2-26話 闇夜に光る切先
――夜のローマ市街は驚くほど人気がなかった。
それは祈吏が以前に福田の夢前世で目にした18世紀プラハの比になるものではなく、街灯どころか、街明かりはひとつも灯っていない。
けれど幸い満月が煌々と輝いているおかげで、家々の輪郭や自分の手元は視認できる。
あとは視線の先を進んでいく、アビのカンテラの灯りのみが頼りの綱だった。
「アビさん! コロッセウムまでお送りします――」
祈吏が声をあげたその時――アビは角を曲がり、祈吏の視界から消える。
そして、間髪入れずに虎の咆哮が轟いた。
「ガァオルルルル!!」
「っ!? アビさん、イデアさん!!」
急いで2人の方向へ走り出し、角を曲がるとそこには座り込むアビの姿があった。
アビを庇うかのようにイデアが空に向かって威嚇をする。天を見上げると、高架橋の上からこちらを狙う何かがきらりと光る。
(あれは——)
それがクロスボウの柄から続く矢尻の反射だと気付くのに、時間はかからなかった。
「アビさん! 立てますか!?」
「祈吏様!? どうしてここに……っ」
「っわあ!? 脚、血すごく出てるじゃないですか!?」
「俺は大丈夫です、腿を少し擦られただけです……!」
そうこうしているうちに、2人めがけて矢は音を切り裂き、五月雨に降ってくる。
祈吏は肝を冷やしながらも己の勘にしたがって良かったと、アビの身体を支えて立ち上がった。
「逃げましょう!」
傍ら、イデアがふたりの盾になるように背後を守り、何度もその射手に向かって威嚇を続けた。
(一体だれがこんなことを……!? 狙いがアビさんなのか、もしくはイデアさんなのか分からないけど……今はとにかく逃げるしかない!)
「ガァオウ!」
その時、イデアが身体を小さく縮こませ、矢の降ってくる先を凝視する。
次の瞬間、身体をバネのように伸縮し――飛びあがろうとした寸でのところでアビが叫んだ。
「イデア! 殺したらだめだ!」
その叫び声にイデアは身体をぴたりと止め、ハッとした顔でアビの傍へ走り寄る。
イデアの視線の先をふと見ると、そこには真っ青に血の気が引いたアビの顔があった。
「アビさん……?」
「絶対駄目だ、外で大事を起こしたら、イデアの処遇がどうなるか……それにいまは特例でヨゼ様のお許しのもと外に出ているんだ、ヨゼ様にも、ご迷惑をお掛けしてしまうっ……」
早口で独り言のように呟くそれは、どう見ても精神的に窮地に追いやられている様子で。
アビの首には汗が伝い、寒くもないのに歯はかちかちと音を立てて震えている。それは祈吏が感じた恐怖を凌駕していると、ひとめで冷静になってしまうほど伝わってくるものだった。
(アビさん、ものすごく混乱してる……あれ)
支えたアビの反対側。だらりと垂れ下がった手のうちで、親指の腹と中指をしきりにこすっているのに祈吏は気が付く。
そしてそんなアビを、イデアは怜悧な瞳でじっと見つめていた。
(……狛ノ介さんが言っていた合図って、もしかして)
「……アビさん!」
「っはい!?」
「絶対、大丈夫です! 自分を信じて付いてきてください!」
祈吏は己の震える膝を叩いて誤魔化す。そしてアビの腕を支え直すと、傍らにいるイデアに視線を向けた。
「イデアさんも、心配しないでください。怪我しないように、気をつけて付いてきてくださいね」
「グルル……」
ようやく黒虎と視線が重なり、喉を鳴らしたそれはまるで了承のようだった。真意は分からないがアビを助けたい気持ちは同じだろうと信じ、祈吏はコロッセウムに向けて一歩を踏み出した。