第1話 ~ミネアに一体、何があったの……っ~
冷たい風を頬に受け、ノイシュは顔を上げた。空には濃い色の雲が立ちこめていくのが見える。先ほどまでは陽が差し、青空も見えていたのに――
「もう煮えたんじゃないかい」
不意に嗄れた声が耳に届き、ノイシュが顔を向けると既に老境に入ったであろう男性がそこに立っていた。その身なりは決して清潔な格好ではなかったが、その温かそうな雰囲気から率先して清貧に甘んじているであろう事が読み取れた――
「はい、ヒクトさん」
そう返事をして火にかけた鉄鍋から大きな木蓋を開けると、忽ち熱い蒸気が顔中に立ち込めてきて思わずノイシュは顔をしかめた。やがて白い靄が立ち消えて姿を見せたのは、小気味良く音を立てる赤い汁と色とりどりの野菜や粉団子だった。不意に香辛料の香りが周囲に広がっていき、思わず食欲を刺激されてしまう――
「わぁ……っ」
正面から歓喜の声が上がり、ノイシュが顔を上げると一人の少女が弟らしき男児を連れながら自分と同じように鍋の中身を見つめていた。十歳にも達していないであろう彼女の服装はあちこちが薄汚れ、擦り切れている。しかしお世辞にも清潔と呼べない身なりの者は彼女だけではなかった。彼女の後方には同じ様な姿をした人々が長蛇の列をつくっている。きっと長い戦争により故郷を追われた者や、親を失って孤児となった者達なのだろう――
ノイシュは眼を細めながら掬い道具を手に取り、鍋の中へと沈めていった。そのまま煮汁とともに具材をたっぷりと汲み上げ、脇に置かれた木製の器の中へうつしていく。
「熱いよ、気をつけて」
ノイシュは匙を添えて汁椀を二つ少女に差し出す。自分の掌が僅かに震えていた――
「ありがとう……っ」
少女は無邪気にそれらを受け取ると、もうこちらには目もくれず去っていく。放っておかれた男児が、慌てて頼るべき相手へと駆けだしていくのをノイシュは静かに見据えていた。
「可愛いねぇ……」
ヒクトの声を聞きながら、ノイシュはゆっくりと頷いた。
「……えぇ、本当に」
「すまないね。あんたのお陰だよ」
そう告げる翁の声にノイシュが顔を向けると、深く頭を垂れていく彼の姿をとらえた。
「あんたがあれだけのお金を出してくれたから……今日、みんなに施しができたよ」
ノイシュは清貧の翁に向かって素早くかぶりを振った。
「いえ、そんな――」
「おいっ、早くしてくれッ」
直後に頭上から銅鑼声が差し込まれ、仰ぎ見ると初老らしき汗臭い大男が苛立たしそうにこちらを睨んでいた。
「次は俺の番だぞ、こっちは腹ぺこなんだ」
「あ、すみませんっ」
ノイシュが慌てて次の汁物を男に差し出すと、不意に視界の隅から馴染みのある顔がこちらへとやってくるのに気づく。修道士が身につける丈の長い衣服、後ろ毛を高く結んだ黒い髪、整った顔の半分を深い青紫の痣が覆っていた――
「ビューレ……」
回復術の使い手でもある少女は何も言わず、ただ物憂げにその金雀色の瞳をこちらに向けていた。
× × ×
ノイシュは二つの杯を持ちながら煉瓦で作られた花壇へと向かい、そこで腰掛ける修道士の少女へと近づいて行った。立ちこめた鈍色の雲は消えるどころか、ますますその色彩を深めている。手にした杯から伝わる温かさが心地良かった。
「口に合うか、分からないけど」
そう告げてノイシュが手にした杯の一方を差し出すと、ビューレがこちらを見上げながら両手でそれを包む様に受け取った。
「ありがとう」
ノイシュは彼女の隣に腰掛けてその様子を窺うが、飲み物に視線を落とす少女からはうまく感情が読み取れなかった。
「ごめんね、ずいぶん待たせちゃって」
「うぅん、謝ることなんてない。ただ……」
不意にビューレは遠慮がちに顔を上げた。
「ただ、少し驚いて……ノイシュが街の施しに加わっているなんて」
控え目だが真っすぐ問いかけてくる彼女の眼差しに、ノイシュは正視できないものを感じて視線をそらした。
「いや、ほんの成り行きなんだ。数日前に乞われるまま少しだけ寄付をしたら、向こうからぜひ施しにも来て欲しい、って……」
そう告げるとノイシュは緊張を和らげるべく杯をあおる。果実と乳を煮て作った飲料は甘みが強く、喉を通り抜けていくと次第に呼吸が落ち着いてくる。するとノイシュは先ほど自分の放った言葉が不親切である事に気づく。自分を心配してくれる彼女に対し、本心を隠してはダメだと思う――
「……僕の父さんは孤児を見つけると、すぐに引き取ってしまう人でね」
ノイシュはゆっくりと杯に視線を落とした。中に入った液体が微かに揺れている――
「ずっと僕はあの子達と暮らしてた。だから、寄付や施しをどうしても見過ごせなくて……」
