3-30話 恍惚の絶望
「本当にすみません……。自分に読唇術の心得があればと、後悔しています」
ふがいなさから祈吏は俯く。だが言葉は分からずとも、目を見てコミュニケーションを取れるようになったのだ。伊吹の前世の未練を晴らすために、一歩大きく近づいたことに違いはない。そう内心己を励まし、少女に力強く微笑んだ。
「何か、お困りごとはありませんか。もしあれば、是非解決のお手伝いをさせてください」
「……」
少女は目を丸くし、不思議そうに祈吏を見つめる。それは『何故、そんなことを急に言うのか』とでも言いたげに見えた。
「すみません。突然出てきて何か困っていることがないかなんて、驚かせちゃいますよね」
その言葉に少女は首を横に小さく振る。屈んだ祈吏に一歩近づくと、恐る恐る祈吏へ手を伸ばす。一瞬躊躇してから、そっと頬に触れた。
「……全身びしょびしょなのは、何かあったんですか?」
少女は問いかけに答えず、物珍しいものを見つけたかのように夢中で祈吏の顔をぺたぺた触る。
水に濡れているのは、アクシデントがあったわけではないのか――と祈吏が内心安堵したところで、少女がふいに口を開いた。
『ユエリャン』
「え――……」
――少女の口の動きから初めて読み取れた言葉。
覚えのある名が祈吏の脳内に響くと同時に――少女は祈吏の手を引いて走り出した。
「ど、どうしました!?」
祈吏の手を引き、桃の木がある丘を駆け降りると、中庭の奥にある通路へ走り出す。
正規の道とは異なる勝手口から中庭を出ると、迷わずに桃楼宮の中を駆け抜けていった。
――ふたりがいなくなった中庭に、入れ違いで現れた男の三つ編みが揺れる。
そして桃の木の下に落ちている、透明な炎が灯る角灯を拾い上げた。
「……やはり、僕の読みに誤りはなかったようだ」
「どこへ行くんですかっ!?」
桃楼宮を出て、商い通りを抜け、桃の木が連なる草原へとやってきた。辺りに人影はなく、夜空の下で少女の身体は桃の木と同じくぼんやりと光っている。それは辺りに吊るされた提灯や光る桃の木よりも、弱弱しい光だった。
(さっき、多分だけど『ユエリャン』って言ってたよね……。ユエリャンさんのこと、知っているのかな)
中庭で見た少女の呟きを思い出す。ユエリャンの響きは特殊だからこそ、唇の動きで気が付けた。滑らかな会話は読み取れないが、もしかしたら単語であれば幾分か読み取れるかもしれない――そう思い、祈吏は己の手を引く少女の背中を見つめた。
「あの、もしよければゆっくり話してみてもらえませんか! それでしたら、自分にも解るかもしれません」
そう声をかけると、少女はとある桃の木の前で立ち止まった。
繋いでいた手が離れていき、少女は桃の木に駆け寄る。どうしたのかと、じっとその行動を見守っていると、少女は手が届くところにあった1本の細い枝を手折った。祈吏はぎょっとしたが――振り返った少女は意気揚々としていた。
(折っちゃっていいの……!?)
「!」
少女は祈吏の手を優しく取り、手折った桃の枝を渡し、握らせた。
「えっ……自分に、ですか?」
贈り物かと一瞬勘違いした祈吏だったが、少女はきょとんと目を丸くする。その様子からただ『持って欲しい』と言っているのだと分かり、促されるままに受け取った。
「これで、いいのでしょうか」
「!」
少女が大きく頷く。桃の枝を握る祈吏の手に、白く細い指が重なる。見上げる蒼い瞳に吸い込まそうだと、思った瞬間――枝の先に透明な炎が灯った。
「これは……火?」
枝の先の景色が揺らめく。祈吏が見慣れた赤や青の炎ではない。昔、理科の授業で温度が高い炎は色がないと教わったことがあるが、もしそれだったとしても一体なぜそんな代物が瞬く間に灯ったのか。
これもこの少女の力なのか――そう思案しながら、少女へ視線を移す。そこには目を輝かせ、炎をうっとりと見つめる眼差しがあった。
「……!」
「あっ! 待ってください、そんな振り回したら危ない――」
――一瞬の出来事だった。
少女は祈吏の手の中から枝を抜き取り、天へ大きく振りかざす。
そして、制止の声を聞き入れることなく――炎が点いた枝を、桃の木へ思いきり投げた。
「えっ……ええ!?」
炎は瞬く間に桃の木全体を覆いつくす。桃の花の淡い光と混じり合い、その時だけは透明な炎も微かに色づいて見えた。
「……」
少女が振り向く。薄桃色の猛火を背負った少女は恍惚とした笑みを浮かべている。そして、ゆっくりと唇を開き――祈吏は目を見張った。
『わたしを 燃やして』