かる。
だが、エミルの姿はどこにもない。
プリシラはその中腹へと辿り着くと、しゃがみ込んで地面の痕跡を探す。
「エミル……ここからどこかへ歩いていったの?」
だが、すぐにそうではないとプリシラは気が付いた。
ここに近付いてきたであろう別の者の足跡があったのだ。
それも2人分の。
そしてそれは別の方角へと向かっていた。
その足跡は2人分のみであり、エミルのものはない。
「エミルは……ここから歩いていない。気を失ったんだ。そしてチェルシーの仲間が……エミルを」
プリシラはいてもたってもいられずに足跡を追い続ける。
だが、土の上を走っていた足跡はすぐに草むらの中へと入っていた。
そこから先の足跡は簡単には追えない。
草をかき分けて足跡を探すのは容易ではなかったし、時間がかかり過ぎる。
こうしている間にもエミルを攫った者たちはさらに遠くへと離れていくのだ。
プリシラは焦りと苛立ちに声を荒げた。
「ああもうっ! エミル!」
そうしてプリシラはすぐに踵を返した。
「ジュードにエミルの気配を探ってもらおう。その方が早いわ」
プリシラは疲れた体に鞭打ち、先ほど下って来た斜面を駆け上がっていくのだった。
☆☆☆☆☆☆☆
誰もいなくなった岩橋の上でジュードは撃たれた左肩を布で押さえていた。
出血はしているが弾は骨に当たって跳弾したらしく、体の中には残っていないようだ。
出血が落ち着くのを待って布できつく縛ろうと思っていた矢先、ジュードはふと黒髪術者の力で接近してくる者の存在に気が付いた。
別の黒髪術者が近付いてくるのを感じる。
(まさかショーナ達が戻って来たのか? いや、これは……)
ジュードは近付いて来る黒髪術者から敵意を一切感じなかった。
むしろ優しげな春の風を思わせるような穏やかな気持ちを感じていた。
そんな彼の視線の先に赤毛の女が姿を現す。
思わずジュードはジャスティーナが無事に戻ってきてくれたのかと思って目を見開くが、それは見たことのない赤毛の女だった。
そしてその女に続いて黒髪の男性と、もう1人後方から大柄な赤毛の女が姿を現した。
彼らはジュードや岩橋の上に横たわっている白髪の男たちの亡骸を見ると、何やら言葉を交わし合っている。
そして一番先頭にいる赤への女が槍を手に、用心しながら岩橋を渡ってジュードに近付いてきた。
ジュードはすぐ彼らの正体に気付く。
先ほどエミルが言っていたのだ。
父親が近付いて来ていると。
ジュードは目を凝らし、谷間の向こうにいる黒髪の男性を見る。
確かにその顔はエミルに似ていた。
(そうか……あれがダニアの女王ブリジットの夫。ボルドか)
そうこうしているうちに槍を肩に担いだ女戦士がジュードの数メートル手前で立ち止まり、ジュードを静かに見つめる。
その目に明確な敵意はない。
だが、いつでもおまえを殺せるぞ、という強く練り上げられた意思が込められていると思った。
こうして近くで見ると女は30代くらいの年齢で、熟練の戦士らしい揺るがぬ眼光をその目にたたえていた。
その目を見るとジュードはどうしてもジャスティーナを思い出して悲しい気持ちになる。
「おまえは何者だ?」
そう問うこの女に嘘偽りを言う必要は無いと感じ、ジュードは正直に口を開いた。
「俺はジュード。王国の生まれで、今は国を捨てて放浪の身だ。旅の途中で偶然にダニアのプリシラとエミルに出会い、ここまで行動を共にしていた」