2-11話 獣の蒼い双眸
こちらを睨みつける獅子の瞳と、独特な獣の匂いに気圧された祈吏は思わず後ろへ後ずさる。
「ど、どうしてライオン……!?」
「グルル……」
気に喰わないように喉を鳴らす。よく見てみるとそのライオンは檻に入れられ、出てこられないようだった。
だが初めて間近に見る猛獣の迫力に檻なんてものは無意味で。祈吏は本能的な恐怖から震える膝をなんとか立たせると――反対側の暗い通路から怒鳴り声が響いてきた。
「何で次の試合にイデアが出るんだよ!?」
「今朝出すようにと上からお達しがあったんだ! できるなら俺だって休ませてやりたいさ!」
「イデアが出ればオレたちは喰い殺される! あと少しここで生き残れば出られるかもしれないんだ、それが破られてたまるか!!」
(なんだか不穏な空気がする)
緊迫の空気は焦りを感じるものだった。息を殺して、複数の男たちの声がする方へ向かう。
曲がり角からちらりと顔を覗かせると、そこには1人の男を囲む3人の剣闘士の姿があった。
(あの恰好、洋画に出てくる大昔の剣士みたい……って、本当に刃物持ってる!?)
上半身裸でふっくらとした体型の剣闘士たちは、兜を被り表情こそ見えないが怒りで煮えたぎっているのが分かる。
腰に携えた足の長さとほぼ同じ剣に手を掛けたところで、祈吏に『嫌なカン』が走った。
「今すぐイデアの牢の鍵を渡せ。さもなくばその首を跳ねてやる」
羽のついた兜を着けた剣闘士が剣を抜き出し脅すが、渦中にいる質素な服装の男は頑なに堪えている様子だった。
「鍵を隠してイデアを出せなくするつもりか? お前たちがこんな脅しをする腰抜けである限り、イデアに倒される運命は避けられないぞ」
「っアビ、テメエ……! この場で叩き殺してやる!」
その言葉に剣を構えた剣闘士の空気が変わる。
すぐ近くにいた取り巻きの剣闘士たちも一歩下がり、ものの数秒で剣が振り下ろされるのだと分かった。
(誰か呼んでこないと……!! いや、そんなことしてたらもう間に合わない!)
「だ、誰かー!! ここで争いごとが起こってます! 助けてください!!」
震える声でなんとか叫ぶと同時に、男たちの視線は一斉に祈吏へ向けられた。
「なんだオマエ!! ここは関係者以外入って来れねえのに、どこの所属だ!」
取り巻きの1人が祈吏ににじり寄る。
彼らの視線を集めていたその刹那、首を跳ねられかけている男が目前の剣闘士の股間を大きく蹴り上げた。
「っぐう!?」
「お嬢さん! この鍵を!」
「えっ、ええ!?」
「イデアを俺の代わりに出してくれ!」
丸い鉄製の球が括りつけられた鍵は祈吏の手元に投げられ、反射的にキャッチする。
途端に男たちのターゲットが自身に変わる空気を感じ、祈吏は咄嗟に反対の通路へ走り出した。
「っおいオマエら! イデアが出されたら終わりだ!! 追え!!」
(待って、なんも状況が呑み込めてない……!! ヨゼさんは、狛ノ介さんはどこ!?)
2人が今どこにいるのか、むしろこの夢前世がどんな場所なのかさえ分かっていない。
けれど今はあの鍵を渡してきた男の言った『イデア』という何かを探し出す必要がある。そこに全ての答えがあると、胸の奥底で何かが訴えかけてくる。
追いかけてくる男たちの足音が背後から響いてくる。駆けていく通路ではすれ違いのように様々な猛獣が牢に入れられていた。
イデアと呼ばれたそれが、一体なんなのか。
男たちは何故そこまでして恐れているのか。
その牢の目前まで辿り着いた時、祈吏は全てを悟った。
「もしかして……そんな」
走り辿り着いた突き当り。石造りの天井から陽光が差し込み、牢の中の黒曜石のようにうつくしい獣を照らし出す。
巨体を覆う真っ黒な毛並みと、怜悧な蒼い瞳。
本来全身にあるだろう縞模様は濃淡の異なる黒と混ざり合い、光の反射で微かにそれが『虎模様』だと分かる。
そしてその額には、真っ白な蕾の紋章があった。
「この虎が、黒須さんの前世……」
「絶対にその牢を開けるな!!」
追いかけてきた剣闘士たちが叫ぶ。
その必死な形相に、件の恐れられていた『イデア』という存在はまさに今目の前にいる黒須の前世なのだと脳内で合致した。
(鍵を託してくれた人は、黒須さん――もといイデアさんを出してくれって言ってたけど)
黒虎は獣特有の感情が読めない瞳で祈吏を見つめている。
あの男たちにこの鍵が渡ったらどうなるのか。きっと鍵を隠されてこの牢から黒虎が出るのが難しくなるのは先ほどの会話から想像ができた。