2-19話 憂鬱な白虎
外へ出て狛ノ介が去っていった方向へ向かうと、そこは木々が生い茂る人気のない公園だった。
整地された芝生には木漏れ日が差し込み、その先には白い尾を揺らして自由を噛み締める狛ノ介の姿がある。
(いま声を掛けたら確実に逃げられる気がする……無理矢理になっちゃうけど、手段はこれしかないかも)
祈吏は狛ノ介に気付かれないよう木の影に隠れながら近寄り、途中足元に落ちていた小石を拾う。
そしてふたりの距離が僅か5メートルほどになった時、3時の方向にある茂みに向かって小石を投げた。
――ガサガサッ!
「っ!?」
(いまだっ!)
揺れた茂みに驚いた狛ノ介の不意をつき、祈吏は背後からその真っ白な背中を捕まえる。
一瞬もふもふの毛並みに心を奪われそうになったが、なんとか意識を保ち、伝えるべき言葉を口にした。
「狛ノ介さん、お願いですから話し合いましょう!」
「は、ハァ!? っくそ、アンタ汚ねーやり方してんじゃねー!」
狛ノ介は祈吏を振り払うように身体を翻すと、その身体はすんなりと離れていく。
「突然飛びついてすみませんでした……。あの、ヨゼさんの言っていたように一緒に行動した方がお互い安全だと思うので、自分と居ていただけませんか」
「ハッ。何かと思ったらそんなコトか。ンなのアンタの都合じゃん」
「それは確かに、その通りではあるのですが。……わがままを承知の上で、何とかお願いできないでしょうか」
「ヤだ。夢前世の中でくらい、俺サマの好きにさせてもらうぜ」
ぷい、と大きなピンク色の鼻がそっぽを向く。
(断られてしまった。どうすれば狛ノ介さんと一緒に行動できるんだろう……)
考えあぐねる祈吏をよそに、狛ノ介はそっけない様子で呟いた。
「ひとっ走りしてくる。アンタも好きに行動しろ」
「え。ひとっ走りって、まさかここからですか!?」
いまこの場所は木々に囲まれている公園だが、林を超えたすぐそこは街中だ。コロッセウムからヨゼの邸宅までの移動で利用した輿――レクティカの中から見た景色は、継ぎ目なく都会の景色が続いていた。
ここから郊外に出るとしても、どうしても道中は人通りの多い地域を通らねばならないだろう。そんななか、虎――ましてや今朝の試合に出て注目を集めた狛ノ介が疾走していたら、大騒ぎになりかねない。
「街中を狛ノ介さんおひとりで歩かれたら、みんな大混乱になってしまいますよ!」
「さっさとどっか行け、どんくさ人間」
祈吏が青ざめる猶予を与えられたのも束の間、狛ノ介は大きな前脚を蹴りだし、林の先へ走り出す。
白虎は悠々とした表情であったが、祈吏に残された選択肢はひとつのみだった。
「……じゃあ、好きにします。自分、狛ノ介さんについていきますので!」
(ヨゼさんの後ろ盾があったとしても、流石に万が一のことが起きうる……!)
――その後、脚に自信があるわけでもない祈吏は、街中を四方八方へ走る白虎を追いかけることになった。
「――きゃあ! 今のなに!?」
「おおい! 逃げ出した虎が暴れているぞ! 誰か捕まえてくれ!」
「――すみません、すみません、ごめんなさい……ッ!!」
猫のように建物や立ち並ぶ屋台の庇の上を飛び乗り飛び越え、走り回る狛ノ介は想像した通り街中の市民から大目玉をくらった。
そんな叫び声に対して目にもくれず、狛ノ介は郊外を目指して駆け抜ける。
祈吏は道中迷惑をかけた人々に謝りながら『あの虎は人に危害を加えないので』と付け足しながら、手に負えない白虎を追いかけた。
――そして、走り辿り着いたのは石碑が立ち並ぶ静かな広場だった。
「っはあ、はあ……! 狛ノ介さん、もう少し周囲に気を配ってください!」
「どうせ夢の中だ。気に掛けるだけ意味ねーだろ」
「意味は……ありますよ」
「……どんな?」
「自分がしたことで誰かが悲しい思いをしたら、嫌な気持ちになりませんか」
「くだらねー。現実ならともかく、何度も言うがここは夢の中だ」
「それは、一理あるかもですが……」
そういった考えがあるにしても――黒須の未練解放のため、協力的な態度を取ってほしい。そんな言葉が喉元まで出かかるが、いまの狛ノ介に対して正論で返していいのだろうかと、祈吏に一抹の迷いが生じる。
何故かというと、夢前世に来てからの狛ノ介の態度が現実とどこか異なる――自棄にも見える振る舞いは、なにか複雑な事情があるのではないかと感じていたからであった。
(真意は分からないけど黒須さんのカウンセリングにも同席して、夢前世に同行してくれたのに……今の狛ノ介さんは、なんだか焦ってるような気がしてならない)
黙りこくっている祈吏を見やり、白虎はどこか諦観した様子で溜息を吐いた。
「人間は己を優先する。獣も己を優先する。そこに違いはねェ。そして、今この身体は『虎』だ」
「夢前世の中だ。俺サマのルールに従わせろ」
「え――……」
その一言を耳にした祈吏に『直感』が駆け巡り――気付けば自然とその言葉を口にしていた。
「何故そうまでして、獣のように振る舞いたいのですか?」
「……それは」
珍しく言い淀む白虎の横顔は、人の目から見ても苦虫を噛み潰したようだ、と感じるもので。
(そういえば、狛ノ介さんは前世の記憶があるってヨゼさんから聞いたけど……それと何か関係があるのかな)
「あの、すみません。黙っているのも申し訳ないので白状します。……狛ノ介さんは前世の記憶があるとヨゼさんから以前伺ったのですが、本当ですか?」
「……だったらンだよ」
不快とも拒絶とも取れない、ぬるい視線が祈吏に向けられる。
「どうってことはないです。ただ、そんな方が本当にいるんだって、驚きはしました」
「……あっそ」
「でもまさか、前世が虎だったとは想像してませんでしたが――」
「虎だけじゃねェよ」
「え……」
やけに冷静な声が言葉を遮ると同時に、一陣の風がふたりの間を吹き抜ける。
「107回。……それが獣として生きた一生の数だ」