第41話 『10年前の記憶』
「……?」
唐突に足を止めたショーナにシジマは怪訝な表情を見せる。
アリアドの街のすぐ北側に広がる林の中から出てきた2人は、燃える街の様子にも平然として移動を続けてきた。
しかし崩れ去った北の大門の手前でショーナは顔を曇らせて立ち止まったのだ。
「どうした?」
「いえ……気配が」
「気配? 例の黒髮の小僧か」
2人は今、ダニアの女王ブリジットの子女であるプリシラとエミルを追っている。
そしてエミルは黒髮だった。
「ブリジットの夫であるボルドは優れた黒髮術者だと聞いたことがある。その息子も黒髪であることから、黒髪術者である可能性が高い」
彼を捕まえることが王国に対して大きな貢献となり、ココノエの一族の評価はますます王国内で高まるだろう。
そんなことを考えてほくそ笑むシジマだが、ショーナはその話をどこか虚ろ気な顔で聞いていた。
「何だ? 気になることがあるのか?」
ショーナが黒帯隊のまとめ役であり、現在王国に所属する黒髮術者の中ではもっとも高い能力を持つことはシジマも知っている。
まだ浅い付き合いだが、彼女の言葉に見逃せない重さがあることもよく分かっていた。
「……子供の気配は先ほど少しだけ感じた。今は街の中に入っていると思うわ。それ以外に……別の気配を感じた」
「別の?」
眉を潜めるシジマにショーナは黙り込む。
ほんのわずかに街の中から感じた黒髮術者の気配。
それはどこか懐かしいような感じがして、それを感じ取ったショーナはなぜだか落ち着かない気持ちになった。
ショーナはふいに脳裏に甦る10年ほど前の出来事に思いを馳せるのだった。
☆☆☆☆☆☆
「ジュード。こんなところで何をしているの?」
18歳になったばかりのショーナは黒髪術者としての一日の訓練を終えた夕刻、涼むために散歩に出た兵舎の庭で偶然ジュードと出くわした。
王国に所属する黒髪術者の集団である黒帯隊。
その一員であるショーナは、まだ訓練生である15歳未満の子供たちに黒髪術者としての訓練を課す教官の立場だった。
総勢30名ほどの訓練生すべての顔と名前を憶えている彼女は、暗闇の中にあってもジュードの顔もすぐに判別がついた。
特にジュードはその年頃の子供たちの中でも優秀な訓練生であり、ショーナも数多くのことを教えてきたからだ。
「ショーナ……」
13歳のジュードは怯えたような顔でそう言ったきり立ちすくむ。
そこは食堂に併設された調理場の裏手であり、彼が勝手口から出てきたのだろうことが分かった。
昼間は食料品などの供給業者が出入りするこの場所も、この時間帯はしんと静まり返っている。
調理場からは良い香りが漂ってきていた。
本来ならば訓練生は夕食の時間であり、こんな場所にジュードがいるはずはない。
ショーナは怪訝な顔で彼を注意する。
「これから夕食の時間でしょ。すぐに食堂に戻りなさい」
そう言うショーナはジュードが着の身着のまま、こんな時間にどこに行こうとしているのかを考え、ハッとした。
「ジュード……あなたまさか」
ショーナの言葉にジュードはますます青ざめる。
脱走。
訓練生の中には時折、訓連が辛くて逃げ出す者がいる。
黒髮術者の訓練は過酷であり、心身ともに疲弊する。
それはかつて己も訓練生だったショーナも身に沁みてよく分かっていた。
だが……。
「脱走は重罪よ。分かっているでしょ」
ショーナがそう言うとジュードはビクッと身をすくませる。
罰せられると思っているのだ。
だが、今なら自分の裁量で見なかったことにしてやれるとショーナは思った。
それに訓練生の脱走が発覚すると、自分も監督責任を問われる。
「ジュード。戻りなさい。見なかったことにしてあげるから」
だがジュードは首を横に振った。
「……いやだ」
「ジュード!」
「いやだ!」
ジュードの頑なな様子にショーナは眉を潜める。
いつもはそんな聞き分けの悪い子ではない。
そして彼に限っては訓練が耐え難いほど辛いとは思えなかった。
優秀なジュードはどの訓練もそつなくこなしていたからだ。
周りの子たちを気遣う余裕すらあったくらいだった。
「訓練が辛いのは分かるけれど……」
「この訓練が終わったら、俺たち戦争に行くんでしょ? 王国が他国を侵略する手伝いをするんだよね?」
ジュードのその言葉にショーナは思わず息を飲んだが、努めて落ち着いた口調で答える。
「そうよ。そのために私たちはここにいる。すべては王国の平和のため」
「王国の平和のために他の国の平和を壊すの?」
ジュードの問いにショーナは言葉を失った。
それは……考えないようにしていたことだからだ。
おそらくここにいる黒髮術者の中で、喜んで王国のために働こうという者は1人もいないだろう。
皆、己に課せられた運命に逆らえずに仕方なく従っているのだ。
だが、それでもショーナはこの場所の秩序を守らねばならない。
「先代クローディアが残してくれたこの場所を守るのが私の仕事。だからあなたに脱走させるわけにはいかないわ。戻りなさい。そして明日からも訓練を続けるのよ。ジュード」
「先代は……ショーナに戦争の手伝いをさせることを望んでいたの?」
「それは……」
ショーナは言葉に詰まってしまう。
自分は亡くなった先代クローディアの遺志を継ぎ、黒髪術者たちの居場所を守るつもりでいた。
だが生前、先代クローディアは時折、悲しい目で自分たち黒髪術者を見ていたことを覚えている。
きっと好きなように人生を歩ませてやれない罪悪感を覚えていたのだろう。
今ならショーナにもそれが分かる。
この黒髪術者の訓練施設にはまだ歩き始めたばかりの子供までいる。
皆、王国のため軍事転用された黒髪術者の力を振るうためだけに、ここで育てられるのだ。
「ショーナ。僕はもうこんなところは嫌だ。ショーナだって本当は……」
ジュードがそう言いかけたその時、調理場のほうから大きな声を聞こえて来た。
食堂で夕食時の点呼が始まったのだ。
そして調理場の勝手口から数人の男性が出て来た。
それはこの黒帯隊の管理を任命されている王国の官僚たちだ。
彼らは厳しく訓練生らを監視し、規律から外れた者には冷酷な罰を与える。
今この黒帯隊にいる者たちで彼らからの折檻を受けたことのない者はいないだろう。
彼らが近付いて来るのを見たジュードが青ざめる。
食事の点呼が始まっている時刻に食堂にいない者は容赦なく殴られる上に、翌日は一切食事を与えられない。
何よりこんな時間にこんな場所にいることは脱走を疑われ、これ以上ないくらいの厳罰に処される恐れがある。
官僚たちは談笑しながら調理場の裏で煙草を吸い始めた。
暗闇の中とはいえ、あと十数メートル近付かれたら、こちらの姿を判別できてしまうだろう。
(ジュードを彼らに突き出すしかない。素直に懺悔をさせれば……)
そう思ったその時、ショーナの脳裏に先代クローディアの悲しげな顔がよぎる。
ショーナは無意識のうちにジュードを茂みの中に押し込んでいた。
「ショ、ショーナ?」
「……私が彼らを足止めにする。その間に……行きなさい」
「で、でも……」
「いいから!」
そう言うとショーナは自ら足を速めて官僚の男たちに近付いていく。
ジュードが遠ざかっていく足音がかすかに聞こえた時、ショーナはなぜだか奇妙な安心感を覚えるのだった。