2-29話 月夜の帰り道1
「月明りだけの街って、こんなに綺麗だったんですね」
「呑気な奴」
「あはは、すみません」
二言交わして、会話が終わってしまう。
祈吏は何か話さなければと話題を探したところ、狛ノ介が夜宴を抜け出したことについて思い出した。
「そういえば……狛ノ介さんは宴会で席を立たれてましたが、どちらへ行かれてたんですか?」
「邸の庭」
「そうだったんですか。意外と近くにいらっしゃったんですね。なら良かった」
(ヨゼさんがだいじょーぶって言ってた意味が、ちょっと分かったかも)
「良かったって、なんだし」
「あの時の狛ノ介さん、ちょっと様子が違うように見えたので。何か気にかかることがあったのかなと、思っていたんです」
祈吏の言葉に狛ノ介は沈黙する。けれど白虎の歩みは止まらない。
答える気はないのかなと、もう一度風景へ視線を戻す。すると、ふいに言葉が返ってきた。
「虎っつーのは、本来媚びねえ生き物だ。だのにあの黒虎の懐きようは、正直気味が悪ィ」
「はあ……」
「何であのアビとかいう人間をあんなに気に入ってるんだか。しかも人間の方も黒虎を溺愛してんのが、マジ無理」
「そう、なんですか?」
祈吏の目から見て、確かにアビはイデアを大事にしているように見えた。とはいえ世話する人としては許容の範囲なのではないかという印象までで。
しかし狛ノ介の着眼点は、祈吏と異なっていた。
「人間ほど見た目に捕らわれる生き物はいねえんだよ。ヤローは黒虎が黄色くても手放さないとかほざいたけど、ゼッテー嘘。キレイゴトだ」
「だったら最初から『珍しい毛色だから手放さねえ』って正直に言う奴の方が潔いね」
その言葉から、狛ノ介が人間に対してやや敏感な心象を抱いていると伺えた。けれど、祈吏は意外と的を得ているかもしれないと、先ほどの事象を思い出す。
(宴会の席で、ヨゼさんから『たとえ話』をされた時……ほんの一瞬、アビさんの目の色が変わったんだよな)
『ローマ市民権と引き換えに、黄色い毛のイデアを差し出せと言われたら応じるか』
『奴隷の身』であるアビにとって、その鎖から解放される権利を得ることはどんなに魅力的なのだろうか。人権が守られた時代を生きる自分には、想像してもしきれない切なる想いがあるのだろうと、祈吏は己に言い聞かせ、顔色を変えず宴会の場にいたのだった。
「ですが、確かにイデアさんはアビさんにだけ随分懐かれているようでしたよね。自分も言われるまでは、なんとなく慕ってるなあ程度で、見落としそうでしたが」
「ハッ。人間のアンタには分からねーだろうな」
「はい。狛ノ介さんの虎として生きた記憶があるからこその視点に気付かされました」
「……」
そう祈吏が微笑みかけたが、得意になっていた狛ノ介は急に押し黙る。
「え……虎として生きた記憶、あるんですよね?」
「あるに決まってんだろ! ……虎の一生は、常にテッペン目指してるような生き方だったぜ」
「そん時の心境は思い出せねーけど、記憶を掘り返して、想像することくらいできる」
前世の記憶がある。初めてその事実を聞いた時、想像しきれなかった光景を狛ノ介はいま思い浮かべているのだろう。その感覚がどうしても気になった祈吏は、意を決して問いかけた。
「あの。心境が思い出せない記憶って、どんな感じなんでしょうか」
「映像を流し見てるカンジ」
(……動物の生態系ドキュメンタリーを観てる感じかな)
あれはレンズ越しに人が見ている光景だから、狛ノ介の当時の世界はもっと鮮やかで、苛烈な景色なのだろうと想像する。
「虎として生まれた後、しばらくは平穏な景色が続く。だが途中から、人間……狩人が出てきやがる。そのせいもあって、血なまぐさいことが絶えない記憶だ」
「そうだったんですね……」
「四六時中付け狙われては、返り討ちにする。そんなんばっかりだ。……ホンットー、人ってくだらねー」
狛ノ介がぴたりと歩む脚を止めると、何かを思い出すかのように俯く。
背中から見た狛ノ介のピンク色に染まった虎の耳が落ち込むように下がる姿を見て、祈吏は内心感じていたことを口にした。
「イデアさんの見た目に拘ってるアビさんが嫌だと言っていましたが……それと関係がありますか」
「…………大アリだ。人間は『珍しい』モンに目がねえだろうが」
「……苦労されたんですね」
「フン、見りゃ分かんだろ」
狛ノ介は祈吏へ振り返ると、わざとらしく見せびらかすように前脚で己の赤い瞳を指し示す。
祈吏は狛ノ介と初めて出会った時から気付いていたが、ずっと問いかけなかった。
狛ノ介が俗にいう『アルビノ』と言われる稀有な容姿をしていることを。
(イデアさんがあんなに色んな人から譲って欲しいと言われてるんだから、きっと狛ノ介さんも、苦い思いを沢山されたんだろうな……)
人の容姿についてあれこれ聞くのは好きでない。だから今ある情報から、狛ノ介が一体どんな107回にわたる一生を送ってきたのか想像するだけだった。現実でも、夢前世での姿も、周りとは異なる天然の白金の毛に、薄っすらと青みがかったルビーの瞳を持つ狛ノ介は、もしかしたら多くの前世でアルビノとして生まれたのかもしれないと、祈吏は推察した。
「人間に生まれるまで、テメーが『珍しい』なんて認識、ちっともなかった。だのに、今は理解ができちまう」
ふと白虎は空を見上げ、遠くの満月を想うように呟く。
「獣の心がない今……人の心を通して獣の記憶を見ている。それが何よりも、情けねえんだよ」