第73話 『闇夜の視線』
「ふぅ。ちょっと寒いな……」
エミルはそう言うと小屋の扉をそっと閉めた。
深夜のこの時間になると外気は冷える。
山小屋の外には見張り役のプリシラが焚き火の火に薪をくべていた。
彼女はチラリとエミルを見る。
「厠?」
「うん。姉様。ごめんね。僕、見張りが出来なくて」
「何言ってるのよ。あなたももう少し大きくなれば出来るようになるわ。今は子どもなだけなんだから、いちいち気に病まなくていいわよ」
そう言う姉に頷き、エミルは小屋の裏側に併設されている厠へ入っていく。
周囲が暗いため何となく怖がりながら用を足していると、ふと背後から視線を感じたような気がした。
エミルは急いで用を済ませ、背後を振り返る。
だがそこには厠の壁があるだけで誰もいない。
(……気のせいか)
エミルは手を洗うために厠を出て山小屋の表にある井戸へと向かおうとする。
だが彼はまたしてもそこで足を止めた。
暗闇の中、誰かに見られている気がする。
ジュードから言われて黒髪術者の力を閉じていた彼は、思わず不安になり目を凝らした。
山小屋の周囲は茂みがあるばかりで、その先は尾根から下る急斜面が続いている。
(お、狼とかだったらどうしよう……)
エミルはどうしても気になり、静かに黒髪術者としての力を開放する。
途端に周囲の状況が彼の肌に伝わってきた。
斜面を駆け上がる風に揺れる茂みの葉。
虫がカサカサと蠢く音。
木の枝に止まったまま眠る鳥が時折漏らす鳴き声。
そうした自然の動きが、水面に広がる波紋のように彼の肌に打ち寄せる。
しかし自分に対して害意を抱いているような存在はどこにも感じられない。
エミルは安堵を覚えて、再び黒髪術者の力を閉じた。
(よかった……やっぱり気のせいだ。ジュードの言いつけを破っちゃったけれど、少しだけなら大丈夫だよね)
そう思ったその時、後方で茂みがわずかに揺れたような気がしてエミルは反射的に振り向いた。
その瞬間……。
「エミル?」
唐突に姉の声が響き、エミルは思わず再度振り返った。
そこには怪訝な表情を浮かべてプリシラが立っていた。
「ね、姉様」
「何してるの? 厠が終わったならさっさと手を洗って小屋に戻りなさい。まだ冷えるから風邪を引くわよ」
そう言う姉にホッとしつつ、エミルは先ほど揺れたような気がした茂みに目を向けた。
その茂みは吹き抜ける風に揺れている。
(……風か。そうだよね)
エミルは気を取り直し、姉に目を向けた。
「寒いから姉様も気を付けてね」
「ええ。もうすぐジャスティーナと交代するから、そしたらしっかり毛布で温まるわよ。明日も頑張って歩けるよう、エミルはちゃんと寝ておきなさい」
「うん……姉様」
「なに?」
「色々と……ありがとう」
「どうしたのよ急に。変な子ね」
眠るエミルや仲間のために見張りに立つ姉を見て、ふいにエミルは感じたのだ。
姉はいつもこうして自分を守ってくれていたのだと。
強気で勝ち気な姉が苦手だった。
自分とは正反対な姉に対していつも気後れしていた。
だが姉はいつも自分のことを守り、手を引いて一歩先を歩いてくれていたのだ。
(そういえば……あの時もそうだった)
もっと自分が幼かった頃のことをエミルはふいに思い出す。
姉や友達と共に近くの山で遊んでいた時、夢中になって蟻の行列を追いかけ、気付くと1人になっていたことがあった。
戻る道が分からず迷子になってしまったとあちこち歩き回りながら泣きそうになったその時、姉が現れ、自分の手をしっかりと握ってくれたのだ。
それから姉は藪の中をかき分けながら、手を引いて自分を皆のところまで連れて行ってくれた。
その際、前を歩いて藪をかき分けながら進んだため、姉の腕や足は細かい引っかき傷だらけになっていた。
一方のエミルは姉が藪をかき分けてくれたおかげで、傷ひとつ負わなかったのだ。
そして姉は嫌な顔ひとつせずに、エミルが無事でよかったと言って笑った。
ふいにその時のことを思い出し、エミルは少し胸が苦しくなる。
いつだって姉は自身を犠牲にして弟を守ってきたのだ。
きっとエミルのために姉として我慢してきたこともあっただろう。
そんなことを思うとエミルは己のことばかりを考えていた自分が恥ずかしくなる。
そして自然と言葉が口をついて出てきた。
「姉様。僕……もっと強くなるから。姉様に守ってもらわなくても……自分で歩いていけるくらいに」
唐突にそんなことを言う弟に、プリシラは思わず目を丸くする。
だが、すぐに彼女は優しい笑みをエミルに向けた。
「そうね。エミルもいつまでも子供じゃないものね。元気な顔で帰って、今回の冒険を父様と母様にも聞かせてあげましょ。2人ともきっと驚くわよ」
姉の言葉にエミルも笑みを返して言う。
「そうだね。姉様。無理しないでね」
「大丈夫よ。おやすみ。エミル」
そう言うプリシラに頷き、エミルは小屋へと戻っていくのだった。
珍しく自分を気遣ってくれた弟の様子に、プリシラは少しばかり面映ゆい気持ちを感じながら、曇って星の見えない夜空を見上げた。
「……少しは大人に近付いているのかな。エミルも……アタシも」
雲で見えないだけで、その向こうには星空が確かに広がっている。
自分とエミルがいつか大人になる未来も今はまだ見えないけれど、確かにやって来るのだ。
そういう時が。
プリシラは残りの旅程をしっかりと終え、弟を無事に家に帰すことを心に誓うのだった。
☆☆☆☆☆☆
「エミルはかわいい男の子だね。ヒバリ」
「そうだね。あの子を連れて帰ったら姉上様も喜ぶだろうね。キツツキ」
茂みの中に身を潜めたまま、微動だにせず2人はそう言い合った。
白い髪を緑色の頭巾で隠し、2人はもう何時間もそこでそうしている。
「あの子、こっちに気付きそうになっていたね。黒髪術者の力かな。ヒバリ」
「いいや。それは違うと思う。黒髪術者の力じゃ僕らは見つけられない。でもきっとエミルは勘のいい子なんだろうね。キツツキ」
つい先ほど厠に出てきたエミルを目の当たりした2人だったが、それでもまだ動かなかった。
「あの姉が邪魔だね。ヒバリ」
「仕方ないよ。僕らではあの姉を排除することは出来ないから。キツツキ」
元より2人にはプリシラや同行しているダニアの女戦士を退けてエミルを奪い去ることはとても出来ない。
ゆえに2人は待ち続けるのだ。
2人が主であるオニユリに捧げるのは、エミルを生きたまま連れ帰るという事実であり、結果だ。
それを成すことの出来る最大の好機を、2人は慎重に待ち続けるのだった。




