第75話 『急襲と逃走』
「走れ走れ走れぇ! 尾根は見えてきたぞ!」
シジマの声が大きく響き渡り、白い髪の者たちが拳銃や狙撃銃を手に山道を駆け上がっていく。
尾根までは1キロほどであるが、鍛え上げられた少数精鋭の兵たちは速度を緩めることなく地面を踏みしめて走った。
しかしそんな彼らより遥かに先んじて走る者がいる。
黒い頭巾を取り払い、銀色の美しい髪を振り乱して風のように走るのは、部隊の長であり王国軍の将軍でもあるチェルシーだった。
誰もその速さにはついていくことが出来ない。
上り坂をとてつもない速度で駆け上げる彼女の目に、尾根の小屋が見えてきた。
先ほどまで煌々と焚かれていた焚き火はすでに消されている。
(行動が早いわね。でも逃がさない)
敵には2人の黒髪術者がいる。
その力でこちらの動きに気付き、いち早く逃げ出したのだろう。
チェルシーは頭の中で敵に出くわした時の自分の動きを明確に思い描いた。
出来れば自分1人で決めたい。
今この仕事は言うなれば降ってわいた任務外の独断行動だ。
ここで兵を損耗すれば本来の任務遂行に支障が出る。
自分が先頭に立って直接この手を下すのが最も手早く、安全だった。
敵に対峙したらまず赤毛の女を即座に殺す。
それからプリシラを取り押さえ、エミルと黒髪術者の若い男は他の部下たちに捕らえさせる。
これだけで事は済む。
それが出来ない場合は、女戦士はオニユリに任せ、自分はプリシラに集中すべきだろう。
チェルシーはチラリと後方を見る。
やはりと言うべきか、自分についてこられる者はいないものの、その中でもシジマとオニユリだけは数十メートル後方から追いかけてきていた。
チェルシーは足を緩めるずに彼らを引き離す勢いで進んでいく。
まずは自分が先行して敵を足止めしておくことが重要だからだ。
そんな冷静な思考とは裏腹にチェルシーの胸には落ち着かぬ思いが溢れ出している。
その原因は明白だった。
(プリシラと……エミル)
名前だけしか知らぬ者たち。
だが自分と同じくダニアの女王の血族だ。
母や姉以外にそうした者たちと会うのは初めてのことであり、チェルシーは胸がざわつくのを自覚していた。
ダニアの双璧の女王。
金の女王ブリジットと銀の女王クローディア。
当然、ブリジットの子であるプリシラとエミルはクローディアとも親交が深いだろう。
(クローディアを……姉様を知っている2人)
チェルシーの胸にあってはならない想いが浮かび上がる。
クローディアを知る2人に話を聞いてみたい。
自分が知らないクローディアの話を。
彼女がどのように暮らし、妹である自分のことをどう思っていたのか。
そんな自分の心から湧き上がる声にチェルシーは愕然として、思わず足を止めた。
(くっ……馬鹿みたい……ワタシは……捨てられたんだ)
チェルシーは唇を噛みしめると、想いを振り払うように剣を抜き放って縦一閃に振り上げる。
すぐ近くにある、人の腕ほどもある太い木の枝が真っ二つに切れた。
そして葉をまき散らして地面に落ちた枝をチェルシーは容赦なく踏み砕く。
「……ワタシと母様を裏切った姉様を許さない。ワタシは復讐するためだけに……ここまで歩いてきたんだ」
チェルシーは再び己の心を怒りで染め上げる。
同時にクローディアへの憎しみが別の対象に向けられる。
この怒りをぶつけられる相手にようやく巡り合えたのだ。
「プリシラとエミル……さぞやぬくぬくと育ってきたのでしょうね。父と母に愛され、皆に大事にされ……姉様にもかわいがられたことでしょう。ワタシが得られなかったものを全て持っている。そんなあなたたちに教えてあげないとね。世の中はもっと厳しくてもっと冷たいものだということを」
そう言ってチェルシーは再び猛然と走り出した。
その顔を憤怒の激情に染めて。
☆☆☆☆☆☆
山道を駆け上がる部隊の最後尾をショーナは懸命に走っていた。
先頭を行くチェルシーはおろか、それに続くシジマとオニユリの姿すら遥か前方に見えないほどだ。
しかしショーナはそれでも足を止めない。
黒帯隊は従軍を想定した部隊だ。
戦闘訓連こそしないが、基礎体力をつけるための訓練は欠かさずに行っている。
作戦行動についていくための最低限の体力は身についていた。
ショーナの10メートルほど先には、同じ黒髪術者の男2人がそれを示す様に走り続けている。
それでもショーナの足取りは重かった。
(ジュードがいる……)
先ほどまでとは違い、ショーナにはハッキリとジュードの存在が感じ取れる。
おそらく彼も黒髪術者の力を開放して、こちらの動きを読み取っているはずだ。
今、部隊の先頭で後続を大きく引き離して走っているチェルシーは、ほどなくして敵に追いつくだろう。
そして彼女は知ることとなる。
敵の黒髪術者の1人が、かつての顔見知りであるジュードだと。
ジュードは黒帯隊からの脱走者だ。
実際に脱走したのは10年も前のことだった。
だが、黒帯隊は脱走の罪に対する時効を設けていない。
ジュードは見つかれば今でも処罰の対象なのだ。
ショーナはジュード脱走の監督責任を問われて鞭打ちを受けた背中の痛みを思い返した。
背中に傷は残っているものの、とっくに痛みは消えているはずだというのに、あの時の痛みがまざまざと甦る。
それはあくまでもジュードの脱走に対する監督者としての責任を問われたことへの咎だった。
だが、真実は違う。
ショーナはジュードの脱走を目の前で引き止めることが出来たのに、それをしなかったのだ。
それどころかジュードが脱走を果たせるように手助けさえした。
実際の罪はもっと重いのだ。
(ワタシは一体……)
あの時、なぜそのようなことをしたのか、今でもきちんと説明できない。
だが、もうジュードとは生涯会うことはないだろうと思った。
彼がどこか遠くで別の人生を送っているのならば、それでいいと。
しかし運命は再びジュードをショーナに引き合わせたのだ。
(ジュード……どうして再びワタシの前に現れようとしているの)
怒りや焦りでない交ぜになった胸の靄を晴らさんと、たまらずにショーナは走りながら黒髪術者としての力を用いて、遥か前方を逃げているであろうジュードに精神的な接触を試みていた。