「優しいね、ノイシュは」
「ビューレ……」
ノイシュはゆっくりと顔を上げた。眼前の彼女は静かに微笑みをたたえていたが、やがて表情を曇らせて俯いた。
「本当は修道士である私の方こそ、皆さんに奉仕しなければいけない立場なのに」
「そんなこと……グロム河の戦いでも君は、マクミルを助けようと懸命に手を尽してくれたじゃないか」
不意にグロム河から退却した時の情景が脳裏を掠め、ノイシュは眼を細めた。深傷を負ったマクミルは退却の最中に何度も生死の淵を彷徨い、その度にノヴァとビューレが術連携による生命維持を行ってどうにか聖都まで持ちこたえさせた――
「ビューレのおかげで、隊長は助かったんだ。僕からもお礼を言うよ」
ノイシュがそう告げて回復術士の少女に眼差しを向けると、彼女もまた眉尻を下げながら微笑んでいく。
「ありがとう、ノイシュ……」
「マクミルはもう大丈夫なの」
思わずノイシュが言葉尻を震わすと、回復術士の少女はゆっくりと首を縦に振った。
「うん、もうほとんど回復してる」
「そっか……よかった」
「きっとヨハネス様との面会もできると思う」
「ヨハネス校長と……っ」
彼女の言葉を聞き、ノイシュは眉頭をひそめて眼前の少女を見据えた。
「それって、どういう――」
「実はノイシュに、伝えなきゃいけないことがあって」
不意にビューレがまっすぐにこちらを見据えてきた。
「昨夜に再度ヨハネス様からお呼びがあって……大神官廟堂の鐘が十三回鳴る刻限になったら、大神官様のお屋敷へ来るようにと」
――ヨハネス様が、また僕達を呼び出す……っ
彼女の言葉を聞き、ノイシュは思わず眉尻を上げた。廟堂の鐘が十三回鳴るという事は、ヨハネスは陽が昇り切った頃に向かわなくてはならないという事だ。しかし、一体なぜ――
「ビューレ、大神官様はどうして……」
思わずそう発した言葉を聞き終わることなく、ビューレが素早くかぶりを振った
「理由は分からない。ただヨハネス様が使者を隊長の所へ寄越したらしくて」
「そうだったんだ……」
ノイシュは頷きながらも大神官ヨハネスが訪問する理由を逡巡した。
――もしかしたら、本当に処罰が下るのかも知れない……
思わずノイシュは眉間に皺を寄せた。本来グロム河で敗走した自分達は公爵が定めた処罰を受けることとなってもおかしくはない。この国難に際して引き続き祖国に忠誠を誓い、引き続き軍務に服すという条件で自分達は刑を留保されているだけなのだ。とにかくヨハネス校長本人と会って、話を聞かなけば――
「分かった、僕も後で行くよ」
そう告げてノイシュが腰を浮かせようとした直後、不意にビューレが掌を重ねてくる。とっさにノイシュは目を見開いて彼女を見据えた。
「どうしたの、ビューレ――」
「お願い、ミネアの事を聞かせて……っ」
彼女の言葉を聞き、ノイシュは自分の胸中に苦いものが広がっていくのを感じた。一瞬、静寂が周囲を支配した――
「どうして私達には、何も話をしてくれないの。ミネアに一体、何があったの……っ」
「それは……っ」
ノイシュはそれだけ言うと彼女の手から逃れ、ゆっくりと唇を噛んだ。話さないのではなく、話せなかった。義妹のことが脳裏に浮かんだ途端、胸の奥で灼ける様な疼痛が広がっていく。ノイシュは息を吐きながら懐に手を入れると、掴んだ物をゆっくりと引き出した。掌の中にあるのは千切れた念珠石の破片を繋ぎ合わせものだ。たったこれだけを残し、彼女はいなくなった――
「……ミネアは、消えていったよ」
ノイシュがそう呟くと、不意に水滴が頬を打った。とうとう降り始めたらしい。冷たい雨粒が次々と降り注いでいき、身体を濡らしていく――
「悪魔の様な姿になっても、僕を助けようと……っ」
雨脚がさらに強くなっていくものの、ノイシュは動く気になれなかった。義妹のいない世界で、僕はどうやって生きていけばよいのだろう――
「なのに、僕は彼女に何もできずに……」
「ノイシュ……ッ」
不意に傍らから嗚咽する声が聞こえ、ノイシュは顔を向けた。眼前では少女が顔を両手で埋め、肩を震わせている。その細い指の隙間からは雨粒ではない滴が溢れていた――
――ビューレ……
ノイシュは強く目を閉じた。そして決して消えることのない胸の奥にある火傷の様な痛みに、そっと蓋をしていく――
「ごめんね……」
ノイシュは静かに両眼を開けると、修道士の少女へと微笑みかけた。
「帰ろう。風邪を引いちゃうよ」
~登場人物~
ノイシュ・ルンハイト……主人公。男性。ヴァルテ小隊の術戦士で、剣技と術を組み合わせた術剣の使い手
ビューレ・ユンク……ヴァルテ小隊の隊員であり、術士。また修道士でもある。女性。回復術の使い手
ヒクト……男性。