3-1話 変わり始めた日常
「なるほど。熟睡できる日が増えているようで何よりです」
真っ白な診察室に、医者と患者の姿がある。PCモニターから祈吏の方へ視線を向けた、心療内科医の永淀は赤紫がかったオールバックを手で軽く押さえた。
「ですが夢遊病の頻度が減ったとしても、症状が出ている限りは通院をお薦めしますが……」
「そう、ですよね……すみません。先生の言う通り、もう少し様子を見ます」
(病院代を節約したかったんだけど、厳しそうだな)
遠橋祈吏は『就寝中に真っ黒な絵を描く』奇怪な夢遊病を発症してから、メンタルクリニックに通っている。そこで処方された睡眠薬は効いているのか微妙な体感だった。
(結局、最も熟睡できるのは夢前世に行った後のしばらくなんだよね)
夢前世の持ち主が望んだであろう、色鮮やかな絵を描いた後の数日は夢遊病が出ることもなく、ぐっすりと眠ることができる。
薬がなくとも眠れる状態をつくれると気付き、これで通院は終わりにしたいと申し出たのだが――それを判断するのは祈吏ではなく、主治医であるのは明白だった。
「ただ、日常生活への支障が減ってきたようなので、通院の頻度を減らしてみましょうか。薬もあまり効果がないようですので、他のものを処方しましょう」
「あ、はい。どうもありがとうございます」
永淀は形のよい眉を柔らかく下げ、にこりと微笑む。患者の要望に最大限答えようとする姿勢は、祈吏がここに通院しようと決めた理由のひとつだ。
永淀はPCのキーボードを打ちながら、祈吏に言葉をかけた。
「薬はあまり効果がなかったと言ってましたが、顔色が以前より明るくなられたのでホッとしています。学校も問題なく通えているとのことで、良かったですね」
「はい。おかげさまで休学せずに済みました。それに、バイトも始められて……ああ。あと最近はスポーツも習い始めたんです」
「おや、いいですね。何をされているんですか?」
「それはですね――……」
――1時間前のやり取りを思い出しながら、祈吏は一点を見つめていた。
左手に弓を持ち、手袋をはめた右手で矢を構える。
28メートル先にある的を目掛け、弓を引き分け――矢を放った。
「……ああ、またダメか」
矢は的まであと少しのところで地に落ちる。
池袋の商業施設『スポーツホーム24』にある弓道場で、祈吏はひとり弓道の練習をしていた。
射場から繋がる野外――矢道には祈吏が射った矢が無数に落ちている。的に中ったものは1本もなく、小さく溜息を吐いた。
(ようやく矢を射られるようになったけど、やっぱり難しいな。練習もっと頑張ろう)
祈吏がスポーツ――弓道を習い始めたのには理由がある。
黒須の夢前世はヨゼが言った通り、身に危険が及ぶ可能性がある世界だった。今後も似たような夢前世に行くことがあるだろう。もしかしたら黒須の前世よりも危険な場所かもしれない。そう考えた時、何か己の身を守るものが必要だと考えた。
(考えた末、比較的手に入りやすいのは『弓』かなって思ったんだけど……そうであって欲しい)
武器、と考えた時真っ先に浮かんだのは刀だった。だが剣の類いは時代によって手に入れられるか怪しい。最も手っ取り早いのは体術なのだろうが、フィジカルに関しては自信がなかった。そう考えた時に、どの国・時代にも比較的に類似のものがあり、かつ祈吏にも扱いやすいものは『弓矢』なのではないかと思い至った。
(それに、もし弓矢がない世界だったとしても、頑張ればその時代にあるもので材料が揃えられそうだし。これが最適解な気がする)
手元の弓に視線を落とす。黒須の夢前世で手にしたものはこれよりも弓が小さく、どちらかといえばアーチェリーに近いものだった。比べて弓道で使われている弓は重く大きい。習い始めは構えるのが精一杯だったが、今はなんとか矢を射られるまでに成長した。
(にしても、杏の驚きようはすごかった。確かに自分から『何か始める』って言うのは、今まであまりなかったけど)
矢が射られるようになった晩、杏と通話した時のことを思い出す。
「――まあ! 祈吏ちゃんがギャンブル以外で自発的に何か始めるのは初めてなんじゃない!?」
「そんなことないよ。中学くらいに麻雀打ちたくて覚えたし」
「あらごめんなさい。私の認識では麻雀もギャンブルに含んでた」
「麻雀はゲームなのに……でも杏の認識でいうと、確かにスポーツとかを始めるのは初めてかも」
「そうよ。にしても、池袋のその施設面白いわね。日本武道から西洋スポーツ、ボイストレーニングにeスポーツ施設まであるなんて」
「結構前からある施設だけど、最近増築したんだって。色んな人が来てたよ」
「賑やかそうでいいじゃない! ホームページも見やすくて素敵ね。……あら。オンライン成績表なんてものがある」
「希望者は競技毎の自己記録を公開できるんだって。自分はその域に達してないから、公開する予定は全くないけど……」
「ほんとだ。載ってる方々の成績すごい。掲載名は好きに設定できるの? プリン大好きさんに、超人♡現象さん……個性的な名前の方たちがいっぱい書かれてる」
「……んん?」
「どうしたの?」
「同じ名前の方が、いくつかの競技で軒並みトップなんだけど……この方何者?」
――どの画面に遷移しても、1位に表示される名前『syuka』に杏は目を瞬く。
「へえ、そんな人いるんだねえ」
「URL送っておくから、あとで見てみて」
のんびり更新再開します。