第32話 『殺す覚悟』
「エミルゥゥゥゥ!」
プリシラは自分の体にかけられた網を取り払うのも忘れて声を上げた。
エミルが木から落ちていく。
その恐ろしい光景かやけにゆっくりと見えた。
息を飲む。
プリシラは木の上にエミルを置き去りにしたことを激しく後悔した。
だが……次の瞬間、猛然と林の奥から駆け込んできた人物が、地面に激突する寸前にエミルを受け止めたのだ。
その人物はエミルを抱きかかえたまま地面を滑り、背中を木に打ち付けた。
プリシラはその人物を見て声を上げる。
「ジャ……ジャスティーナ!」
転落したエミルを救ってくれたのは猛然と駆けつけたジャスティーナだった。
彼女は背中を木に打ちつけながらも平然とした顔で立ち上がり、エミルを地面に下ろした。
「しっかり自分の足で立ちな」
そう言うジャスティーナにエミルは顔面蒼白で震えながらコクコクと頷いた。
ジャスティーナは敵の網に絡め取られようとしているプリシラに目をやる。
「プリシラ! 何だい? そのザマは。自分1人で敵を片付けてやるとか息巻いていたのは誰だい? 情けない。ブリジットの娘ってのは大したことないんだね」
その言葉にプリシラは思わず頭がカッとなるのを感じた。
彼女にとって母であるブリジットはこの世で最も尊敬する人物だ。
それは単に母親だからというだけではない。
その心身の強靭さで多くの民を導く女王としてのカリスマ性が、プリシラにとっては憧れなのだ。
だから母のことを悪しざまに言われるのは、どうしても腹が立った。
「い、言わせておけばぁぁぁぁ!」
プリシラは怒りの表情で網を掴み、短剣でそれを引き裂いた。
それを見た傭兵の1人が仰天して声を上げる。
「こ、鋼線入りの捕獲網を……」
そしてプリシラは網からすばやく脱出すると、足に絡みついた鉤縄を引きちぎり、目の前にいる頭目に獣のように襲いかかった。
「くっ! この!」
頭目は鉈を鋭く横一閃に薙ぎ払うが、その瞬間にはプリシラは大きく跳躍していた。
そしてそのまま頭目の側頭部を蹴り飛ばす。
「うがっ!」
頭目は吹っ飛んで木に頭部を打ち付け、昏倒して動かなくなった。
プリシラはそのまま1人残った頭目の傍にいた傭兵に迫る。
頭目の側仕えをしていたらしき、若い男だ。
彼はプリシラの怒りの形相を見て本能的な恐怖を感じ、武器を放り出して一目散に逃げ出していく。
それを見た曲芸団の団長は顔を引きつらせて怒声を上げた。
「ば、馬鹿野郎! それでも傭兵か! 戻ってこい!」
そんな団長の胸ぐらを掴んだのはプリシラだ。
「これであなたを守る者はいなくなったわ。よくも散々やってくれたわね」
「ひいっ!」
プリシラの怒りの表情に怯えながらも、団長は手に持っていた小刀でプリシラを突き刺そうとする。
だがプリシラは拳で団長の手首を打って小刀を払い落とすと、団長の腹を膝蹴りで突き上げた。
「ぐぼぉ!」
団長はあまりの痛みに立っていられず、その場に崩れ落ちた。
それでもプリシラの怒りは収まらない。
「こんなもんじゃ済まさないわよ!」
「ゆ、許して……」
激痛に脂汗をかきながら団長は必死に命乞いをするが、プリシラはそんな彼を強引に引き立たせると容赦なく投げ飛ばす。
「うげぇっ!」
背中を地面に叩きつけられ、団長はあまりの衝撃に息も絶え絶えになって横たわった。
「アタシとエミルに謝りなさい!」
そう言うプリシラだが、団長はすでに声すら発することが出来ないような有り様だ。
不満げなプリシラにジャスティーナは声をかける。
「そんな奴に謝ってもらっても何の得にもなりゃしないよ」
そう言うとジャスティーナはプリシラにエミルを預ける。
エミルの右腕には応急処置として白い布が巻かれていた。
それを見たプリシラは、彼が矢を受けて負傷していたことを初めて知った。
彼女は弟を抱き寄せ、ジャスティーナに目を向ける。
「ジャスティーナ。ありがとう。エミルを助けてくれて」
「フンッ。無茶なことをしやがって。私はまだやることがあるから、あんたはエミルを見てな」
そう言うとジャスティーナは短槍を手に、倒れている頭目の元に向かう。
すでに周囲には頭目を守ろうとする傭兵の姿はなかった。
残されているのはジャスティーナによってトドメを刺された遺体ばかりであり、わずかに生き残った傭兵たちはとうに逃げ出している。
「プリシラ。あんた、人を殺したことがないね?」
そう言うとジャスティーナは短槍を頭目の首に容赦なく突き立てた。
思わずエミルは目を背ける。
失神していた頭目は首を貫かれて絶命した。
それを静かな目で見届けると、ジャスティーナは短槍を引き抜く。
「戦場に立つ者には2つの覚悟が必要だ。私らはガキの頃から親にそう言い聞かされて育ったが、あんたはどうだい?」
その言葉はプリシラも母から幾度も聞かされている。
「殺される覚悟と……殺す覚悟」
「そうだ。今の戦いを見る限り、あんたに殺す覚悟は無かったようだね」
そう言うジャスティーナにプリシラは唇を噛みしめるのだった。




