3-29話 ずぶ濡れの姫
(何が起きたの……!?)
吹き荒れる花びらに思わず顔を下げた。そして風が去り、何事もなかったかのようにその場は静まり返る。
けれど、何かがおかしい。まず気付いた違和感は、辺りが潮の香りで満ちていたことだった。
(なんでだろう、どこからか海岸の匂いがする……あれ)
ふと顔を上げると、桃の木陰に人影が見えた。
祈吏の心臓が痛いくらいに跳ね上がる。その姿を見せて欲しいと願いはしたが、いざ本当に見えるとなると――その一歩を踏み出すのに勇気がいる。
(ここで怯んじゃだめだ。今までも大丈夫だったし、それに……伊吹さんの前世の方なら、きっと恐ろしい人じゃない)
意を決して勢いよく立ち上がる。その拍子に腰に着けていた角灯が外れ、その場に転がった。祈吏はそれに気が付くことなく、小高い丘の向こうにいる人影へ慎重に歩み寄る。
一歩一歩進む毎に鼓動が速まる。そして、ついには桃の木の目前まで辿り着いた。
(あ――……)
そこには全身ずぶ濡れの、桃色の長い髪をした少女がいた。
空を見上げ、何かを呼ぶように大きな口を開けている。その姿はまるで、歌っているようにも見えたが――白い頬に伝う涙で、泣いているのだと分かって。
「あの……どうされましたか?」
恐る恐る祈吏が声をかけると、その少女はびくりと肩を揺らし、静止した。
頭の後ろでリボンのように結われた髪が小刻みに震える。そして、そおっと祈吏の方へ顔を上げた。
「あなたは――……」
――濡れた前髪の下には、白い蕾の紋章がある。大粒の涙が溜まる蒼い瞳と視線が合った。
(――この人だ。伊吹さんの前世で間違いない)
今までこの空間に他の人はいなかった。そこに突然現れたとなると――やはり、伊吹の前世は人ならざる、目には視えない存在だったのだ。言いようのない緊張と興奮で眩暈がしたが、悟られないように息を呑む。そして、静かに口を開いた。
「驚かせてしまったらすみません。初めまして――」
「――……!!」
少女は薄桃色の華服を翻し、桃の木の裏に隠れる。警戒するかのように怪訝な表情で、そおっと顔を覗かせた。
(確かに、突然声を掛けられたら驚くのも無理はないか……よし)
背は祈吏の腰くらいまでしかない、小さな女の子だ。祈吏は恐がらせないようにと、屈んで同じ目線になる。
「自分は祈吏と申します。最近ここの桃楼宮に仕えることになりました。……どうやら悲しいことがあったように見えますが、何かお困りですか?」
「…………」
少女は答えづらそうに眉を下げる。けれど祈吏に敵意がなく、これ以上近付いてこないと分かると、おずおずと木の裏から出てきた。
(あれ……どことなく、卯月さんに似ている)
顔立ちに見覚えがあった。幼くはあれどその柔らかい目元や端正な顔立ちは、この桃源郷の神であり母と言われた卯月を彷彿とさせる。大きく違う点と言えば、やはり桃色の髪と蒼い瞳だろう。まるでおとぎ話に出てくる花の姫のような様相をしていると祈吏は思った。
少女は一歩祈吏に近付き、上目がちに見る。ふいに確認するかのように己の目を指さすと、次に祈吏を指さした。
(見えているの?って聞いてくれてるのかな)
「はい。見えています」
そう答えると、少女は目を見開き、嬉しそうに口元を両手で抑える。その様子は無邪気な子供のようで、祈吏は今までの緊張感和らいでいった。
「! ――……!」
「あれ……」
ぱくぱくと口を動かし、身振り手振りで何かを訴えかける。その様子を見て、祈吏が今まで感じていた違和感の正体に気が付く。
(声が出ないんだ……。そういえば、現実の伊吹さんも夢遊病が出てから声が出なくなったって言ってたな)
もしかしたら関係がありそうだ、と思考していると、何かを話しかけていた少女が言葉が通じていないのだと気が付き、しゅんとしてしまう。それを見た祈吏は慌てて声を上げた。
「ご、ごめんなさい! 何があったのか、教えてくださってるんですよね。……もう一度、教えていただけますか?」
その言葉に少女は明るい表情になり、大きく頷くと先ほどと同じ動作を始める。――だが、挙動や口の動きから読み取ることは難しかった。