2-16話 獣舎の最奥部屋
「薬をどうしているか、ご興味があるとのことでしたよね。ご案内します」
アビは通路の最奥へずんずん歩いていく。
途中アリーナに通じているだろう階段がいくつかあった。その向こうからは歓声と、金属がぶつかり合う音が響いてきて、今も何らかの試合が行われているのだと想像できた。
「こちらの部屋へどうぞ。散らかっていて恐縮ですが、薬の管理についてお見せします」
案内された最奥の部屋――そこは様々な草花が吊るされ、薬品の調合設備が備えられた部屋だった。
「すごい……! この部屋で薬を作られてるんですか?」
「はい。俺の部屋兼薬品の調合室です。もうひとり同室がいるんですが、それがさっきのイバンですね」
片隅には休息用のベッドが2台置かれている。だが部屋の大部分を占めるのは調合台や薬瓶が並ぶ大きな棚など、薬を作るための部屋だと分かる。
地下室だが天井には採光窓があり、室内はほどよい明かりに満たされていて。そんな頭上には吊るされた薬草が連なっており、微かに不思議な香りで満ちている。その光景に祈吏は童話に出てくる魔法使いの部屋を思い出した。
「俺は獣使いの長以外に、闘技場で使用する薬の管理・調合を任されています。いつもはこの部屋にイデアや動物を入れないのですが、今日は掃除をした後なので大丈夫でしょう」
「すごいですね! じゃあ、さっきの鎮静薬もアビさんが作られたんですか?」
「ええ、俺が作りました。元々は師匠がいて、その人から教わったんですがね。獣を管理するのに必要な薬は大体作れます」
自身満々に答えるアビの表情は、この役職に誇りがあることを物語っている。
そんなアビに対して、ヨゼは自然な流れで問いかけた。
「素晴らしいですね。それだと、毒薬なんてものも調合できるのでしょうか?」
すると、アビの揚々としていた顔は一瞬ぴたりと止まったあと、神妙な面持ちに変わる。
「毒薬は作れません。必要になる薬草を奴隷が所有していたら、問題になりますから。奴隷の反乱を招きかねないって殺されてしまいますよ」
アビは冗談交じりに言ったつもりだっただろうが、その一言で『アビが奴隷』という事実が露呈した。
「無粋な質問でしたね。ですが伺えて安心しました」
「はい。厳密に言うと、毒薬は作ろうと思えば作れるのですが、途方もない量の薬草が必要になります。まずそれを用意するのも、全てを相手に飲ませるのも難しいので」
(ああ、なるほど。毒薬を作るのは難しいけど、薬物の大量摂取で中毒症状を引き起こすことはできる、ってことかな)
――その時、背後で扉が開く音が響いた。
「やあ、アビ。お取込み中失礼するよ」
気取った男性の声に振り返ると、そこには明らかに身分が高いと分かる身なりの青年がいた。
真っ白な生地に紫の縁がついたトガを身にまとい、黒くうねった長髪の男性は狡猾な笑みを口元に称えている。彼の訪れに、アビの穏やかだった表情は一変した。
「ティトゥス様……このような場所まで、本日はどのようなご用事で」
「聞くまでもないだろう! いい加減イデアをよこす気にはなったか」
「何度も申し上げますが、イデアが俺以外に従うとは思えません」
緊迫の空気が流れる。
『ティトゥス』と呼ばれた男がイデアを執念のこもった瞳で見つめる。それはまるでギラギラと獲物を狙うような視線で。
(この人、イデアさんが欲しいんだ……やっぱり珍しい虎だから?)
現況を把握しようと祈吏は押し黙っていると、ふとティトゥスの視線がヨゼへ向けられた。
「おや、ヨゼ嬢ではないですか。お初にお目にかかれて光栄です。まさかこんな場所にいらっしゃるだなんて、いかがされたのですか」
「ごきげんよう。私もこちらでティトゥス様にお会いするとは思ってもいませんでしたわ」
「まさか、貴女もイデアが欲しいのですか?」
「とんでもない。獣舎の視察ですよ。そう仰るティトゥス様は、お伺いするにイデアが欲しいようですね」
ヨゼはゆったりとした口調で問う。ところがティトゥスは対照的な興奮した様子で答えた。
「黒真珠の輝きを持つこの虎は僕に相応しいでしょう! こんな闘技場で無駄に血を流すことなく、僕の邸で愛猫として育てたいのです」
なるほど、と言った様子でヨゼが微笑む。傍の祈吏もその言葉は腑に落ちた。
この男はイデアの稀有な見た目に価値を見出している。上流階級の人間ならば尚更、その所有欲は計り知れないものだろう。
「イデアは小さい頃から対戦用に調教された虎です。何度も申し上げますが、そんな危険な虎が俺の元を離れて、大人しく暮らせるとは思えません」
「ええい、そこまで言うなら試してみようではないか! 」
ティトゥスはイデアに堂々とした足取りで近づくと、その首元に腕を回そうとする。
だがその瞬間――イデアは拒絶するかのように首を振り上げ、男の頭上で大きく口を開いた。
「あれ――」
刹那、その場にいた全員の脳裏に大惨事が駆け巡る。
けれど誰よりも早く、その光景を『予感』した者の脚は、咄嗟に動いていた。
「危ないですッ!!」
「ガウウゥン!!」
上下の牙がぶつかり合う音が辺りに響き渡ると同時に、けたたましい音をたてて棚から薬瓶が転げ落ちる。
祈吏は寸でのところでティトゥスの懐に飛び込み、致命傷から守り切ったのだった。
「なっ……なんだお前は! 余計なことをするな!」
「す、すみません……」
薬棚に背中を打ちつけたティトゥスが、自身の腹元に雪崩れ込んだ祈吏を睨みつける。
けれどすぐにその向こう側にある、鋭い視線に気がついた。
「ティトゥス様。貴方は彼女の咄嗟の判断がなければ、いまごろ頭はありませんでしたわよ」
残酷なほど冷たい、令嬢の声がティトゥスに降りかかる。
へたり込んだ祈吏にその表情は見えなかったが、それは見ずとも分かる威圧感で。ヨゼを目前にしたティトゥスは、青ざめ息を呑んだ。
「ッ……! 今日のところは勘弁してやろう。アビ、次に来る時までにイデアの躾をよぉくしておけ」
ティトゥスはそそくさと立ち上がると、何事もなかったかのように去っていった。
「祈吏くん! 大丈夫? 痛いところはない?」
「はい、大丈夫です。ありがとうございます」
「すみません! 本当なら俺がしっかりしていなければならなかったところを、祈吏様に庇っていただいて……イデア! さっきのは流石にやりすぎだ!」
「気付いたら勝手に動いてただけなんで、気にされないでください。イデアさんも突然のことだったんで、きっと驚かれたんですね」
駆け寄ってきたヨゼたちに支えられながら祈吏は立ち上がり、黒虎に語り掛ける。
蒼い澄んだ瞳から感情は見えない。イデアにどういった意図があったのか、人の身である祈吏は読めなかったが――傍らで傍観していた白虎は、とある事実に気が付いていた。